教授からの話を聞いた二日後、街はすっかり年末に向けて慌ただしさを増していた。俺は亮平くんと蓮くんを呼び出し、街中のカフェに来ている。お昼時、俺が先に席に着き、後から二人が合流した。三人でコーヒーを注文して、運ばれてきたものをそれぞれ少し口にする。
 「ごめんね、急に呼び出して」
「ううん。相談っていうから、急ぎなのかなって」
「でも涼架先生、俺もなの?」
 蓮くんがコートを脱いで席の下の籠に入れながら、俺に訊いた。
 「もう先生はやめなよ、蓮」
「あ、そうか、ごめんなさい。えーと、…藤澤さん…?」
「なんかすごく距離が遠くなったな。涼架さんでいいんじゃない」
「あ、じゃあ、涼架さん、で 」
 二人で笑い合いながら、蓮くんの呼び方が決まったところで、亮平くんが真面目な顔を俺に向けた。
 「で? 俺たちに相談ってなに?」
「うん…。二人はさ、ダンスの選考、受けるんだよね?」
「うん、年明けだから、もうすぐだけど…」
「…亮平くんも、蓮くんも、もしも一人だったとしても、留学行くの…?」
 俺は、失礼な質問だとは分かっていても、二人にこの質問を投げかけた。二人とも俺を見つめたまま黙っていたが、亮平くんが口を開いた。
 「…俺は、蓮が一緒だから、留学に挑戦できるんだ。もしも、合格が俺だけだとしたら、俺は蓮を置いていかない」
 蓮くんが、亮平くんを見つめる。
 「それじゃ、意味ないから。俺は、蓮と一緒に踊りたいんだ。蓮のいない場所で、ダンスを続けたいとは思わない」
「…俺も、亮平と一緒に踊れる場所を、また探すと思う。一人では、行かない」
 二人の真っ直ぐな想いを聞いて、俺は俯いた。
 「…なにかあったの?」
 亮平くんが、俺の顔を覗き込んで、心配そうに訊いた。
 「…諦めてた、フルートのフランス留学…。欠員が出たから、繰り上げで俺が行けることになったって…」
「え…!」
「うそ…。凄いこと…なんだよね?」
 蓮くんが亮平くんを見て、亮平くんもそれに頷く。今度は蓮くんが、俺の顔を覗いた。
 「…もっくんの、バンドのこと…?」
 ぐっと唇をかみしめて、小さく頷く。二人は顔を見合わせて、少しため息をついた。
 「…そうだよね、涼架くん、バンドのデビューの為に、あんなに努力してて…」
「…もっくんとは…付き合ってるんだよね?」
 蓮くんの言葉に、俺は静かに頷く。
 「…置いてけないから、悩んでるの?」
「………わからない…」
「わからない?」
 蓮くんが首を傾げる。亮平くんが、蓮くんの肩をそっと持って、それ以上の発言を止めた。
 「…フルートが、ずっと夢だったのは知ってる。留学選考を本気で頑張ってたのも。でも、この間に、大森くんと出逢って、大森くんの音楽に出逢って、涼架くんは変わった、と思う」
 亮平くんの言葉に、俺は自分の手をぎゅっと握る。
 「…だけど、こればっかりは、誰にも口出しできないよ。涼架くんの人生で、涼架くんの心が決めることだと思うから」
「…うん…。…それでも、二人の意見を、訊いてみたかったんだ…。ごめんね、やなこと訊いて…」
「ううん、全然」
「…涼架さん、涼架さんが決めることだっていうのは確かにそうなんだけど…。もっくんとも、ちゃんと話し合ってあげてね」
 蓮くんが、心配そうに俺を見つめる。俺は、二人の目を見つめた後、こくんと頷いた。
 大晦日、夕方から元貴が俺の家に遊びに来るという。一緒に年越しをしようと、連絡が来たのだ。
 『鍵、ちゃんと閉めてよ』
 そうLINEでメッセージがきて、俺は首を捻りながら鍵を閉める。しばらくして、がり、と玄関扉から鍵を差し込む音がして、かちり、と開けられた。俺は腕組みをして、にやける顔をそのままに、ドアを開けた元貴を迎え入れる。
 「え、可愛すぎない?」
「なにが?」
「合鍵、使いたかったってことでしょ?」
「そーですよ」
 下を向いて靴を脱ぐ元貴の頭をくしゃくしゃと撫でた。その手を絡め取られて、手を繋いで部屋へ入る。
 「わ、綺麗にしてる。大掃除したの?」
「したよ、元貴に怒られるから」
