2月の最終日。土曜日だったが大学へ行き教授に留学の返事をした俺は、バイト終わりにアパートへ帰った。下のポストからチラシを出していると、部屋の前に人影があるのに気付いた。ポストの蓋も閉めずに急いで階段を駆け上がると、そこに居たのは。
 「よ、久しぶり」
「将太先輩…」
「松嶋先生から色々聞いて。ま、ちょっと先輩にも話聞かせてよ」
「…ありがとうございます」
 俺は、部屋の鍵を開けて、将太先輩を中へ招いた。
 暫く話をしていると、後から先輩の恋人である山田さんも、うちにやって来た。
 「さっき、下で人とぶつかっちゃった」
 背の高い山田さんは、へへ、と人懐っこい笑顔を浮かべて、そう言って座る。二人とも俺と様々な話をしてくれた。松嶋先生に頼まれて、きっと俺を鼓舞しに来てくれたんだな、と俺は素直に嬉しく思った。
 
 
 
 
 
 
 「ありがとうございました」
「うん、まあ頑張って」
「はい」
 下まで二人を見送りに行って、ぺこぺこと頭を下げて、別れの挨拶を終えた。ついでに開けっ放しだったポストを閉めようと蓋に手を掛けると、中にふわふわの灰色のネコちゃんが見える。ちゃり、と手に取ると、元貴に渡した合鍵が、ぶら下がっていた。
 え…!?
 さっきポストを見た時には、こんな物は入っていなかったはず…。って事は!
俺は、急いでその姿を探して走り出した。元貴といつも歩いた道を、ひたすら全力で。心臓が破れそうな程に暴れていたが、我慢して、冷たい空気をいっぱい吸いながら、やがて最寄り駅まで辿り着いた。駅前や、券売機の方まで走り回って探してみたが、元貴の姿はどこにも無かった。
 鍵を、返しに来ただけ?
俺には、会う気もなかった?
 しばらく駅前で佇んで肩で息をしていたが、いつまでもここでこうしているわけにもいかないので、とぼとぼと家までの道をまた一人戻って行った。
 家について、また開けっ放しにしていたポストの蓋を、ぱたんと閉める。両手で鍵を握りしめて、これで本当に、元貴との繋がりを全て切られてしまったように感じた。
 仕方がない。自分が招いた結果だ。そう納得させて、俺は部屋へと重い足取りで帰って行った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「もう、涼ちゃんは来ないから」
 1月末のある日、スタジオに入って俺が皆にそう告げると、それぞれに複雑そうな顔をしながら、ただ頷いた。俺が涼ちゃんの部屋で別れを告げた後、この言葉だけで皆は察してくれたようだった。若井は、納得がいかないといった表情を浮かべていたが、俺が気丈に振る舞うのを見て、いつの間にか普段の空気に戻っていった。
菜穂さんに、涼ちゃんの脱退を伝えたところ、そう、残念ね、とだけ言われた。これは、きっと先に涼ちゃんが相談していたな、とわかったが、それ以上は何も言わなかったし、言われなかった。
ミセスのグループLINEから涼ちゃんを退会させ、個別LINEもブロックした。そうしないと、俺が、諦めきれないと思ったから。せっかく押した彼の背中を、全力で引き止めてしまいそうで。
それでも、夜になるとまた得体の知れない恐怖に襲われるようになり、その度に俺は涼ちゃんの部屋の合鍵を握りしめて、なんとか夜をやり過ごしてきた。
 
