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ホテルのレシートは、夫のスーツの内ポケットから落ちてきた。
白い紙片は、冬の蛾みたいにひらりと床へ落ちた。
美沙は洗濯に出すため、航平のスーツをハンガーから外したところだった。いつものようにポケットを確認し、丸まったコンビニのレシートや名刺を取り出す。そこまでは、なんでもない家事の一部だった。
けれど、その紙だけは違っていた。
駅前のビジネスホテル。
二名。
利用時間は、午後八時四十分から午後十時五十五分。
日付は、三日前の木曜日。
その夜、航平は言っていた。
「悪い、今日も残業。先に寝てて」
美沙はスマホの画面を握りしめて、「お疲れさま」と返した。
返事はなかった。
帰ってきたのは、日付が変わる少し前だった。
レシートの端を持つ指が、じわじわと冷えていく。
頭の中では、いくつもの言い訳が勝手に並んだ。
接待かもしれない。
同僚の付き添いかもしれない。
ホテルのラウンジを使っただけかもしれない。
きっと、聞けば説明してくれる。
それなのに、胸の奥ではもう、答えが出ていた。
紙から、知らない女の香水がした気がした。
夜、航平はいつも通り帰ってきた。
玄関で靴を脱ぎながら、「疲れた」と大きく息を吐く。美沙は台所に立ったまま、味噌汁を温め直していた。
「航平」
「ん?」
「このレシート、何?」
テーブルの上に置いた白い紙片を、航平は一瞬だけ見た。
本当に一瞬だった。
けれど美沙には、その一瞬で夫の目から温度が消えたのが分かった。
次の瞬間、航平は笑った。
「ああ、それか。接待」
「接待で、ホテル?」
「取引先が部屋取ってたんだよ。込み入った話だったから」
「二名って書いてある」
「だから取引先と俺で二名だろ」
航平はネクタイをゆるめながら、面倒くさそうに椅子へ座った。
まるで、疑っている美沙の方が悪いと言いたげだった。
「でも、あの日は残業って」
「残業みたいなもんだろ。仕事なんだから」
「どうして、言ってくれなかったの」
「いちいち全部報告しないと駄目なのか?」
低い声だった。
美沙は言葉を飲み込んだ。
この声を出されると、いつも喉が詰まる。
「そうじゃなくて……」
「美沙さ」
航平は箸を置いた。
「最近、ちょっとおかしいよ」
「え?」
「俺を疑うの、癖になってない?」
その言葉に、美沙の背中が固まった。
航平は続けた。
「俺、毎日働いてるんだよ。家のために。なのに帰ってきたら、ホテルだ浮気だって責められるわけ?」
「浮気なんて、まだ言ってない」
「同じことだろ」
航平は小さく笑った。
けれど目は笑っていなかった。
「俺を信用できないなら、夫婦なんて終わりだな」
その一言で、美沙は黙った。
終わり。
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夫婦が終わる。
その言葉を出したのは航平なのに、なぜか美沙の方が、取り返しのつかないことをした気持ちになった。
「……ごめん」
気づけば、そう言っていた。
航平はため息をつき、味噌汁に口をつけた。
「味、薄い」
美沙は台所に立ち尽くした。
返す言葉は、どこにもなかった。
その夜、航平はシャワーを浴びると、何事もなかったように寝室へ入った。すぐに寝息が聞こえてきた。
美沙はリビングの明かりを消せずにいた。
テーブルの上には、あのレシートが残っている。
白い紙片。
たった一枚の紙。
けれどその紙は、美沙が十二年間かけて守ってきたものを、内側から静かに裂いていた。
結婚してから、何度も飲み込んできた。
仕事で疲れているから。
男の人はそういうものだから。
妻なら支えないと。
義母にも、そう言われてきた。
「航平は外で頑張ってるんだから、美沙さんが家で受け止めてあげないとね」
受け止める。
支える。