「なんだ、手伝わされる覚悟で来たのに」
「そーなの? じゃあ汚しときゃよかった」
「なんでやねん 」
 くすくすと笑いながら、元貴がキッチンへ荷物を運ぶ。俺はその後をついていき、袋を覗き込んだ。
 「それなに?」
「なにって…年越しそば」
「あ、そっか」
「あと、母さんが作ってたお節をちょっともらってきた」
「え! …そういえば、今日はなんて言ってここに来たの?」
「え? いつも通り、バンドメンバーの家に泊まるって」
「あ、そ…」
 友達の家に泊まる、くらいの感覚で捉えてもらってるのだろうか。その相手が俺だと知ったら、あのお母さんはどんな反応をするだろう。しかも、恋人関係だなんて…。少し神妙な顔で押し黙った俺を、元貴が覗き込む。
 「…なに? なんか怒った?」
「え? 怒ってない怒ってない!」
「…だって、恋人の家なんて言ったら、出してもらえないよ、たぶん」
 ぎゅ、と腰に腕を廻して、元貴が顔を近づける。俺は、ふ、と笑って、おでこにキスをした。
 「そうだね、いつもありがと」
「…ねえ」
「ん?」
「………だめ?」
「…なにが?」
「……したいんだけど、だめ?」
 しっかり抱きついたまま、懇願するように俺を見つめる。俺は、ぎゅっと抱きしめて、元貴の肩に顔を埋めた。
 「…そうかな、って思って…。準備、しといた…」
「うそ…ほんと? 」
「…うん」
 元貴が手を引いて、俺をベッドまで連れて行く。灯を薄暗くしてベッドに横になり、俺を組み敷いた元貴が、少し心配そうな顔をした。
 「…えっちばっかりって、思ってない? 」
「…思ってないよ」
「よかったぁ…」
 首元に腕を廻して、元貴がぎゅっと抱きつき安堵の声を出す。俺も背中に腕を廻して、抱きしめ返した。
 「涼ちゃんが、好きだから。だから、したくなるんだからね」
「分かってるよ。…俺も、元貴が…好き、だから…」
 少し涙声になってしまって、元貴が不思議そうに俺の顔を見た。
 「どうしたの?」
「ううん、幸せだなぁって、思っただけ…」
「俺も、幸せだよ。涼ちゃん、大好き」
 甘い笑みを浮かべて、俺の唇にキスを落とす。だんだんと舌を絡め、元貴の手が服の中に入ってきた。胸元を露わにされ、尖りを指で撫でられたり、舌で転がされたりして、俺は身を捩って快感を逃す。そのまま、ちゅ、ちゅ、と腹にキスをしながら、ズボンと下着をするりと取り去られた。期待に膨らむ中心に舌を這わされ、そのまま全体を口に含まれて、舌を絡めながら上下に吸い上げられた。
 「ん…! は…ぁ…あ…!」
 先端で止まり、舌でくるくると舐めまわされたかと思うと、急に奥まで飲み込まれて、容赦なく強い刺激を与えられる。じゅ、じゅぷ、と音を鳴らして、元貴が腰や内腿を撫でながら、温かく濡れた口内で俺の熱を絶頂へと誘う。
 「あ、まって…! でちゃう…!」
 手を伸ばして元貴を止めようとするが、その手を絡め取られてしまい、ぎゅっと握ることしかできない。脚に力が入って、なんとか我慢をしようとしたが、元貴が動きを止めず、むしろ激しく上下に舐め上げるので、俺はぞくぞくと突き上げられる快楽に抗えなかった。
 「あ…! ごめ、でちゃ…ぅ、あっ!」
 下腹部に力が入り、びく、びく、と何度も震えて、元貴の口内で果ててしまった。しばらく俺のものを口内に留めて全部をそこで受け止めた後、ちゅぷ、と口を窄めて俺の熱から顔を離した元貴が、そのままゴムをつけ始めた。俺は肩で息をしながら、半眼でその様子を見つめる。元貴は俺を見つめると、手のひらに口と中のものをとろりと出した。それを、俺の後ろに塗りつけ、くちゅ、と指を差し入れてきた。
 「あ…」
 柔らかく解してあったそこは、呆気なく元貴の指を銜え込んでいく。ぐちぐちと音を鳴らして、指を開きながら入り口を広げられる。指の腹で気持ちのいいところを探られ、力無く声が漏れ出た。
 「あ…は…ぁ…んん…っ。もと、き…」
「ん?」
 優しい声で、微笑みながら俺を見つめる。
 「元貴、もう…入れて…欲しい…」
