テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
しょこ@愛雅色
152
羽海汐遠
10,203
14,620
コメント
1件
『踏み外す』
”強い不安と不眠は、過去の出来事に起因します。”
当時、医者にそう言われたとき脳裏に過ぎったのは、ある先輩の顔だった。
今のようにパワハラという言葉が存在しなかった時代。
先輩からの罵詈雑言は、自分にとって日常茶飯事だった。
浴びせられる刃物より鋭利な言葉の数々。精神を病むには充分だったし、その穴を塞ぐために手を出してはいけないものに手を出してしまったのは、自分が弱い人間だったからだ。
だが、どれだけ手柄を立てても先輩から褒められることはなかった。
───誰でもできる。
───その程度で満足するな。
───お前はそんなもんだ。
だから、先輩がヤクザに刺されて死んだと聞いたとき心底嬉しかった。
”ざまぁみろ!”と耳元で叫んでやりたかった。
先輩はいなくなった。
不安と不眠の原因はいなくなった。
だが、自分はクスリ無しでは生きられない体になっていた。
今、部下たちは真剣な表情で事件について意見を交わしている。
自分は、ホワイトボードに書かれた文字と貼り付けられた写真をぼんやりと見つめる。
(警戒が強まる前にクスリを買っておかないと…)
巡回する回数も人員も増えるだろう。
売人たちには、しばらく大人しくしているよう伝えねばならない。
自分の席に戻り、資料や報告書になんとなく目を通しながら、部下が一人また一人と帰っていくのを待った。
そして、最後の一人を見送ってから自分も署を出て、車を自宅とは反対方向に走らせる。
車を誰もいない真夜中の公園の前に停め、急ぎ足でトイレへと駆け込む。
そのとき、トイレの前に自転車が止まっていることを確認する。
「あんたが、テツか?」
中には、自転車用のヘルメットを被った男が一人立っていた。
「ああ。君がマドか?」
「そうだ。金は?」
無言で差し出した万札の数を、男は不慣れな感じで数える。
「明日から人が増える。目立つ行動は控えるよう、上に伝えろ」
そういうと、マドはこちらを見るだけでうんともすんとも言わない。
わざとらしくため息をこぼし、一万円札を差し出すと「わかった」と言って受け取り、ポケットからクスリを取り出した。
それを雑に受け取ると、また急ぎ足で車に戻る。
走り出そうとした瞬間、後部座席のドアが開いた。
驚いて後ろを振り返ると黒尽くめの男が一人、車に乗り込んできた。
「だ、誰だ!!け、警察に通報するぞ!?」
「どうぞ。お好きなように」
男はゆったりとした声で答える。
自分がスマホに手を伸ばすと、男は自分に何かを見せてきた。
「僕はやってきた警察に、この写真を提供しますけど…。いいですか?」
見せてきたのは、スマホの画面だった。
そこには、自分が売人からクスリを受け取っている瞬間を捉えた写真が映っていた。
「なっ!?」
「あ、後ろ姿しか撮れてないって思ってますよね?」
男は楽しそうに言って、スマホを横にスワイプするとそこには振り返った自分の顔が綺麗に映っていた。
「……き、君…何が目的だ…」
「ある人から聞いたんですよ。クスリを格安で売って貰う代わりに、警察の内部情報を流している”わる〜い警察官”がいるって」
隙をついてスマホを取り上げようとしたが、男はスマホを引っ込め後部座席に背中を預ける。
「あ、あれ、警ら隊じゃないですか?」
言われて前を見ると、前方からパトカーがやってくる。
「ここで職質されるとマズいですよね?」
男のその言葉に促されるように、ひとまず車を発進させることにした。
(こいつは一体どこまで知っているんだ?)
