「アキ兄ちゃん、何て失礼な事を!」
「失礼なのは奴だ! 人の妻に手を出しやがって!!」
「違うて、私を慰めてくれただけやで!」
そう言った瞬間、麗は強く抱きすくめられた。
「……アキ兄ちゃん?」
「何度言わせる? 俺はお前の兄じゃない」
その声は怒りに満ちていて、腹の底が冷える感覚がした。
「麗」
名前を呼ばれただけで、鼓膜が震える。
自分の心臓の音が聞こえ、少しでも動いたら死んでしまう気さえするくらい速い。
「麗」
明彦の目が本気だと語っている。本気で逃がす気はないと。
「ヒっ」
突然、首筋を噛まれた。
痛みは一瞬だったが、それでも恐怖が襲ってくる。
喉がカラカラに乾いていつもの軽口が出てこない。
明彦を怖いと感じたことが、これまでにあっただろうか。
兄ではないと口では言うが、これまでと変わらず、いや一層甘やかされてきただけだった。
それが、今、兄ではなく男なのだと思い知らされようとしているのだ。
「ほんまに、ちゃうねん。お婆様の日記を見つけて……」
「そうか。今、初代社長の功績を見直すため伝記を作ろうかという話になっているからちょうどいい」
違う。そんな事を言われたいのではない。
「角田君は、その、日記を読んだ私が、泣きそうになってたから、慰めて、くれただけで、浮気とかじゃ……」
麗の言葉はたどたどしかった。
本当は明彦に慰めて欲しい。察して欲しい。どんな内容だったのかと日記の事を聞いて欲しい。いつもみたいに優しくして欲しい。
「それが苛立つんだと何故わからない」
「え?」
明彦が甘やかしてくれることを当たり前だと図々しくも思い込んでいたことを、そうではないとはっきりと突きつけられて、麗は息を呑んだ。
「角田の前で泣くなよ! 麗音の代わりにするなら俺だろう!」
初めて、明彦にむき出しの感情をぶつけられたきがした。
「な、に言って……」
「そもそもお前は、麗音、麗音、麗音って、麗音が麗を助けたのはたった一回だけだろ! しかも、あいつにも思惑があってやったことだ。ずっとずっと、そばにいて守ってきたのは俺だ! そうだろう!?」
『あのクソ親父も愛人に子供まで産ませるとはね、ほんと、厄介だわ』
ため息交じりの姉の声が頭の中で響く。
かつて、明彦と姉が話していたのを盗み聞きしてしまった、あのとき……。
「やめて」
麗という人間の根幹が揺らぐ。
姉は麗のすべてだ。だから、あのときの言葉は忘れることにしていた。
そう、忘れたのに。
「姉さんは……、私のすべて」
声は震え、いつものように堂々と言えない。
(姉さん、姉さん、姉さん。助けて。姉さん)
「麗音は来ない。損得勘定なしにお前を助けたりしない」
明彦の言葉の意味が頭に入ってこない。
「やめてよ……なんで、そんな酷いこと言うん。姉さんは明彦さんの親友やろ?」
麗は明彦を直視できなくなり、視線を彷徨わせた。
「だからこそだ。あいつのことはお前よりよくわかっている。目をそらすな、麗! 俺を見ろ。俺だけを見ろよ!」
両腕を痛いくらいに捕まれ、真正面を向かされる。
涙が頬を伝う感覚がした。
「っ!」
息を強く吸った明彦の手が顔に近付いてきて、麗はギュッと目をつぶった。
少し間を置いて、指で涙を拭われる。
「……悪い。嫉妬して大人げのないことを言った」
麗には明彦の大人げがなかったという言葉は、つまり、麗は対等な大人ではなく幼い子供だと思っているという意味に聞こえた。
「ごめんなさい」
うつむいて謝罪すると今度は目を合わせるよう強要されなかった。
「麗が謝ることじゃない。悪いのは俺だ」
麗はふるふると首を横に振った。
「あの、私、帰るね。終業時間だから」
言い訳にもならない言い訳をして麗は明彦から離れたのだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!