 俺が熱い息を吐きながらそうねだると、元貴は指をゆっくり引き抜いて、ローションで潤いをつけた熱を孔にあてがった。
 「…涼ちゃん、かわいい…」
 嬉しそうに笑うと、元貴がゆっくりと中へ侵ってきた。やはり大きな質量のそれは、初めは少し苦しく感じる。喉を反らせて、短く息を吐いた。元貴が、中に全て入れてから動かず、俺の耳や首筋に、ちゅ、ちゅ、とキスを落として、ぷくりと膨らんだ胸の尖りを舌で転がす。舌でくりくりと弾かれるたびに身体が震えて、俺の中に侵っている違和を、快感へと移していく。
ゆっくりと腰を引いたかと思うと、またゆっくりと中へ押し込まれる。粘性のある水音を立てながら、ぬるぬるとした感覚で内壁を優しく擦られていく。ぞわぞわと背中を駆ける気持ちよさに、身体を震わせた。
元貴が身体を起こし、俺の腰を掴んだと思うと、抽挿の速さと強さが増していく。ぱちんぱちんと身体がぶつかる音がして、その度にゆさゆさと身体が揺れる。濡れた打擲音が部屋に響き、そこに俺から漏れ出る声も重なっていった。
 「は…あ…もとき…。もとき…」
 俺が元貴の腕に手を伸ばして、強く掴む。元貴は、俺の背中に腕を廻して、ぐっと身体を持ち上げた。座る元貴に跨るような形になり、俺は元貴の首に腕を絡めながらキスをする。舌を撫で合い、脚に力を入れて上下に動く。自分の気持ちのいいところに当たるように、腰が勝手に動いてしまう。ぬるぬると自分の中で擦れる元貴の熱を感じて、自ずと声を出して喘いだ。恥ずかしさはあるが、元貴にもっと気持ちよくなってもらうため、出来るだけ全体を擦るように根本から先端まで何度も何度も上下する。
 「あ…涼ちゃん、やばい…いっちゃう…」
 俺が動き始めると、元貴の快感は倍増するようで、蕩けるような声で俺を抱きしめながら動きを止められた。
 「いいよ、もとき、いっても…」
「…もうちょっと…」
 繋がっていたい、そういうような眼で俺を見つめて、キスをせがんだ。動きを止めて、舌を絡め合う深いキスを繰り返していると、元貴が俺の腰を掴んで下から突き上げてきた。
 「ふ…ぁ…あぁ…! ん…あ…は…ぁ!」
 ぐちゅ、と舌を撫でられながら、尚も奥を穿つ元貴の動きに、喉から声が絞り出されていく。だんだん力が抜けて元貴の身体にもたれかかるように、がくがくと揺さぶられ続けていると、元貴が俺の体を支えて優しく布団へ押し倒した。
 「涼ちゃん、もういっていい…?」
「うん…」
 こくりと頷くと、元貴が俺の腰を持って、熱を打ちつけ始めた。唇を噛み締めて、眉根を顰めて絶頂へ向かう快感をなんとか我慢し続けようとする元貴の顔が、俺は堪らなく好きだ。肌がぶつかる音が高く響き、元貴の打ち付ける強さが増していく。
 「あ…あ…は…あ…んぁ…あ…!」
 強い刺激に、枕を握りしめて顔を背けながら、それでも打ちつけられるたびに容赦なく嬌声を漏らしてしまう。俺の膝を掴んで、ぐいと広げると、絶頂へ向けて元貴の抽挿が激しくなる。荒い息を互いに繰り返しながら、元貴が俺に覆い被さり、ぎゅっと抱きしめてきた。
 「はぁ、は…あ、…、っ…!」
 きつく抱きしめあった耳元で元貴の声が漏れ、強く打ちつけた下腹部をぴったりと俺の身体につけたまま、びく、びく、と何度も中で欲を吐き出した。俺の首筋に顔を埋め、荒い呼吸を整える。耳裏と首筋にキスを落としてから、ゆっくりと身体を起こし、俺の中から熱をぬるりと抜き出す。切ないほどの痺れをそこに感じつつ、俺は横を向いて、ほう、と甘い息を吐いた。
 
 
 
 
 
 「涼ちゃん、そばも茹でらんないの? どうやって生きてんの?」
「茹でてんじゃん」
「いやコイツら湯に浸かってないじゃん。ほんとダメだなぁ、涼ちゃんは」
 お風呂に入ってスウェットに着替えた俺たちは、キッチンで年越しそばの準備に取り掛かっていた。俺が管理しているお鍋を、横から菜箸でちょいちょいと手を出して嬉しそうに文句を言う元貴。
 「よかったね、俺がいて」
 にこっと笑って、元貴が言った。俺は、胸がきゅっと締め付けられて、つい元貴の手を握る。
