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ボーン……。遠くで何かが聞こえてきた。小さな……深い、胸の底を震わす音だ。私を揺り動かす。ふっと目が覚めた。今、鐘が鳴っていた?
ベットの中から窓を見上げた。私の部屋……。ぼんやりしたまま首を巡らせる。カーテンは閉め切っていないので、窓から仄かな光が差し込んでいた。月が出てる……ああ、もう夜なんだ。
マシューが行方不明になったと知らされたあと、リズからの連絡を待っていたいと言ったら当然許してくれなかった。
お薬を飲んで、ベッドに入れられて……いつの間にか眠っちゃったみたいね。ただ薬のおかげで、気分は朝よりも良くなっている。熱もほとんどないみたいだ。
……マシュー。あれからマシューは?リズからの電話は?あればアーウィンが起こしてくれるはずよね。それとも私が起きなかった?ダメ……どっちにしたって、こんな時間じゃ……。
闇の中、月の光を頼りに枕元の時計を見た。零時を少し過ぎている。この時間じゃリズに電話をかけるのも、アーウィンを起こすわけにもいかない。朝まで待つしか……。
その時、不意に声が聞こえた。
『レナ……』
「!!」
昨夜の声!!
私は頭から毛布を被った。
『レナ……』
また呼んでいる。地の底からじんわりと漏れてくる声は、体中に絡みつく。
嫌だ。呼ばないで。あの声の先には、今夜もきっと良くないことが待っている!
『レナ……』
やめて!私を呼ばないで!
ベッドの中、丸まって耳を塞いだ。しばらくそうしていると、やがて声は聞こえなくなる。耳に届くのは、枕元で時を刻む秒針の音だけ。
恐る恐る布団から顔を出したーーその時。
「!」
くぐもった物音がした。下……一階から?アーウィンが起きているのかしら……。
「…………」
そっとベッドを抜け出すと、ドアへ向かう。細くドアを開けてみた。ドアの向こうは静まり返っている。気のせいかな?
そう思ってドアを閉めようとしたら、再びかすかな物音が聞こえた。床が軋む音。今のは確かに聞こえる。やっぱり彼が起きているんだ。それならマシューのこと、聞かなくちゃ。
部屋を出て、階段へ向かった。電気をつけないまま、階段を下りる。夜目が利くのだ。昼間寝ていて、よく起きていることが多いせいかもしれない。どちらにしろ、ここは私の家。私だけが知っている唯一の世界。目を瞑っていたって歩いていける。
踊り場まで来た時、ふと目を上げた。階段の踊り場には、大きな姿見が掛けてある。そこに映っていたのは。血まみれの『私』だった。
絶叫した拍子に、足を階段から踏み外したことが分かった。どうすることもできなくて、そのまま階段を転げ落ちる。
「う……いた……」
肩や腰の痛みが私を目覚めさせた。暗い……。
「!?ここ!!」
あの地下道だ。地下道の壁にもたれかかった状態で座っていた。鏡を見て落ちて……それで……。それでどうしてこんなところに!?頭が混乱する。
「……!」
ハッとして、物置部屋のドアにしがみついた。昨夜と同じようにドアが動かない。そんな、また……!
嫌な予感に襲われながら、必死にドアを叩いた。
「アーウィン、起きてる!?ねえ、ここを開けて!!」
全部昨夜と同じだ。ドアが開かないのも。誰の助けも来てくれないのも。泣きながら、ようやく立ち上がる。
居間へ下りる階段で落ちたはずなのに……どうしてこんなところに?ここはまた悪夢の中?それとも現実こそが夢なの?私はどこにいるの……。
地下道が続いている。闇の中、微かにちょろちょろと水の流れる音がした。じっとりとした空気は冷たく澱んでいて、沼の中にいるような息苦しさを感じる。道は地の底へ導き、下っていた。傾斜がきついところもあるし、滑らないようにしなきゃ……。
死人と赤い縄で作られた門が見えた。全く動かない姿は、時折作り物にも見える。くぐると、相変わらず何かが腐った臭いと甘い妙な臭いが漂っている。鼻を押さえていても、甘い腐臭が体に染み込んできた。
進むと中庭へのハシゴがある。錆びているから、滑らないように気をつけなきゃ。
上り終えると、目の前に開かずの扉がある。立派なドアだ。ノブがないから、開けることはできない。
中庭にある噴水から赤い水が噴き出ていた。今夜は風がなくて空気が澱んでいる。
南の扉を少し開けて、何の物音も聞こえないことを確かめてから回廊の中に入った。
「…………」
東のドアを引いてみる。
「開いてる……」
昨夜、やっぱりここでこのドアを開けたんだ。間違いない。じゃあ……。私の顔をしたお化けもやっぱり現実にいたことになる。
「…………」
確かめてみよう。もう一度お化けを見たあの部屋に行って。扉をくぐらなきゃ。
狭い廊下は直角に折れて、奥の部屋へと続いている。廊下は狭く、息苦しさを覚える。
扉をくぐると、昨夜ランプを一つ壊してしまったから部屋の中は薄暗かった。倒したついたても、そのままになっている。そのそばには、割れたオイルランプ。全て昨夜のまま。足りないのはあの『おばけ』とーー。
「死体が、ない……?」
あの人の体がない。……誰かが動かした?ひょっとしてあのおばけが?でもなんのために?
「…………」
考え込んでいると、足元に落ちている小さなものが目に入った。それは血と泥で汚れた十字架のペンダントだ。これ、あの女の人の。置いていかれちゃったのね。ここでご主人様を待っているんだ。でもあなたのご主人様はもうーー。私はそれをそっと握りしめた。
この断罪の間は、鉄格子と壁で部屋の一角が仕切られている。柵の向こうには椅子、しきりの壁を突き抜けた石机が見えた。ここから見る限り、変なものは落ちてない。
柵の中にもう一つランプが灯っているので、多少明るい。薄暗くても床に広がる血の跡ははっきり見えてしまう。これはあの人の血?それとも他の誰かの血?あの人はどうしてここにいないの?やっぱりあれは夢だった?考えれば考えるほど分からなくなる。