テラーノベル
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北海道、帯広市。
日本有数の日照時間を誇る十勝平野にも、短かった夏の終わりを告げる、冷たい秋風が吹き始めていた。
「……ふぅ。やっぱ帯広の秋は、空が高くて気持ちいいな」
俺は、築三十年のボロアパートのベランダで、大きく伸びをした。
四十歳の身体には、季節の変わり目の冷えがダイレクトに関節へ響く。
だが、あの『V-Breaking』の熱狂と、法人化(会社設立)に伴う夏の狂乱を乗り越えた今の俺にとって、この冷たい風は心地よいクールダウンのようでもあった。
『ルシフェル社長。外気で身体を冷やすのは推奨いたしません。四十肩の悪化、およびぎっくり腰の再発リスクが高まります。早急に室内へ戻り、次回の配信の企画書をご確認ください』
部屋の中に置かれたPCから、ディスコード越しにアシスタントの結愛(ゆあ)の冷徹な声が飛んでくる。
「わかってるよ結愛。ちょっと秋の風情を楽しんでただけじゃねえか。……ヨモ、お前も外は寒いだろ? 部屋に入るぞ」
俺の足元で『にゃーん』と鳴いていた茶トラ猫のヨモを抱き上げ、サッシを閉める。
株式会社インフィニティ・ワンを設立し、俺が代表取締役社長・秋谷雪(あきやゆき)となってから、数ヶ月。
データ至上主義の冷徹なマシーンになろうとして失敗し、「やっぱり俺はただの泥臭い四十歳のおっさんだ」と素を曝け出してからというもの。
俺の配信(ルシフェル和尚のチャンネル)は、かつてないほどの安定期に入っていた。
無理に横文字を使ってイキることもなく。
ただ帯広の四畳半で、みそラーメンをすすり、鈴木さん(ケースワーカー)の影に怯え、四十歳のリアルな愚痴をこぼす。
そんな『等身大の底辺社長』の姿が、逆にリスナーたちの心をガッチリと掴み、毎回の同接は安定して数万人をキープ。
メンバーシップの登録者数も、右肩上がりで増え続けていた。
「……平和だ」
俺は三万円のゲーミングチェアに深く腰掛け、熱いほうじ茶をすすった。
「社会保険料のバカ高さには毎月泣きそうになるけど、まあ、売上自体は安定してるからな。このままいけば、初年度から黒字で着地できそうだ」
『はい。ルシフェル社長の「哀れなおっさんムーブ」は、現在の市場において独自のブルーオーシャンを形成しております。このままのペースを維持できれば、来年の納税資金もなんとか確保できる見通しです』
結愛のタイピング音が、心地よいリズムで響く。
「よし! じゃあ今日は気分がいいから、晩飯はスーパーの半額弁当じゃなくて、ちょっと奮発して豚丼のテイクアウトでも買ってくるかな!」
俺は上着を羽織り、財布をポケットに突っ込んだ。
「ついでに一階のポストも見てくるわ。どうせピザ屋のチラシか、水道料金の明細くらいしか入ってねえだろうけど」
『いってらっしゃいませ。経費で落とせる領収書は、必ず宛名を「株式会社インフィニティ・ワン」でもらってくださいね』
結愛の釘刺しを背中で受けながら、俺は鼻歌交じりで四畳半を出た。
ギシギシと鳴る、鉄張りの外階段を降りる。
帯広の秋の空気は澄み切っていて、遠くに見える日高山脈の稜線が、夕日に照らされて美しく輝いていた。
「あー、マジで平和だ。会社作って正解だったかもしれないな。社長って響きにも慣れてきたし」
俺は、すっかり一国一城の主気取りで、アパートの一階にあるサビだらけの集合ポストの前に立った。
自分の部屋番号のダイヤルを回し、ガチャリと扉を開ける。
「さてさて、何が入ってるかな〜。おっ、やっぱりピザ屋のチラシだ。あとこれは……ネット回線の広告か。即ゴミ箱行きだな」
不要なチラシをバサバサと手繰り寄せていると。
そのチラシの束の間に、何やら『異質な重み』を持つ物体が挟まっていることに気がついた。
「ん……? なんだこれ」
俺は、それを取り出した。
チラシとは違う、しっかりとした上質紙の感触。
そして、一般的な定形郵便の封筒よりも、二回りほど大きく、そして分厚い『茶封筒』だった。
「なんだ、この分厚さ……。カタログギフトでも届いたのか?」
俺は、夕闇が迫る薄暗いアパートの電灯の下で、その茶封筒の『差出人』の欄に目を落とした。
そこに印字されていた文字を見た瞬間。
俺の心臓は、まるで氷水をぶっかけられたように、ドクンッ!! と激しく痙攣した。
「…………えっ?」
俺は、自分の目を疑った。
薄暗い電灯の光を頼りに、もう一度、その文字を凝視する。
間違いない。
明朝体の、お堅くて、一切の感情を排したような、その恐ろしい六文字。
【帯広税務署】
「……は?」
俺の口から、間抜けな音が漏れた。
帯広、税務署。
税務署。
ぜ・い・む・しょ。
「な、なんで……っ!?」
俺は、その分厚い茶封筒を両手で持ったまま、その場にガクガクと膝から崩れ落ちそうになった。
税務署からの封筒。
それは、個人事業主や法人成りした新米社長にとって、死神の鎌を首筋に突きつけられるのと同じ意味を持つ。
「なんでだ!? 俺はちゃんとインボイスの登録もしたし、法人の設立届も出した! 確定申告だって、ジェミニ先生と結愛に手伝ってもらって、一円の狂いもなく出したはずだぞ!!」
パニックに陥った俺の脳内で、最悪のシナリオが猛スピードで回転し始める。
(まさか……『V-Breaking』の優勝賞金一千万円が怪しまれたのか!?)