なんとか年越しそばを完成させて、年末の定番である歌番組を観ながら、二人でふーふーしておそばを啜った。
 「ん、んま」
「おいしいね。天ぷらまで買ってきてくれてありがと」
「うん」
 元貴が微笑んだ後、顔をテレビに向けた。
 「…いつかさ、ここに出られるくらい、おっきくなろうな」
「…そうだね…」
 大きな夢を話す元貴の輝いた眼を、俺はなんだか真っ直ぐ見ることができなかった。
 そのまま年を越し、すぐにベッドに入って眠りについた。やっぱり狭いね、もっと大きいベッドにしてよ、と文句を言われながら。
 
 
 翌朝、かなりゆっくり目覚めた俺たちは、二人で初詣に出掛けることにした。元貴のお母さんからくすねてきたというお節を頂き、元貴はそのまま帰る為の荷物を持って、俺は鍵とスマホだけポケットに入れて出掛ける。玄関を出る時に、元貴にもらった手袋を手に取った。
 「…それ、ちゃんとつけてくれてんだ」
「当たり前でしょ。あったかいよ、ほら」
 外に出て、俺が左手用の手袋を渡す。
 「待って」
 元貴が、ネコちゃんの付いた合鍵をポケットから出して、俺の部屋をかちりと閉める。嬉しそうに微笑みながら、鍵をぎゅっと握ったあと、大事そうにポケットへと仕舞う。そのすべての動作が愛おしくて、俺は泣きそうな顔で元貴を見つめた。元貴が俺に顔を向けて、ふ、と笑う。
 「かわいいでしょ、俺」
「…うん。かわいすぎ」
 ふふっと二人で笑って、それぞれに片方ずつ手袋を嵌める。そして、冷たいままの俺の左手と元貴の右手を繋ぎ合わせて、俺のポケットに迎え入れた。
 近くの神社へ歩いて行き、地元の人だけが来ている様な、そこまで長くはない参拝の列に二人で並ぶ。
 「あけましておめでとう。はい、御神酒」
 列の途中、暖かそうなジャンパーにマフラーをつけた赤ら顔のおじさんが、長机を出して御神酒を配ってくれていた。会釈をして、二人で受け取る。元貴は口を濡らすだけで顔を顰めて舌を少し出し、俺はそれも受け取って二人分の日本酒を飲み干した。喉が焼ける様に熱くなり、鼻に抜ける香りを愉しむ。
 「…おいしいの? それ」
「うん、おいしいよ」
「ふーん…」
 おじさんにお礼を言って、器をお返ししてから、列を進む。くい、と手を引かれ、元貴がこちらを見つめたので、顔を近づける。
 「…お酒飲むの、カッコよかった…」
 耳元で囁かれ、俺は少し照れながら微笑んだ。俺たちの番になり、小銭を賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らして、ニ礼ニ拍手をする。手を合わせたまま眼を閉じ、少しの間頭の中でここぞとばかりに神様へ問いかけた。
 神様、一体俺は、どうすればいいですか。
 当然、答えなど返ってくるはずもなく、静かに眼を開け、一礼をした。隣を見ると、元貴も一礼を終えて、にこりとこちらを向いた。二人で来た道を戻り、神社の入り口で向かい合う。
 「…じゃ、また」
「うん。気を付けてね」
「ふふ、まだお昼じゃん」
「まあ、そうだけど」
「次は…スタジオ練習、かな」
「あ…うん。そう、かな」
「デビューに向けて、ライブも、卒業考査も、頑張んないと」
「…うん」
 じゃね、と手を振る元貴に、微笑みながら手を振る。歩いて行く背中を見て、俺は咄嗟に声を掛けた。
 「…元貴!」
「…なにー?」
 少し離れたところから、振り返る。俺は駆け寄って、元貴を見つめた。
 「…えっと…」
「…ん?」
「…て、手袋…」
「あ、忘れてた」
 はは、と笑って、片方の手袋を外して、俺の手に嵌めてくれた。
 「…ありがとう。………好きだよ」
 俺がそう呟くと、元貴は辺りをキョロキョロと見回して、誰もいないことを確認すると、唇を寄せた。
 「…俺も好きだよ、涼架ちゃん先生」
 イタズラな笑顔を浮かべて元貴が俺の頬を撫でると、また手を振って家路へと歩みを進めた。俺も振り返り、元貴に見えない様に、静かに涙を零す。
 フルート留学なんて、行かないよ。
元貴のそばに、ずっといるよ。