 
 学校で、文化祭でのバンド演奏を見たからか、何度か女子生徒から告白される事があった。これまでは、涼ちゃんがいたから当然全て断ってきている。しかし、こうなったらもう、適当に誰でもいいからその辺から選んで付き合ってみようか。そんな事まで考えてしまうほどに、俺の心は荒んでいた。
モヤモヤといつまでも涼ちゃんの事を考えてしまう自分が嫌で、何度も連絡しそうになっては、スマホをベッドへ投げつけた。
 3月が近づくにつれ、俺はいよいよ心が落ち着かなくなっていった。涼ちゃんは、もう留学の返事をしたのだろうか。今からでも、泣いて縋って、全て投げうって行かないでと引き留めれば、まだ間に合うのではないか。
それか、別れだけでも撤回して、俺が2年間我慢して待っていればいいだけの話じゃないのか。 そうだ、涼ちゃんだって、別れたくないって言ってくれてた。きっと、こまめに連絡を取れば、2年なんてあっという間だ。
そう考え始めたら、もう止まらなかった。時計を見て、涼ちゃんがいつもバイトから帰る時間に間に合うと思った俺は、合鍵をポケットにしまって、涼ちゃんの部屋へと向かった。駅から走って、涼ちゃんになんて言おう、どうやって許してもらおう、そんな事を考えながら、アパートの下についた。
はぁはぁと息を整えながら見上げると、涼ちゃんの部屋の前に人影が見えた。思わず塀の陰に隠れて、様子を伺う。階段から涼ちゃんの姿が現れて、その人影と向き合った。あの人は…確か、将太先輩…。涼ちゃんの、青春の苦味として心に居座り、ずっと恋焦がれていた人、だ。文化祭の日、二人が体育館の裏へ歩いて行くのを見ていたから、知ってる。二人は、いくつか言葉を交わしてから、揃って涼ちゃんの部屋の中へ消えて行った。
俺は、足元がすとんと落ちたように力が抜けて、震える手で胸を押さえた。涼ちゃんが、将太先輩と…。もう、俺の戻る場所なんて、そもそも無かったんだ。遅かったんだ。踵を返してその場を離れようとしたが、はたと気付いて、すぐに涼ちゃんのポストに歩いて行った。ポケットから、ちゃり、と猫のキーホルダーを摘み出し、ぎゅっと握って躊躇した後、蓋が開いたままのポストの中へ、そっと入れた。かたりと音が鳴って、涼ちゃんとの最後の繋がりが、切れた。ポケットに手を入れ、足早にそこを離れる時、背の高い男性と肩がぶつかった。
 「あ、すみません」
「いえ、大丈夫ですか?」
「はい」
 ぺこりと頭を下げて、俺は寒空の下、コートに泣きそうな顔を埋めながら、駅へと急いで歩みを進めた。
その翌日の日曜日。3月1日、俺たちの卒業式の日がやってきた。粛々と式典を終え、体育館前で両親と軽く会話をして別れた後、教室に戻り卒業アルバムに各々メッセージを書き込んでいく。何人かにサインをくれとねだられたが、めんどくさいので、サインはまだないから、と言って普通の当たり障りのないメッセージとイニシャルだけ書き記しておいた。
 「元貴、一緒に写真撮ろーぜ」
「おう」
 若井に誘われ、いくつか二人で写真を撮った後、クラスの友達とも複数集まって写真を撮る。そわそわとしている若井に、仕方がない、と考えて声をかけた。
 「おい。あやみ嬢と撮ってやろーか」
「い、いいよ!」
「撮って欲しんだろ? ほら行くぞ」
 若井を引っ張って、3年2組の教室へ行く。
 「あやみ嬢呼んで。旦那が来たって」
 俺が入り口近くの男子生徒にそう言って、若井が顔を出すと、周りがやんやと囃し立てて、顔を赤くしたあやみ嬢が出てきた。俺をじろりと睨みつけている。
 「大森くん」
「こわ」
「ごめん、あやみ 」
「…まぁ、いいけど…」
 バカップルの後ろについて、校舎裏の中庭に歩いて行く。何枚か写真を撮ってやった後、早々に飽きた俺は、じゃ、と言って二人をそこに残し、一人職員室へ向かった。
 「失礼します。松嶋先生おられますか」
「おお。松嶋先生ー、大森ですよー」
 入り口近くの教師が、中に向かって声をかける。ベージュのパンツスーツに、小ぶりだが品のいいコサージュを胸につけた松嶋先生が、こちらに向かって歩いて来た。廊下に出て、俺は深々と頭を下げる。
 「三年間、本当にお世話になりました」
「本当よね。よくあなたを卒業させられたと、自分でも思うわ」
 相変わらずの松嶋節に、俺はくすりと笑いを零す。
 「…バンドは?」
「まぁ、このまま順調に行けば、7月8日にデビューします」
「そう。頑張ってね」
「はい。菜穂さんには、これからもたくさんお世話になりますので。また、先生ともいずれ」
「あら。私、菜穂とはちゃんとビジネスは分けてるわよ。よっぽどの事がない限りは、あなたともこれきりね」
「そうなんですか。ライブくらい来てくださいよ」
「いやよ、耳が痛くなるわ。私クラシックしか聴かないし」
 やれやれ、とため息を吐くと、先生が、じろ、と睨んだ。
 「ま、あなたがここに教育実習に来れば、また会えるんじゃない?」
 口の片端を上げて、先生が言い放つ。俺は眼を瞠ってから、ふは、と吹き出した。先生も吹き出して、二人で笑う。
また、お礼と共に頭を下げてから、俺は帰り支度の為に教室へ戻った。荷物を持って廊下を歩くと、めめが人に群がられている。人に、っていうか、女子に。
 「あ、もっくん!」
「え?」
「ごめんね、俺もっくんと約束してたから、じゃあね」
 周りから惜しむ声が上がりながら、めめがなんとか人混みを抜け出して、俺と一緒に歩き出した。
 「大変だねえ、モテる男は」
「はは、まあ悪い気はしないけどね」
「あ、阿部さんに言ってやろ」
「別に。あっちだって散々きゃーきゃー言われてんだから。お互い様」
「へーへー、すごいすごい」
「それに、第二ボタンは死守したしね」
 めめが、嬉しそうに手の中にあるボタンを見せてきた。
 「へぇー、意外とかわいらしい」
「そーでしょ」
 にこやかに応えるその顔を見て、罪作りなヤツだな、と俺は呆れた。
昇降口につくと、めめは、ありがと、と言って帰って行った。はぁ、とため息を吐いて振り向くと、数人の女子が集まっていた。
 「大森くん、ボタンください!」
「え…」
 ぷちぷちと丁寧に外して、手を差し出す人達にころころと渡していく。まるでコレクターだなと思うほど、その手にはいくつかのボタンが収められていて、次はあっち! とハンターのように小走りで去っていく彼女たちを、乾いた笑いで見送った。手の中に一つ残したボタンをポケットにしまうと、俺は靴箱に手を伸ばした。
 
