テラーノベル
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足元の白い海が、揺れていた。揺れながら、深いところから光が浮き上がる。帝辛の魂の鼓動と、縫季の内側の何かが呼応している。
管理官が言う。
「縫香官。禁忌に触れる前に戻れ」
声はいつもと同じ平坦さなのに、どこか、ほんのわずかに揺れていた。
縫季は振り返らない。
胸の奥で、確かに脈打つ気配がある。灯台に属するあいだ人界の寿命から離れていた魂の、どこか深いところ。そこが微かに痛む。
(……俺の体が、変わっていく)
規定へ接続されていた職能回路。それが、「人界へ移る」という選択に伴って、ひとつずつ外れていく。
息が荒い。香の循環が乱れている。任務用の仮身なら空気を必要としないはずなのに――肺が震えている。
(これは……『人間』の感覚……?)
胸が痛い。脈がある。限りがある者の痛みだ。
懐かしい。
灯台の任務手順で編まれる仮身の、薄い感覚とは違う。
管理官の背後で、記録盤の光が揺れた。縫季の香が縄を焦がすたび、その揺れは深くなる。
管理官が、低く言う。
「縫季。それ以上進めば、灯台との職能接続が切れる。魂を崩さず人界へ定着させるには、緊急有限化しかない」
縫季は笑った。
「……なら、それでいい」
管理官の背後で、記録盤の光がわずかに薄れた。
管理官は、目を伏せた。
「有限化は罰ではない。人界の時間へ魂の在り方を移し、寿命と死を負わせる処置だ。本来なら審理と本人の意思確認を経る。今ここで進めば、その手順を踏めない」
「俺の意思は、いま聞いただろ」
「緊急時の一言だけで決めてよいことではない」
管理官の声に、初めて迷いが混じった。
「私は……任務照合を誤ったのかもしれない」
縫季の足が止まる。
管理官が、自分の判断を口にすることなどほとんどない。
「『近い場所』の魂を選びすぎた。縫合の効率を優先して……お前の根を、照合値の一つとしてしか見なかった」
白い霧が縫季の胸を通り抜け、過去の影を揺らした。
殷の源流に近い土地で、王の言葉を記していた生前の景色。
(……ああ、だからか)
近い場所。近い魂。香の縫合が自然に成立する距離。
それは同時に、「誰より踏み込んでしまう危険」そのものだった。
縫季はつぶやく。
「……最初から、近すぎたわけだ」
管理官は否定しない。
「お前は、どの縫香官よりも王太子の『香』に引かれやすかった。この任務には――近すぎる魂だった」
縫季は、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。
近すぎる魂。それでも担当に選ばれた魂。縫合の効率を優先した、古い灯台の割り当て。
管理官は言う。
「私は……お前へ要請するべきではなかったのかもしれない」
縫季は、涙で笑った。
「遅いんだよ。そんなこと、今更言われても……遅い」
帝辛の涙が、白い光の向こうでまた零れた。
縫季は、香縄を振りほどくための力をためた。胸の奥の鼓動が早い。早いということ自体が、恐ろしいほど人間的だった。
管理官が言う。
「縫季、戻れ。それ以上は、本当に寿命と死を負う」
縫季は振り返る。声が震えていた。
「寿命ができる? 最高だろ」
管理官の肩が、わずかに震える。
縫季は、ゆっくりと言った。
「有限なら……同じ目線で、あいつを守れる」
制止の香縄が強く縫季を締めつけるが、縫季の香が逆流して縄を焦がしていく。
管理官が声を落とした。
「……お前は、死ねるようになる」
縫季は微笑む。
「もう壊れてる」
そして――手の中の光が、脈打った。
帝辛の魂だ。
縫季は、その小さな光に指先をかけた。
管理官の声が裂ける。
「止まれ、それに触れるな! 保存主流から魂を分離させれば――」
縫季は、言葉を強く押し出した。
「預かるだけだ」
香縄が、一気に弾け飛んだ。
白い海が縦に裂け、魂の光が縫季の掌へ吸い込まれるように飛び込む。
管理官の叫びが白い世界に響いた。
「やめろ!お前はもう――戻れない」
縫季は、涙を流しながら、笑った。
「……戻らなくていい」
帝辛の魂が、縫季の胸の奥へ静かに溶けていく。
熱い。痛い。でも、確かに『生きている』と感じた。
縫季は、管理官に背を向ける。
「俺は、この魂が笑える場所を……探す」
管理官の背後で、記録盤の光が揺れる。
「確認する。審理を待たず、有限の命へ移ることを、お前自身が選ぶのか」
縫季は、息を吐いた。
「……ああ。俺の意思だ。記録しろ」
「こいつを泣かせる世界線には、二度と返すものか」
光が縫季の足元で波打ち、次の世界線が開き始める。
管理官が、最後に静かに呟いた。
「……記録する。職員識別符号・第五八層第六九二七号。縫香官権限停止。本人選択による緊急有限化。任務領域外へ離脱」
縫季は振り返らない。
振り返れば、迷うから。
白い海が裂け、縫季は帝辛の魂を抱いて――世界線の荒波へ飛び込んだ。
#中華ファンタジー
Hp2
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コメント
1件
第57話、読み終わりました…っ🥀 管理官が「近すぎる魂だった」って口にした瞬間、もう胸がぎゅっとなった。縫季はずっと、それに気づかないふりして任務を全うしてたんだね。責任と情が混ざりすぎて、もう戻れないとこまで来てた。 「有限なら同じ目線で守れる」って縫季が言ったとき、涙が止まらなかった。寿命を負うことを選ぶって、本当はすごく怖いはずなのに、それでも「最高だろ」って笑うところが、痛くて綺麗で。 帝辛の魂を預かって、世界線の波に飛び込むラスト、もう言葉にならない…。縫季、絶対にこの子を幸せにしてあげてほしい。Hp2さんの書く「選択の重さ」が、今回も心に刺さりました。