 すぐにそう言い切れない自分の心に、俺自身が戸惑いを覚えていた。
どうやって決断をすればいいのか。どうやって、元貴に話を切り出せばいいのか。
ぐるぐると同じことばかりが頭を巡って、正月休みに実家に帰った時も、俺は家族にすら相談ができないでいた。
 このままではいけない。まずは、先に知らせるべき人がいる。そう考えた俺は、スタジオ練習の前に、二人に連絡を取った。
 「すみません、お時間をいただいてしまって」
「ううん、大丈夫よ。でも、涼架さんが一人でなんて、珍しいわね」
「…私も必要だったのかしら」
 事務所の応接室に、菜穂さんと松嶋先生に来てもらって、俺はソファーに座りながらお礼を述べた。菜穂さんはお茶をテーブルに人数分並べてくれて、腕と脚をそれぞれ組んで俺を見ている松嶋先生の隣に座った。
 「それで、話ってなにかしら?」
「はい、実は…」
 俺は、大学でフルートの留学選考に繰り上げで選ばれたこと、この話を受けた場合、春から2年間フランスへの留学に行くこと、3月には返事をしなければならないことを、二人に説明した。菜穂さんは、眉を下げて困った様な表情を浮かべながら話を聞き、松嶋先生はずっと腕組みをしながら俺を見つめている。
 「…それで、涼架さんは、どうするの…?」
「…まだ、わからないんです…」
「わからないということは、留学に行きたいという気持ちがある訳ね」
「…そう…なんだと、思います…」
「…だけど、踏み切れないのは、デビューの事があるから?」
「………」
「…それとも、元貴くんかしら」
「え…」
 俺が顔を上げると、菜穂さんは困った様な笑顔を浮かべた。
 「…ごめんなさいね、メンバーのプライベートまでは首を突っ込まない様にしていたんだけど」
「…知ってたんですか?」
「…まあ、気付かない方が無理というか…ねえ?」
 菜穂さんが松嶋先生を見て、松嶋先生が鼻を鳴らした。
 「あら、あなた達あれで隠してたの」
「う…」
 俺は、言葉に詰まって、下を向く。菜穂さんが、ちょっと、と言って、松嶋先生の肩に触れて嗜めた。
 「…私がどうして呼ばれたかわからないけど、呼ばれたからには私なりの役割を果たさせてもらうわ」
 松嶋先生がお茶を飲んで、こん、とテーブルに置いた。
 「行きなさい。フランス留学」
 俺は、眼を瞠って先生へ顔を向けた。真っ直ぐに俺を見つめて、真剣な顔をしている。
 「あなたの、長年の夢でしょう。フルートでプロになる、それを目指して進んできたんじゃないの?」
「…それは…」
「あなたが掴みたかったチャンスが、今目の前に来てくれたのよ? それを蹴るなんて、そんな馬鹿なことある?」
 松嶋先生らしく、強い言葉で、しかしはっきりと道を示してくれる。俺は、瞳を揺らしながら、先生の迫力に圧倒されていた。
 「だけど、…だけど、先生なら、行きますか? 行けますか? 大切な人を置いて…。」
「ええ、行くわ」
 間髪入れずに、きっぱりと言い切る。俺は自分で問うておきながら、心配になってつい菜穂さんを見た。菜穂さんは、ふふ、と笑って首を振る。
 「菜々子はね、行くわよ。私も、きっとそうするわ。お互いに、夢を追いかける姿が好きなのよ、きっと」
 松嶋先生が菜穂さんを見て、優しく笑った。俺は、そんなにはっきりと言い切れる二人が眩しくて、眉を下げて眼を細める。
松嶋先生が、また俺を見据えた。
 「もう一度言うわ。あなたは、フランス留学に行くべきよ。私が言えるのは、それだけ」
「…バンドの事は、あまり一人で思い詰めないで。万が一涼架さんが留学で抜けることになったとしても、デビューの話を消したりなんてしないから。あの子達は、私がしっかりと守るわ。安心して」
 菜穂さんの言葉に、つい涙を零してしまう。元貴の事はもちろん、バンドの事だって、とても大切に思っている。だからこそ、菜穂さん達には、早めに相談するべきだと考えたのだ。
 「あの子達には、自分で言うわよね?」
「…はい。できるだけ、早く…」
「…そう。私にできる事があれば、なんでも言ってね」
「…ありがとう、ございます。もう少し、時間をください…」