 
 かさり。
 
 
 靴に指をかけると、何かが当たった。靴を引っ張り覗き込むと、四つ折りになった白い紙が入っていた。
 え?
 それを取り出し、かさ、と開くと、そこにはこう書かれていた。
 『俺の推し生徒』
 どく、と心臓が鳴って、紙を裏返す。すると、裏にもやはり文字が書かれてあった。
 『あの場所で待ってます』
 あの場所…。俺は、一番最初に思い浮かんだ場所へ向かう為、靴を引っ掴んで急いで履いた。昇降口を抜け、走ってその場所へ向かう。
校舎裏の中庭に着くと、肩で息をして周りを見渡す。そこには、まだ若井とあやみ嬢が残っていた。
 「え、どうした? 元貴」
「ここに、人、来なかった?」
「人? そりゃ、何人か来たけど…」
「…そっか…」
 若井から涼ちゃんの名前が出ないという事は、ここには来てないって事か…。俺がこの紙と同じような文言で涼ちゃんを呼び出したこの中庭だと思ったけど、『あの場所』はここではないらしい。
 
 
 面白い、見つけてやろーじゃん。
 
 
 ありがと、と二人に告げて、俺は踵を返して次の場所へ向かう。
体育館、扉は開いているが中は空っぽだ。その裏手に回ってみたが、やはり人影はない。
 あ、あそこか。
 俺は、体育館の渡り廊下から校舎に入り、靴を掴んで靴下のまま走った。三階へ昇り、多目的室に着いた。しかし、当然扉は閉まっているし、廊下の窓のカーテンの隙間から中を覗いても、誰もいない。俺たちが文化祭で気持ちを確かめ合った場所、ここかと思ったが、違った。
 ならば、と、俺はそのまま上の階へ向かう。廊下の端、実習生控え室になっていた教材室。ここももちろん施錠されているし、窓もなければドアのガラスも紙で塞がれている為、中を覗き見ることもできない。流石に、ここでも無いか。
ついでに、奥の音楽室を覗いてみるが、今日は部活動も休みの為、ドアは開かないし、誰もいない。俺は、途方に暮れて、廊下をとぼとぼと歩いて端まで行った。窓から、運動場を見下ろす。体育祭で、涼ちゃんの手を取って走った場所。何人かの生徒がぱらぱらと歩いているのは見えるが、涼ちゃんの金髪は見えなくて。ここでも無いか。
 おいおい、一体どこだよ。あの場所って。
俺と涼ちゃんの思い出の場所なんて…。
出逢った場所なんて…。
 俺は、ハッとして、まさかと思いつつ、もうそこしか思い当たる場所がないと、急いで下に降りる。再び昇降口を抜け、駆け足で学校を後にした。
 
 
 
