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(ふざけるな)
胸の奥で熱が走る。
管理官が告げた。
「現行規定では、帝辛の魂はこの保存主流へ合流する」
還る? これに? この地獄に?
縫季は管理官を睨んだ。
「……これが、統合先だと言うのか」
管理官は頷きすらしない。ただ、告げる。
「現行規定では、そう扱われる」
縫季は喉の奥で笑いそうになった。笑えるわけがないのに、笑いそうになる。
白い霧の向こうで、帝辛がまた涙を零していた。
(あいつは……あの日、最後まで……目を逸らさなかった)
縫季の肺が震える。
失うと知りながら、それでも見ていた。王太子として、ひとりの男として、全部受け取って、視線を切らなかった。
その魂を――また泣かせるのか。
縫季は管理官を見た。
「……これが規定か」
管理官は静かに答える。
「規定だ」
規定。そんなもので、帝辛がこんな地獄に戻されるというのか。
縫季は息を吐いた。吐きながら、胸の奥で言葉が生まれる。
(そんなこと、許せるものか)
涙に沈む帝辛の姿が、花壇の枯れた花が、飢えた市場の民が、縫季の決意を燃やしていく。
縫季は一歩、香の海へ踏み出した。
「管理官」
声が低く落ちた。
「……俺は、こんな線を選ばない」
白い霧が揺れた。管理官が何かを言おうとした瞬間――
帝辛の涙が、霧の中で揺れていた。揺れて、消えない。何度目を逸らしても、縫季の視界の奥に貼りつく。
(……戻す? これに? あいつを?)
胸の奥が、やわらかいところから裂けていく。冷たい痛みではない。熱い。熱すぎて、呼吸が形にならない。
管理官が言った。
「縫香官。香が乱れている」
その呼びかけが――縫季の何かを完全に折った。
縫季は、振り返った。縫季の表情が、何かの形を失った。
管理官は、記録盤へ手を触れた。
「職員識別符号・第五八層第六九二七号。私情による任務逸脱を確認した。縫香官権限を一時停止する。統合域から離れろ」
普段は名で呼ぶ管理官が、符号を使った。
縫季という魂ではなく、職務記録上の一機能として扱う。その切り替えが、どんな罵声より冷たかった。
その瞬間、縫季の手足が震えた。
規定に従うこと。記録と照合すること。感情を誤差として退けること。
縫季の始まりは、人間として生きた一人の魂だ。その魂が縫香官という職務を選び、長いあいだ自分自身を役割の内側へ押し込めてきた。
(権限を失えば、もう針は持てない。けれど、俺の魂まで消えるわけじゃない)
わかっている。嫌というほど、わかっている。
けれど。
縫季の胸で、別の声がぶつかった。
(……嫌だ)
短くて、心臓の形をしている声だった。
(嫌だ。あいつをこんなところへ返すくらいなら……)
「俺は……」
縫季は胸を掴んだ。指先が食い込む。
「俺は、縫香官だ」
一度、息が詰まる。
「……でも、その前に」
縫季は顔を上げた。
「一人の魂だ」
香が乱れる。足元の白い海がざわついた。
管理官が目を細める。
「縫季、香を鎮めろ。ここで魂の合流へ手を出せば、お前自身の接続も保たない」
縫季は笑った。自分でも、怖い笑いだと分かる。
「……そんなもの、とっくの昔に踏み越えた……」
管理官が制止機構を起動する。
記録盤の光が縄になり、手足に巻きついた。
霧が縫季の手足に絡みついた。足が止まった。
背骨まで冷たさが食い込む。
縫季は歯を食いしばった。
「やめろ……離せ……!」
管理官の声は変わらない。
「権限停止中の職員に、魂の合流先を変える裁量はない」
縄がさらにきつくなる。香の柱が縫季の背を押しつけ、動きを封じる。
縫季の呼吸が荒くなった。
「裁量……? ああ、そうだ。俺は規定の中でしか針を持てない職員だ」
視界が揺れる。帝辛が泣いている姿が、何度も反射のように映り込む。
「でも……!」
縫季は頭を上げた。目の奥が熱で割れそうだった。
「規定より先に、譲れないものがある」
声が掠れる。
「……あいつの笑顔を、知っている」
制止の香縄が軋む。機構の処理が追いつかない。縫季の香が暴れている。
「縫季、止まれ」
「できない……!」
縫季の叫びが、香の海を震わせた。
白い波が跳ねる。制止の香縄が軋む。季帛として生きた頃から抱えてきた心が、一気に浮上して暴れている。
(あいつを……もう泣かせるな……!)
縫季の指先が、震えて開いた。
保存主流の奥で――帝辛の魂が脈打っていた。
管理官の声が、はっきりと警告に変わる。
「縫香官。それ以上は――禁忌だ」
縫季は、笑った。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、職務と一人の魂の境目が壊れたような笑いだった。
「禁忌?……そんなもの知ったことか」
香縄が弾けた。
縫季が一歩、香の海へ足を踏み入れる。
コメント
1件
読み終えました……。縫季の「規定より先に、譲れないものがある」って台詞、胸に刺さりました。管理官が符号で呼ぶ切り替えの冷たさも、縫季の笑顔が怖いのも、全部が重くて熱かったです。涙でぐしゃぐしゃのまま禁忌を踏み込む決意、本当に綺麗で苦しかった……。次が気になりすぎます🌙