「…わかったわ。また、心が決まったら、教えてちょうだい」
「…はい。…松嶋先生も、ありがとうございました」
「…いいえ」
 俺たちは、それ以上会話をする事なく、静かにお茶を飲んで、重い空気の中で静かに、俺の涙が止まるのを待っていた。
 スタジオ練習の前日、俺は、高野と綾華と若井をファミレスへ呼び出した。
 「どしたの、涼ちゃん」
「珍しいね、涼ちゃんが集めるのなんて」
「あれ、元貴は?」
 それぞれに話しながら、俺の隣に若井が、向かいに二人が座った。
 「元貴は、呼んでない。三人に、ちょっと話があるんだ」
「え…なに、怖い」
 綾華が不安気に俺を見る。膝の上でギュッと拳を握って、三人の顔を見渡した。
 「…俺、春から、フランスに留学しないかって言われたんだ、フルートで、少なくとも…2年」
「え…!」
「マジ…?」
 綾華と高野が驚きの声をあげて、若井に至っては眼を丸くするだけで言葉も出ない様だった。
 「年末に、大学に呼び出されて。返事は、3月までにって、事で…」
「…行くの?」
 若井が、小さく零した。俺は、頭を振って答える。
 「…わかんない。まだ、決めてない。…決めらんない…」
「元貴は? なんて言ってるの?」
 また、首を横に振った。
 「…言ってないの?」
 若井が、俺の肩を掴む。
 「…ねえ、涼ちゃん! 元貴はどうすんだよ!」
「若井」
 高野が若井の腕を掴んで制止する。若井は顔を歪ませて、俺への怒りを露わにしていた。
 「…涼ちゃん、俺、2年間の留学経験があるって言ったよね」
 高野が、俺に向けて話し始めた。
 「やっぱり、大変だったよ。まず、言葉が通じないし、環境はガラッと変わるし。自分で変えたくて行ったはずなのに、ものすごくキツい時もあった。だけど、あそこでしか経験できない事も絶対にあるし、俺は行ってよかったって、今は本当にそう思ってる」
 高野の眼を見て、俺は頷く。少し言い淀んでから、高野が言葉を続けた。
 「ただね…その時の恋人とは、別れたよ」
 俺の、息を飲む音に、若井がこちらを見た。綾華も、静かに高野の顔を見ながら話を聞いている。
 「2年、待っててとは言えなかった。俺が、自分の好きな様に海外に行くなら、相手にも自由にする権利があると思ったんだ。もちろん、それでも最初は待ってるって言ってくれてた。だけどね、しばらくしてから、ごめん、って、連絡がきて、そのまま…」
 高野が、黙ってコーヒーを口に運ぶ。綾華が、言いにくそうに問いかけた。
 「…じゃあ、今の彼女さんは…」
「…同じ留学グループだった子。近くにいて、励まし合って、結局は、そういう人と、一緒になるのかなって…」
「…だから、元貴を捨てて行けって言うの?」
 若井が、高野を睨みつける。
 「若井、違うよ、高野はそういうつもりで言ってないって」
「そうじゃん、だって、自分は別れたんだろ? 涼ちゃんも留学行くなら、元貴とどーせ別れるだろってことじゃん」
 綾華の言葉にも、若井が噛み付く。誰も、何も言えなくなって、三人で黙り込む。
 「…なんだよそれ。涼ちゃんは、元貴を見つけてくれたんじゃなかったのかよ。だから、会いに来てくれたんじゃなかったのかよ…!」
 鞄を掴んで、千円札を叩きつける様に机に置いた後、若井が店を出て行く。俺は、慌てて立ち上がり、後の二人に謝ってお金を渡してから若井を追いかけた。
 
 
 「待って! 待って若井!」
 走って追いかけて腕を掴むと、こちらを見た若井の眼には涙が溜まっていた。
 「…やっと、元貴が救われたって思ってたのに。涼ちゃん先生と出逢って、元貴が学校に来て、元貴が…俺が、救われたのに…」
 袖を眼元に当てて、若井がくぐもった悲痛な声でそう言った。
 「…まだ、決めてない…決められてない…。だから、ちゃんと、元貴と話し合うよ…」
「…行かないでよ。涼ちゃん先生、行かないで」
 若井が、泣きながら俺に詰め寄る。
 「ねえ、そんなにフルートが大事? 俺らより? 元貴より?!」
「…若井…」