 
 駅からもずっと走って、やっとのことで、辿り着いた。はぁはぁと肩で息をして、『大森』と書かれた門の前に立つ。俺は、涼ちゃんが俺を迎えに来てくれていたこの家こそが、あの場所だと、そう思ったのだ。しかし、家の前には、人影がない。まさか、ここも違うのか…。腰に手を当てて、ふう、と息を吐いて見上げると、俺の部屋のカーテンが開いていた。そこから、キラキラと光る金色の髪が、見えた。俺は、道の小石を拾って、窓目掛けて投げる。かつ、と当たると、涼ちゃんが窓の方へ振り向いた。俺の姿を確認すると、目尻の垂れたその眼を大きく見開いて驚きの表情を浮かべた。
 なに驚いてんだよ、自分で呼び出したくせに!
 頭の中で涼ちゃんに文句を言って、俺は、すぐに玄関を開けて、中に入る。
 「元貴? いま藤澤先生が」
「知ってる!」
 リビングから母さんの声がして、被せ気味に答えてからすぐに二階へ駆け上がった。一旦呼吸を落ち着かせてから、がちゃ、とドアを開ける。
 「…っ…元貴…。ごめん、上がり込むつもりじゃなかったんだ…けど…。あ、あの、家の前で、待ってたんだ、本当に。でも、お母さんに、見つかっちゃって…。その…いいからいいから、上がってくださいって…あの、断りきれなくて………勝手に、ごめんなさい」
 部屋の中に立つ涼ちゃんが、開口一番に言い訳と謝罪を連ねて、深々と頭を下げた。あの日と同じ、黒いリクルートスーツを着て、両手を身体の前で合わせている。顔を上げて、申し訳なさそうに眼を伏せる。
 「…なに、これ」
 ポケットの中から、紙を取り出して、涼ちゃんに掲げて見せた。困ったような笑顔を見せて、涼ちゃんが口を開く。
 「…元貴の、まねっこ」
「いや、ちゃんと場所書けよ。めちゃくちゃ走り回ったんだけど、俺」
「中庭とか?」
「体育館も」
「じゃあ、実習生室も? 」
「音楽室も、多目的室も、運動場まで見たんだから」
「…すごいね、俺たち、こんなに思い出の場所があったんだ」
「…なんだ、それ」
 俺が呆れて、ため息をつく。涼ちゃんが、一瞬、緊張したように息を飲んでから、意を決した顔で俺に話しかけた。
 「…元貴、俺、フルートが好きだ」
「…うん…」
「だけど、元貴と離れてまで、フルートの夢を追いたいとは、思えなかった。元貴が、せっかく背中を押してくれたのに、元貴が俺から離れていって、やっとそれに気付いたんだ」
「え…」
「…留学は、断った。フランスには行かないよ」
「え…!」
 俺は一瞬、本当にそれでいいのかと言いかけたが、俺を見つめる真っ直ぐな瞳には、そんな迷いなどはもう一切無いように思えて、俺はそのまま口を噤んだ。
 「…だから、元貴さえ良ければ、俺、もう一度、ミセスのキーボードとして、傍に居たいんだけど…」
 ミセスの、キーボードとして…。
 「………それだけ…?」
 俺は、眉を下げて、情けないほどに小さな声を出した。涼ちゃんは、ふ、と心底安心したように笑って、足元に置いていたビニール袋を手に取り、俺に差し出した。
 「あと、元貴が良ければ、これも」
「…なに?」
 怪訝な顔でそれを受け取り、中を覗くと、いくつかの駄菓子が入っていた。俺は、つい顔を綻ばせる。
 「はは、懐かし」
「アイスは流石に溶けちゃうからさ」
「ふふ…。前よりは少ないね」
 中をかさかさと手で掻き分けて、どんな駄菓子があるのかを見ようとしたら、指にかちゃりと何かが当たった。それを掴んで袋から出すと、灰色の猫がゆらゆらと揺れる。
 「…よかったら、また、待っててくれないかな」
 ひやりと指に触れる硬い鍵を、胸元でぎゅっと握りしめて俺は眉根を寄せた。ぐっと我慢しないと、泣いてしまいそうだ。
 「…でも…将太先輩は…?」
「え?」
「…昨日…部屋に入っていくの、見て…。それで、この鍵…ポストに…」
「あ…! 違う違う! あれはただ話をしに来てくれただけで! あ、あの、松嶋先生が元気づけてやれって言ったって、あ、ていうかあの後すぐに先輩の彼氏さんも来たんだよ!」
 慌てて涼ちゃんが弁明をつらつらと口から繰り出す。
 「背の高い、めちゃくちゃカッコいい、山田裕貴さん! あの二人すっごいお似合いなんだよ、本当に!」
 焦りすぎて、ただ先輩カップルへの賛辞を述べただけになった涼ちゃんの言葉に、つい吹き出してしまう。
 「わかった、わかったから。慌てすぎ」
「だ、だって、誤解してほしくないから! 俺が好きなのは、元貴だけなんだよ!」
 涼ちゃんからの真っ直ぐな告白に、俺の心が一気に溶ける。色んな感情で雁字搦めになっていた心が、解けていく。俺は、駄菓子の袋を落っことして、涼ちゃんに抱きついた。鍵を握りしめたまま、きつく、ぎゅうっと背中に腕を廻す。
 「…俺も、涼ちゃんがいい。涼ちゃんじゃなきゃ嫌だ。ミセスのキーボードも、恋人も」
「…元貴、ごめんね、ごめん。不安にさせて、ごめん」
 涼ちゃんも、俺の背中に腕を廻してきつく抱きしめる。身体を少し離し、涼ちゃんの顔を両手で包む。
 「…もう、絶対離さないから」
「うん。俺も」
 瞳をじっと見つめ合って、すっげー恥ずいけど、だけど、ちゃんと伝えないと、と思って、俺は、口を開いた。
 「涼架。大好き」
 涼ちゃんの両眼から、ぽろぽろと涙が溢れ出した。親指で頬を拭って、ふふ、と俺は笑みを零す。涼ちゃんも瞳を濡らしながら、にっこりと微笑む。二人の片頬に、笑窪が現れた。
 俺たちは、二人で一つ、だったね。
 両の手で涼ちゃんを包みながら、そっと顔を近づける。涼ちゃんも瞼を閉じて、また涙を落としながら、唇を寄せた。
 
