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日下部の足音が、何よりも嫌だった。
無言で隣を歩くその存在は、
遥にとって、“まだ触れていないもの”の象徴だった。
触れていないから、まだ綺麗なままだった。
(──オレが触ったら、濁る。汚れる。壊れる)
そう思っていた。
そう信じたかった。
でももう、夢の中で、あの顔は歪んだ。
苦しげに、気持ちよさそうに、遥を見ていた。
ほんとうに、あれは夢だったのかもわからない。
あまりにも生々しかった。
熱と湿度、肌の感触、あの声……すべてが現実のようだった。
(……オレが、汚したんだ)
罪悪感なんかじゃない。
もっと底の浅い、もっとどうしようもない、
“欲望の形をした後悔”が、遥の内臓を這っていた。
日下部の足音が、背後で鳴る。
(やめろ……ついてくんな。何も知らない顔で、隣にいんな)
口に出せない。
言葉にした瞬間、それは“暴力”になる。
自分の存在そのものが、相手を傷つけてしまう。
そう信じてきた。
ずっと昔から、何もかもがそうだった。
──笑うな、気持ち悪い。
──おまえが喜んでると、吐き気する。
──おまえに近づくと、こっちまで腐る。
(何ひとつ、欲しがってよかったものなんかない)
愛されたい、なんて思ったときはいつも、
誰かが壊れた。
笑われた。
踏みつけられた。
──じゃあさ、おまえが“壊したい”って思ってるだけじゃないの?
蓮司の声が、後頭部から刺してくる。
──あいつのこと、守りたい? 本気で思ってる?
“壊される前に、自分の手で壊したい”って顔してたけど?
(ちがう)
──違うなら、なんで震えてんの?
なんで夢で、あんなふうに欲しがったの?
(オレは……)
──なに? “優しくしてくれるなら壊してやりたくなる”って、
おまえ、そういうやつなんじゃねえの?
(……もう、やめろ)
声には出ない。
出せない。
声を出すこと自体が、もう罪だと感じていた。
家の前で立ち止まった。
「……じゃあな」
それだけ言って、振り返らずに歩き出した。
日下部は、何も言わなかった。
けれど、その無言が、いちばん痛かった。
(気づいてないふりしてるだけだろ。……おまえ、見てるだろ)
蓮司の声がまた響く。
──それでも、手を伸ばしたいんでしょ?
壊したくないくせに、触りたいんでしょ?
──いちばん、えげつないよ、おまえ。
遥は家の前で立ち尽くした。
帰りたくない、と思った。
でも、どこにも行けない。
逃げ場なんて、最初からなかった。