「…お願いだよ…置いてかないでよ…。元貴を、また一人にしないで…」
 胸ぐらをぎゅっと握りしめて、俺の身体に頭を付けて嗚咽混じりに縋り付く若井の肩を、そっと包んで、俺は黙って俯くしか無かった。元貴の気持ちを、元貴が言いたいであろう言葉を、若井が俺に全てぶつけてくれている様な、そんな気がした。
 
 
 翌日、学校終わりの6時前、俺は一番にスタジオに入った。キーボードと、フルートを用意して、皆の到着を待つ。
高野、綾華、若井の順にスタジオに入ってきて、それぞれ気まずそうに挨拶だけを交わす。
 「…今日の練習終わりに、元貴に話すよ」
「…そう」
「頑張って…」
 綾華が眉を下げて微笑み、高野が俺の肩に手を置いた。若井は、眼を合わせず、何も返事はしなかった。
 「おぃーす」
 元貴が、スタジオにやってきた。皆口々に挨拶をして、さっそく練習を始める。次のライブに向けて、セトリの通りに演奏を進めていった。
 
 
 2時間の練習を終えて、それぞれに帰り支度を整える。
 「元貴」
「ん?」
「ちょっと、残ってくれる?」
「へ? いいけど…。え、俺だけ?」
「うん」
 元貴は、ちょっと嬉しそうな顔をして、すぐに顔を元に戻した。向こう側で何か言いたげな若井を、高野が肩を組んで外に連れ出した。綾華も、それについて出ていく。
 「おつかれー」
 三人に声を掛けて手を振った元貴が、俺に向き直る。
 「なに? どしたの?」
「うん…」
 伏し目がちに言い淀む俺を、怪訝な顔で覗き込む。
 「え…なに? 怖いんだけど」
「…あのね、元貴…」
「…なに?」
「実は…フルートの、留学の話が、来て…」
「…留学?」
「…うん。春から、2年間、フランスに…」
「………」
 言葉を失った元貴の顔を、見ることが出来ない。元貴の足元を見つめたまま、俺はなんとか声を絞り出す。
 「…返事は、3月までにって…」
 長い沈黙が、二人の間に流れていく。小さく、息を吸う音が聞こえた。
 「…で、涼ちゃんは、どうすんの…」
 元貴の声が、震えている。俺は、我慢できなくて、眼に溜まった涙を、ぽとりと落とした。
 「………どうしよう…。ずっと考えてるんだけど、決められない…。元貴も、ミセスも、フルートも、全部、大切で…。俺…俺…」
 袖で、目元を拭って、深く息を吐く。
 「…俺、正直嬉しかったんだ…。諦めてたフルートの留学に、行けるってなって…夢が叶うかも知れないって…」
 中学の時に出逢って、それから俺の夢になったフルート。ずっと、ずっと、青春の全てをフルートに捧げてきた。一度は断たれた留学の道が、思いがけない形で自分の前に急に現れたのだ。俺は、素直に、嬉しいと感じたんだ。感じて、しまったんだ。
もし、元貴が許してくれるなら。ミセスを離れて、元貴から離れて、それでもフルートの夢を追うことをもしも応援してくれるなら。離れていても大丈夫だと、そう思ってくれるなら。俺は、心のどこかで、そう考えてしまっていたのだ。
だけど、元貴からの言葉は、当然そんなに都合のいいものでは無かった。
 
 
 「………勝手に行けば」
 
 
 それだけの言葉を残して、元貴はギターと荷物を持って、スタジオを出て行く。俺は、脚が竦んで、元貴を追いかけることが出来なかった。どんな表情をしていたかわからないが、その声はとても冷たくて。
ああ、またあの時と同じだ。
視線を落とし、将太先輩の顔を見られなかったあの時と、同じ。
俺は、いつもそうして眼を逸らして逃げてばかりだ。将太先輩を傷つけ、今度は、元貴を傷つけ…。
だけど、今は元貴を追いかけて抱きしめるほど、俺の気持ちはまだ固まっていなかった。大きなキーボードを背負い、鞄を手に提げて、その荷物よりも重い心を抱えながら、ゆっくりと家路についた。
 
 
 翌日、元貴からLINEが届いた。
 『今日、部屋に行っていい?』
 昨日の態度から、もう暫くは会ってもらえないと思っていた俺は、嬉しいと共に、少し怖かった。元貴は今、どんな心境なのだろうか。若井の様に、行かないでと縋られた時に、俺ははっきりと応えてあげることが出来るだろうか。