 
 
 
 
 ベッドで二人抱きしめ合って横になる。俺は涼ちゃんの腕の中に収まり、暖かな心臓の音を身体全体で感じていた。また、こうして、涼ちゃんとくっつけるなんて。一緒にいられるなんて。鼻の奥がツンとするのを、慌てて深く息を吸って誤魔化した。
 「あ、そうだ。俺からも、これ」
 腕の中で、もぞもぞとポケットに手を入れた。涼ちゃんが俺を覗き込んで見ているので、「手ぇ出して」と伝えて差し出された手にころんとそれを落とす。
 「…ボタン?」
「うん。…第二ボタン」
「え…! もしかして、取っといてくれたの…?」
 俺の制服の、一つも無くなっているボタンを見て、涼ちゃんが驚きの中に嬉しさを滲ませて呟いた。俺は微笑みながら、静かに頷く。涼ちゃんは、ボタンを手にぎゅっと握り込んで、その手を口元に寄せた。
 「…すっごく嬉しい…ありがとう、元貴」
 涙ぐみながら、へへ、と笑う。そんな涼ちゃんが愛おしくて、首に腕を廻した。ぐっと引き寄せると、綺麗なその瞳を閉じて、俺の唇にキスをしてくれた。
本当は、ここが実家じゃなければ、涼ちゃんの部屋だったなら…と思う気持ちも無いでも無い…というか大いにあるのだが、そこはぐっと我慢をして、優しいキスだけで顔を離す。
大人しく腕の中で涼ちゃんに引っ付いていると、さら、と髪が優しく撫でられた。
 「元貴、卒業、おめでとう」
「…ありがと」
 その柔らかな声を、俺は瞳を閉じながら暖かな熱の中でゆっくりと味わった。涼ちゃんが、俺の元に帰ってきてくれた。俺の傍に居る人生を、選んでくれたのだ。
俺も、それなりの覚悟を持って、涼ちゃんの人生の選択に応えなければならない。ぎゅっと涼ちゃんの背中にキツく腕を廻して、俺は心の中で人知れずそんな決意を固めていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 俺と元貴は、次の日、早速菜穂さんに話をする為、事務所へと向かった。
前と同じように応接室へ通され、ソファーに二人並んで座る。その向かいに菜穂さんが腰掛け、テーブルには人数分のお茶が置かれた。
 「…それで? どう落ち着いたの?」
「俺が、前に電話でお伝えしたように、留学は断りました。それから、元貴にも許してもらって、ミセスに、キーボードとして復帰させてもらえることになりました」
 元貴が、隣で頷く。菜穂さんも笑顔で頷いて、そう、と安堵の声を出した。
 「良かったわ、貴方たちを信じて、まだ涼架さんの籍を抜いてなかったのよ。きっと戻ってきてくれるって、信じてたわ」
 菜穂さんの本当に嬉しそうな顔を見て、俺はまた鼻の奥がツンとした。不意に、元貴が俺の手を取って、ぎゅっと握る。真っ直ぐに菜穂さんを見据えて、口を開いた。
 「それから、俺たち付き合ってます。真剣に」
 俺は、眼を丸くして勢いよく元貴の方に顔を向ける。そりゃ、もうバレてるけど…! 俺のその焦った様子に、菜穂さんが口に手をあてて小さく吹き出した。元貴は俺たちの様子など気にも留めず、話し続ける。
 「それで、俺も無事に卒業出来たし、一緒に暮らそうと思ってます」
「えぇっ!?」
「ぷふっ…。涼架さんは初耳みたいだけど?」
「は、初耳…!」
「そうでもないでしょ、俺言ったよ。前に」
 前に…? 視線を上に向けて、記憶の中を探る。
 「俺が卒業したら、もっと広い所に引っ越そって」