(それとも、あの三万円のゲーミングチェアを全額経費で落としたのがバレたのか!?)
(いや、待てよ。まさか、過去に遡って、俺が底辺時代にウーバーの配達で稼いだ小銭の申告漏れを突いてきたのか……!?)
手の中にある茶封筒が、まるで爆弾のように熱く、そして重く感じられる。
普通、税務署からの単なる「お知らせ」であれば、薄いペラペラのハガキか、せいぜい普通の定形封筒で来るはずだ。
しかし、今俺が持っているのは、何枚もの書類が詰まっているであろう『分厚い角形封筒』。
「ぶ、分厚い……。これ、絶対にただのお知らせじゃねえ……っ。『税務調査のお尋ね』か!? それとも『重加算税の決定通知書』か!?」
秋の涼しい風が吹いているはずなのに、俺の額からは滝のような脂汗が噴き出していた。
「だ、誰か……。ジェミニ先生……結愛……鈴木さん……っ!」
俺は、震える手で茶封筒を握りしめ、転がるようにしてアパートの階段を駆け上がった。
四十歳のポンコツな腰が悲鳴を上げているが、そんなことを気にしている余裕はない。
バンッ!!
四畳半のドアを蹴破るようにして飛び込み、俺は息を切りながらPCの前にへたり込んだ。
「ゆ、結愛!! ジェミニ先生!! た、大変だ!!」
『ルシフェル社長? 豚丼の買い出しにしては早すぎますが。それに、心拍数が異常な数値を叩き出しています』
結愛の冷静な声が響くが、俺はそれに構わず、ウェブカメラの前に、握りしめた『茶封筒』をバンッと突き出した。
「これを見ろォォ!! ポストに……ポストに入ってたんだよ!!」
『……画像認識システム、起動。対象物をスキャンします』
ジェミニ先生の無機質な音声が流れ、カメラが茶封筒の表面を読み取る。
『……差出人【帯広税務署】。ならびに【法人課税部門】との記載を確認しました』
「法人課税部門ッ!!」
俺は頭を抱えて畳の上をのたうち回った。
「終わった!! 俺の会社、まだ設立して数ヶ月なのに、もうマルサが入るんだ!! 終わった!! 豚丼どころじゃねえ!! 今夜は夜逃げの準備だァァァ!!」
『ルシフェル社長。落ち着いてください。封を切ってもいない段階でパニックになるのは、経営者として極めて不適切です』
結愛が、氷点下のトーンで俺を制止する。
『まずは、深呼吸を。そして、ペーパーナイフを用いて、内容物を破損しないように慎重に開封してください』
「む、無理だ! 開けたら最後、俺の人生が終わるような紙が入ってるに決まってる!! 開けなければ……開けなければ、シュレディンガーの税務調査で済む……っ!」
『現実逃避は加算税の対象にしかなりません。今すぐ開けてください。これは業務命令です(私がアシスタントですが)』
元コールセンターの猛者の、一切の反論を許さない圧倒的なプレッシャー。
「うぅぅ……っ。鬼……悪魔……インボイスの奴隷……っ」
俺は、泣きべそをかきながら、震える手でハサミを手に取った。
チョキ、チョキ、チョキ。
分厚い茶封筒の端を切り落とす。
その音が、俺にはギロチンの刃が落ちる音にしか聞こえなかった。
帯広の秋。
ようやく訪れた四十歳の平和な日常は、ポストに投函された一通の『税務署からの手紙』によって、無残にも切り裂かれた。
震える指で、俺は茶封筒の中から、折り畳まれた数枚の書類を引きずり出す。
そこに書かれていたのは。
新米社長である俺を、資本主義のさらに深い絶望の底へと叩き落とす、恐るべき『国家の宣告』であった。
ゆうき あきや
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コメント
1件
えええっ、まさかの税務署!?(笑) 「シュレディンガーの税務調査」とか「夜逃げの準備」って叫んでるルシフェル社長が面白すぎて笑っちゃったんだけど、その一方で茶封筒の重みがめっちゃリアルでドキドキした…。 結愛の「現実逃避は加算税の対象」って冷静なツッコミも最高! 中身、めちゃくちゃ気になるよ〜!続き待ってます😭