悶々としたものを心に溜めたまま夜になり、元貴が家にやって来た。
 「夜ご飯、コンビニ弁当だけど、買って来た」
「あ、ありがとう。じゃあ、はい、これ」
 いつもの様に、食事代を支払う。元貴は、ありがと、と言って受け取ってくれた。
二人で向かい合って、座椅子に腰を据えてパスタを食べる。
 「うん、うまい」
「ほんと、最近のコンビニはすごいね、おいしい」
「おいしいものもさ、今じゃ結構簡単に手に入るんだよな」
「ん? うん、そうだね。」
「…簡単に、手に入るんだよ、きっと」
「…うん?」
「だからさ、俺は儚いって思うんだよな、青春は」
「…うん」
「でも、楽しいことばっかだったよ。ほんと」
「………」
「そばぐらい、茹でれる様になりなよ、先生」
「…元貴」
 それから元貴は、黙ってパスタを食べ進める。俺は、元貴を見つめたまま、一つも口に運べずにじっとしていた、
 「…ご馳走様」
 パチンと手を合わせて、元貴が笑顔でそう言う。そして、そのまま俺を微笑みながら真っ直ぐに見つめた。
 「…青春の、甘味と、苦味だよ、先生。楽しかったな、そんなこともあったな、って、フランスで思い出話をするんだよ」
「…元貴っ」
「俺も!」
 語気を強めて、元貴が下を向いたかと思うと、また顔を上げて、泣きそうな顔で笑った。
 「俺も、そうするから。次の恋人に、そうやって、思い出話をするから」
 笑顔で話すその言葉に、俺は涙が零れ出た。
 「俺は…俺は…」
 元貴と、別れたくない。そう言いたいのに、そんな勝手なことは言えなくて、喉が締め付けられた様に声が出ない。
 「俺、言ったでしょ。涼ちゃん先生のフルートの夢を奪いたいわけじゃないって」
 涙を零して、元貴を見つめる。元貴は、ずっと笑顔を浮かべていた。
 「ありがとう、先生。俺を助けてくれて」
 唇を噛み締めて、黙って泣き続ける俺を、困った様な笑顔で見つめた後、元貴が立ち上がった。静かに玄関に向かう元貴の足音を、俯いたまま聞いていた。
 
 
 いやだ。
 
 
 そう思った瞬間、立ち上がって元貴を追いかける。
 「元貴!」
 玄関ドアに手を掛けて、元貴がこちらを振り向いた。
 「元貴、俺、元貴が好きだよ、別れたくない!」
「………もう、スタジオには来ないで」
 最後に、悲しそうな笑顔でそれだけ呟くと、元貴は静かにドアを開けて出て行った。俺は、その場に崩れ落ちて、嗚咽を漏らして泣いた。元貴から、背中を押されてしまった。決めきれない俺を、優しく突き放してくれた。
 「元貴…。もとき…!」
 玄関でしゃがみ込んだまま、壁にもたれかかって、去っていった大好きな人の名前を呼び、いつまでも泣き続けた。
 それから、ミセスのグループLINEから俺の名前が消され、元貴から連絡が来ることも無かった。
 数週間が過ぎ、2月の半ばになった頃、俺は、菜穂さんに連絡をした。元貴に押された背中、その事実を噛み締めながら。
 「…もしもし。ずっと、連絡できずに、申し訳ありませんでした。…はい。…俺、決めました」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
コメント
78件
すみません💦
前半の幸せな年越しから、辛い別れ、、、 うぅ〜全部良すぎます〜🥹 合い鍵使いたかった♥️くんと準備して待つ💛ちゃんがかわよでした🫶 💙の熱い想いも泣けるし、💛ちゃんの別れたくないも泣けるし🥲 ちょっと朝から情緒が揺さぶられすぎました😇💕 いつも素敵なお話、本当にありがとうございます🙏
やっぱり七瀬さん凄いなぁて感動しました!前半は今回は対面かぁとセンシティブを楽しみ、高校生元貴さんが可愛すぎるやろがいっとニマニマが止まらず、初詣イベントもクリアしてる〜ってイベントチェックをして読んでいたら… 涼ちゃんの葛藤と元貴くんの決断に胸が締め付けられたのはもちろんのこと。松嶋先生の顧問としてずっと見ていた大人の意見、若様の純粋でまっすぐで無責任な意見、高野の経験を語った意味、