自分はバックミラー越しに男の様子を伺うが、パーカーのフードを目深に被り、黒いマスクを付けているので顔はさっぱりわからない。
いや、顔なんかどうでもいい。こいつをどうするかを考えなければ。
「あ、ドラレコが付いているんですね、この車。音声とか映像とか録画されてたりします?」
ちらりとドライブレコーダーを見る。
確かに、正常に動いていれば音声も映像も記憶されていたことだろう。
中に入っているSDカードとやらを初期化しないと記録エラーが起こるのだとか。
車のディーラーからはSDカードを新しく買い替えることを勧められたが、手持ちがないと言って断った。
この状態でクスリを買えば、バレたとしてもどこで取引したか足がつかないと思ったからだ。
(それが、まさかこんな形で裏目に出るとは…)
奥歯をギリッと噛みしめる。
「そんな怖い顔をしないでくださいよ。僕は、あなたに…平良徹さんに、ウチのクスリを買ってほしくて来たんです」
「なっ、だ、どういうことだ!?」
なんでこいつは自分の名前まで知っているんだ。
マズい、マズいぞ。
写真を撮られただけではなく素性も知っているとは。
「あははっそんな驚かなくても。ウチの常連さんになってくれたら今回の事は黙っておきましょう」
そう言って見せてきたのは、赤い錠剤が三つ入った小さなパケだった。
「それは…ドラッグか?」
「合法ドラッグ、ですね。これ単体で飲んでも大したこと無いんですけど、グレープフルーツジュースと飲むと一気に”化物”になるんですよ」
「お、おいおい!それ、一番危ないやつだろ!」
「そうですね。”絶対一緒に飲んじゃダメ”って言われてるヤツです」
「ふ、ふざけるな!誰がそんな危ないもの」
「じゃあ、この写真…SNSにあげちゃおっかなぁ…」
「ま、待て待て!そんなの脅しじゃないか!!」
「脅しですよ」
男の声のトーンが急に下がる。
「薬物に溺れ、警察の内部情報を裏社会に流していたことがバレて社会的に死ぬか。今ここでクスリを飲むか。選んでください」
「ぐっ……」
言葉が出ない。このまま車を走らせ続けても意味は無い。
こいつがいつどのタイミングで写真をSNSに投下するのか、まったく読めない。
なら、こいつの言うことを聞くべきなのか。
「も、もう一度確認するが。お前の目的は、自分が常連客になることだろ?」
「ええ」
「な、なら、クスリを飲む必要など無いじゃないか」
「”お試し”って大事だと思うんですよね」
「……」
「体で覚えてほしいんですよ。ウチの商品の良さを」
男は飄々とした口調で語る。
(クスリとグレープフルーツジュースの組み合わせは最悪だが、こいつの目的は、自分がそのクスリにハマって多額の金と警察の情報を組織に渡すこと。なら、いったん話に乗るフリをすればいい)
小さく息を吐いて、冷静さを取り戻す。
(クスリに錯乱したフリをしてこいつを消すのもありだな…。右手をきり落とせば、今なら警察の捜査をかく乱させることができる……)
「わかった。お前の提案に乗ろう」
「ありがとうございます!で?これ、どこに向かってるんです?」
「人気の無い場所だ」
「……へぇ〜」
車を山の上まで走らせる。
展望台の駐車場には防犯カメラはあるものの、端に停めれば死角となる。
「はい、じゃあ、これをどうぞ」
差し出された赤い錠剤とグレープフルーツジュースの入ったペットボトル。
「死ぬほどのことはありませんので、ご安心を」
(胡散臭いことを言う)
そう思いながら赤い錠剤を口に入れ、グレープフルーツジュースを飲む。
「素敵な夜をお過ごしください」
それだけ言うと、男はあっさりと後部座席から降りる。
「お、おい。どうやって帰るんだ」
「迎えが来るんで大丈夫ですよ」
「そうか」と言おうとした瞬間、心臓に衝撃を受ける。
「あがっ!」
痛い痛い心臓が痛い。
息ができない。
呼吸を呼吸をしなければ。
頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回され、強い吐き気を覚える。
ああ、なんだこれは。
なんだこの感覚は。
「おおおおおおおおっ」
絵が見える。
赤い空が。
雲が笑っている。
俺は強い。完璧だ。
何でもできる。
誰だ俺が無能だなんて言う奴は。
誰だ俺を馬鹿だと言う奴は。
ああ、そうか。
あいつは死んだんだった。
「ふへへへっ」
ふざけるな。
それは俺じゃない。
あああああああああああああ。
ああああああああああああう。
「あ?」
目を開けると、運転席は吐瀉物と血まみれというひどい有様だった。
「んん…え?」
「おや、経験者への効果は短いようですね」
「へ?」
「じゃ、第二ラウンドです」
男はにこやかな声で言い、俺の口に赤い錠剤を押し込み、グレープフルーツジュースを流し入れた。
「おっうえっ!おま、お前っ!!」
伸ばした手が宙を掻く。
男の顔が、体がぐにゃりと歪む。
「なんで…なんで俺なんだ!バカな奴は俺以外にもいるし、俺じゃなくても」
「あなたじゃなきゃダメなんです」
「…は?」
「あなたが死ななければ、ダメなんです。そういう”順番”なので」
男がノコギリを取り出して微笑んだ。
その顔に、見覚えがあった。
「お、おまえ……」
すべてが青で塗りつぶされる。
あの時死んだ先輩が笑顔で手を振っている。
なんで笑ってるんだ。
俺はあんたが死ぬほど嫌いだったのに。
あんたも俺を嫌ってたんじゃないのか。
先輩は笑ってる。
笑い転げている。
楽しそうにゲラゲラと。
俺も笑う。
そして、手を振ろうとして
右手が無いことに気がついた。
「ああああああ!!!!!」