 ハロウィンの夜の、お風呂の中での会話を思い出して、俺は顔が真っ赤になった。元貴は、俺を見つめて口の片端を上げた後、菜穂さんに向き直る。
 「…だから、事務所としても、許可もらえますか」
「…だめ、って言えると思う? 私が」
 左手を掲げて、松嶋先生とお揃いの指輪を俺たちに見せて、微笑んだ。俺も、安堵のため息をついて、やっと口角が緩んだ。元貴が、繋いだ手に力を込めたので、顔を見合わせて、互いに微笑む。
 「さて。まぁそういう結論だろうと思って、集めといたわよ、スタジオに」
「え?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 菜穂さんに促され、事務所内のスタジオに移動する。スタジオの扉を開けると、中には高野、綾華、若井の姿があった。俺と元貴が並んで入り口に立っているのを、眼を丸くして見ている。
 「みんな…」
「…涼ちゃん!」
 高野と綾華が、駆け寄って来た。
 「…ミセスに、戻ってくれるの?」
 綾華が、泣きそうな顔で問い掛ける。
 「…うん、俺は、戻りたい。…いいかな、みんな」
「…いいに決まってんだろ!」
 高野が、肩をバシッと叩いて、くしゃくしゃの笑顔を見せた。綾華もうんうんと頷く。
俺は、まだ離れた場所に立っている若井の所へ歩いて行った。
 「…若井」
 若井は、眼も合わせない。
 「…ごめん」
 机に寄りかかったまま、若井は元貴に視線をやった。
 「…元貴は?」
 その言葉に、元貴は笑顔で頷いた。それを見て、ぐっと涙を堪えた若井が、大きなため息を吐いた。
 「はぁ…! じゃあ俺がいつまでも怒ってる意味ないじゃん!」
「ご、ごめんさな」
 若井の声にビクッとして、咄嗟にまた謝ろうとした俺に、若井が首に腕を回して抱きついてきた。
 「もう! これ以上謝るの禁止! 戻ってくるんでしょ! じゃあもういいよそれで!」
 バカ涼ちゃん! と最後に付け加えて、若井が身体を離して笑いかけてくれた。俺も、涙を流して、若井に何度も頷いた。綾華も高野もこちらに来て、俺の背中や肩をさすってくれた。
こんなにも暖かで優しいメンバーを、俺は手放そうとしていたのだ。本当に、こちらを決断して良かったと、俺は心から、そう思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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涼ち〜ゃん💛💛💛 すれ違ったまま行っちゃうのー💦💦 元貴君勘違いしてるし、 変なところで生真面目なんだからッ!! すれ違いで、 もうやっぱり月9じゃん🥹 って思ってました✨ いや、月9以上ですよね🫠🫠🫠 でも涼ちゃんの決心もカッコ良かったですし、最高でした🥰 元貴君も涼ちゃんも可愛い😆次が最終回ですか?次のお話も楽しみにしています🥰
涼ちゃん留学断ったんだ!!もっくんも実は寂しさを隠してたなんて!!涼ちゃんがミセスに戻って一安心!
あぁ、七瀬さん、やったな と鼻の奥ツンとさせながら読んだよ〜🥹!!山田くんとぶつかったの元貴くんだったのね。繋げ方がホント上手いんだから。もりょき別れるけどまた戻るのが七瀬さん作品でもあるからちょっと心配しつつもきっと大丈夫と思ってた🫶 いよいよラスト、楽しみにしてるね🍏♡