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「なんやねん、これ⋯」
「こっちが聞きたいわ」
なみなみと水が張られたバスタブの中で、金髪の男──コネシマは、至極冷静に答えた。
(嘘やろ⋯。俺疲れとるんか?)
そう思い、何度も目を擦ってみても視界は一向に変わらない。本来そこにあるはずの、”足”という部位がどこにも見当たらないのだ。
代わりに鎮座していたのは、薄い硝子細工のような鱗がびっしりと並ぶ、巨大な尾ひれだった。
窓から差し込む陽光を反射して、水色に、あるいはエメラルドのように艶めくその下半身は、童話の中にだけ存在する伝説の生き物──”人魚”を想起させた。
浴室にむわりと立ち込める熱気も相まって、酷い頭痛がする。
(⋯⋯勘弁してくれ)
ある日突然、コネシマが人魚になった。
──事の発端は夏の太陽が猛威を奮っている時間、午後一時のことだった。
執務室の温度は冷房を入れていてもなお、窓から差し込む熱気に押されている。じんわりと汗を滲ませながら、ひたすらにペンを走らせた。
そうして溜まっていた書類仕事にようやく区切りをつけ、空腹を自覚して昼食のことでも考え始めた、その矢先。
“ピコンっ
書類の山の端に放置していたスマホが、不意に軽快な通知音を鳴らす。
画面に表示されていたのは、予想だにしない人物からの、予想だにしないメッセージだった。
“すまん、暇だったら俺の部屋のバスルームに来てくれんか?ちょっと困った事が起きた”
なんとも短い文面。
だが普段なら「飯食いに行こうや!」だの「サッカー観ろ!」だの文面からでも騒がしさが伝わってくる彼からの、どこか切羽詰まったようなその短文に、妙な緊張が走る。
(これは⋯⋯緊急事態か?)
俺は昼食の予定を即座に取り消し、その足でコネシマの自室へと向かった。
「おーい、コネシマ〜 無事かぁ?」
ノックもそこそこに鍵の開いていた扉をくぐり、湿り気を帯びた熱気が籠もるバスルームへ足を踏み入れる。
しかし、そこで目にした光景に俺は言葉を失った。
そして冒頭にもどる。
「⋯これ本物なん?」
信じられない思いでその尾を凝視する。
すると時折、水を含んだ尾がピチリと跳ね、バスタブの縁に硬い音を立てた。その生々しい躍動感は、到底作り物だとは思えない。
抗いがたい好奇心に突き動かされ、俺は恐る恐るその尾ひれに指を伸ばしてみた。
「っ⋯、」
指先から伝わってきたのは、ひんやりとしていながらもどこか吸い付くような、ぬるりとした不気味な感触。そしてその奥にある筋肉のムチムチとした弾力。
今、確信した。これは本物だ。
「本物もなにも、俺だって訓練で汗かいて、さっぱりしようと風呂入ったらこれや。意味分からんわ」
「水に当たったら、尾ひれが生えてきたってことか?」
「そういうことちゃう? 湯船に浸かった瞬間に足の感覚が消えて、気づいたらこれや」
不安なのか呆れているのか、判別のつかない顔でコネシマが溜息をつく。
俺はといえば、引きつった笑みを浮かべるしかない。
状況があまりにも突飛すぎて、頭では処理しきれなかった。
だが、このまま彼をバスタブに放置しておくわけにもいかない。俺は暫しの逡巡のあと、一つの解決策を口にした。
「⋯なぁ、餅は餅屋ちゃう?」
「えっ?」
「つまり、こういう自分らで手に負えん変な症状は、全部ペ神に任せるべきってことや」
「⋯なるほどなぁ。確かに、あいつなら何とかしそうや。最悪、解剖されるかもしらんけど」
「その時はその時や」
冗談を飛ばし合える程度には、お互いの脳が現実を受け入れ始めたらしい。
俺はスマホを取り出し、我が軍の優秀かつ少々(いや、かなり)癖のある軍医へと連絡を入れた。
そしてひとまず、俺達はペ神をこの密室へと呼ぶことにしたのである。