午前中の診察を早々と終えることができたので、打ち込んだカルテをチェックすべく、昼食前に見直しをする。
(このコは大学病院に紹介状を書いたから、あとでどうなったのか担当医に連絡するために、リマインダーを活用しなければならないな)
ダブルチェックをしている俺の傍らで、歩は患者用の椅子に腰かけ、黙ったまま俺を見つめた。普段はお喋りが煩いというのに、時々こうして黙り込むことがある。
俺からの接触を待っているのか。それとも自分を見てほしくて、あえて無言を貫いているのか。どっちにしろ、かまってアピールなのは間違いない。
「……タケシ先生」
「なんだよ?」
タブレットから視線を逸らさずに返事をした。冷たさを感じる乾いた口調から、俺の心情を読み当ててほしかったのだが、バカ犬のコイツにそれができるだろうか。
「最近、体調がおかしいトコがあってさ」
告げられたセリフが耳に届いた瞬間、タブレットのカルテから『王領寺歩』を素早く検索し、画面に表示させた。
「体調がおかしいって、どんなふうにおかしいんだ?」
自然気胸と甲状腺ガンを患ったことのある歩。体調が悪そうな姿をこれまで見ていなかったゆえに、心配で胸が張り裂けそうになる。
「胸がドキドキするし」
「動悸があるんだな、ほかには?」
歩のセリフを聞きながら、今日の日付けと症状をカルテに打ち込んでいく。
「んーと、ほかはそうだな。なんとも言えない不安感に、おそわれるときがある」
「不安感ね。完治しているとはいえ、再発しないという保証はない。不安に思うのは当然だろ。診てやるからシャツを捲ってくれ」
首にかけていた聴診器を外してイヤーピースを耳に取りつけ、タブレットを片手に歩と対峙したら、チェストピースを持つ手を掴まれてしまった。
「歩?」
大きな手が俺の肩に触れたと思ったら、歩に体を近づける。チェストピースは、形のいい唇に押し当てられた。
「俺の心を診てよ、タケシ先生」
歩は片目をつぶって、どこか得意げな面持ちで言い放つ。
「おまえ――」
俺が仕事中なのを知っていながら、こうして接触してくるとは。心配して損したじゃないか!
「タケシ先生のことを考えただけで、胸が痛いくらいにドキドキするんだ」
「…………」
「俺がキモチを告げても、滅多に好きって言ってくんないし。不安になるのは当然じゃね?」
(このバカ犬が! 平日の真昼間から、俺がそんなことを言えるわけがない! 恥ずかしさの極みだろ‼)
「ふざけんな。病気が再発したと思って、すごく心配したのに」
言いながらチェストピースを持つ手を退けようとしたのに、俺の手首を掴んだ歩は力を入れて、それをさせてくれない。しかも肩に触れる腕も力を入れてるらしく、寄り添う形をキープさせた。
「タケシ先生、心配ついでに俺が患ってる恋の病を診てください」
「おまえの目の前で仕事をしてる俺に、今それをやれと言ってるのか?」
「ああ、そうだよ。重症だから診てほしくて言ってる」
「……重症だと?」
一度言い出したらきかないコイツの性格を知っているゆえに、さっさと対処をしないと、あとからもっと大変なことになるのが想像ついた。
「悪いが恋の病なんて専門外だから、治療法がわからん」
「またまた~、そんなこと言っちゃって。どうすれば俺がおとなしくなるか、わかってるクセに」
「TPOをわきまえろ。ここは診察室で、いつ誰が入ってくるかわからない時間帯だ。卑猥な行為ができないことくらい、わかっているだろう?」
「卑猥なことって、ナンデスカァ?」
歩は嫌なしたり笑いをしながら、顔を寄せる。チェストピースを持つ手に力を込めて、近づいてくる顔の阻止を試みた。同業者が見たら、この状態をなんと思うだろうか。はっきり言ってバカげた診察風景である。
「いい加減にしろ。両腕の力を抜いて俺を開放しろって」
「重症患者がデキる医者に縋りついちゃ、ダメなのかよ?」
「じっ、実はおまえに言ってないことがある!」
泣き落とし作戦に歩が転じたことで、頭にあることが閃いた。
「言ってないこと?」
「ああ。聞きたいのなら、まずはきちんと椅子に腰かけろ。そして俺との距離をとれ」
命令した途端に、歩は姿勢を正して椅子に腰かけ、両手を膝の上に置く。変な状況から解放されて内心ほっとし、持っていたタブレットを充電器に戻した。
「タケシ先生の秘密ってなんですか?」
聴診器を首にかけて歩を見たら、嬉しそうにほほ笑む。これからテンションがだだ下がりするのを知らずに、ワクワクしている様子が目に留まる。
(秘密なんてひとことも言ってないのに、変な解釈をしてやっぱりバカ犬だ)
「俺は小児科を専攻する際にどの分野に進もうか、ふたつ迷ったんだよ」
「えっと、ひとつはアレルギーだよな。この病院の売りになってる」
「そうだ。年々いろんな種類のアレルギーが発症しているし、研究するのに最適だろう?」
「勉強好きなタケシ先生には、うってつけだけど。残るもうひとつって――」
眉根を寄せて、難しい問題に取り組むときに見せる歩の面持ちに合わせるように、俺も気難しさを漂わせる表情を作り込む。
「俺の教育係だった御堂先輩の専攻は、小児救急だった。それを間近で見ていたのも、理由のひとつかもしれない」
ヒントを与えてやったら歩は何度か目を瞬かせたあとに、顔色をぱっと明るくした。
「もしかしてだけど、小児外科だったりして?」
歩のひとことに反応するために、デスクの一番下の大きな引き出しを開け、小さくて平たいバックを奥から取り出す。手早くチャックを引いてバックを開封、中に入っているものを見せつけた。
「恋の病は専門外と言ったが、実際のところどうなっているのか、研究するのも悪くはないかなって」
バックからメスを取り出し、歩の目の前に突きつける。
「胸がドキドキするんだろう?」
「あ、うん……」
「切開して、確かめてみるのはどうだ?」
見せびらかすようにメスを握り直したら、天井の照明がうまいこと切っ先を照らし、キラリと光り輝いた。
「俺の仕事を邪魔する、おまえのウザいその唇を縫いつけるのも、いい勉強になりそうだ」
歩に恐怖心を与え、これ以上仕事の邪魔をしないように、俺としては先手を打ったつもりだった。
「タケシ先生ってば、マジでカッコイイ!」
「は?」
頬を紅潮させ、瞳を潤ませて俺を見つめる歩は、興奮を示すように言葉を続ける。
「かっこいい白衣姿でメスを握る周防武もいいけど、実際それが聴診器でも注射器でも俺のピーでも、すげぇ様になってる‼」
(なに言ってんだ、このバカ犬は――)
「タケシ先生そのままでいて。写真撮りたい」
俺が与えようとした恐怖心もなんのその。バカ犬は持っていたスマホを取り出し、俺を撮影しようとしたのを阻止すべく、持っていたメスで切りつける……なぁんてことはできるはずもないので、デスクにメスを放り出して歩の首根っこを掴み、無理やり診察室から追い出した次第である。
「俺の思惑を超えることを平然とやってのけるところが、アイツらしいというか……」
聴診器越しじゃない恋の確認作業は、永遠と続きそうだった。
愛でたし 愛でたし
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