信じる。
きれいな言葉ばかりだった。
けれど今の美沙には、それらが全部、自分を黙らせるための紐に見えた。
引き出しの奥に、一枚の紙が入っている。
離婚届だった。
数か月前、市役所でもらってきた。
本当に出すつもりはなかった。
ただ、持っているだけで、自分にも逃げ道があると思いたかった。
美沙は引き出しを開けた。
薄い緑色の用紙を取り出す。
そこにはまだ、何も書かれていない。
夫の名前も。
自分の名前も。
理由も。
終わりの印も。
何もない空白が、今の自分のようだった。
美沙はペンを握った。
けれど、書けなかった。
本当に離婚したいのか。
それとも、ただ航平に「悪かった」と言ってほしいだけなのか。
ホテルのレシートの説明がほしいのか。
それとも、自分が間違っていなかった証明がほしいのか。
分からなかった。
分からないまま、美沙は離婚届を封筒に入れた。
コートを羽織り、音を立てないように玄関を出る。
外は冷えていた。
住宅街の灯りはほとんど消えていた。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。美沙は封筒を抱えたまま、駅の方へ歩いた。
市役所まで行って、どうするつもりなのかは分からなかった。
夜中に窓口が開いているはずもない。
それでも、家にいるよりはましだった。
自分の息が白くなる。
歩くたびに、封筒の角が胸に当たった。
午前零時を少し過ぎたころ、美沙は市役所の前に立っていた。
昼間は人で混み合う建物も、夜は別のものに見えた。
大きなガラス扉の向こうは暗く、受付カウンターも、番号札の機械も、すべて眠っている。
美沙は扉に近づいた。
当然、自動ドアは開かない。
来るだけ無駄だった。
そう思って踵を返そうとしたとき、建物の右端に、ぼんやりと明かりが見えた。
通用口だろうか。
普段なら気づきもしない場所に、細い階段があった。地下へ続いている。
階段の上には、古びた案内板が掛かっていた。
美沙は息を止めた。
そこには、見慣れない文字が書かれていた。
「夜間受理窓口」
そんな窓口、聞いたことがない。
けれど階段の下からは、蛍光灯の白い光が漏れている。
まるで誰かが、美沙を待っているように。
引き返すべきだと思った。
それなのに、足は階段を下りていた。
一段。
二段。
三段。
外の音が遠ざかる。
代わりに、紙をめくるような音が聞こえてきた。
地下の廊下は、古い役所の匂いがした。湿った紙、インク、鉄製の棚。壁には、年代の分からない掲示物が貼られている。
廊下の突き当たりに、小さな窓口があった。
ガラスの向こうに、女が座っている。
黒い制服。
白い手袋。
髪はきっちり結われ、顔には年齢がなかった。
女は、美沙を見ると静かに頭を下げた。
「いらっしゃいませ。夜間受理窓口です」
美沙は声が出なかった。
女の前には、赤い朱肉と、古びた受理印が置かれていた。
その赤だけが、妙に鮮やかだった。
「あの……ここは」
「提出なさいますか」
女は、美沙の胸元を見た。
そこには封筒がある。
美沙は反射的にそれを抱きしめた。
「まだ、書いてません」
「かまいません。未記入のままでも、受け取れます」
「でも、私……本当に出すかどうか」
「出せなかったものを扱う窓口ですので」
女の声は、感情がないのに、不思議と冷たくはなかった。
美沙はゆっくり封筒を差し出した。
女は白い手袋でそれを受け取り、中から離婚届を出した。
薄い緑色の用紙が、窓口の蛍光灯に照らされる。
女は書類に目を通すと、赤い印を手に取った。
美沙の心臓が跳ねた。
受理される。
終わる。
何かが、ここで決まってしまう。
けれど女は、印を押さなかった。
かわりに、静かに離婚届を美沙の方へ戻した。
「こちらの離婚届は、まだ受理できません」
「……どうしてですか」
声がかすれた。
女は、美沙をまっすぐ見た。
「ご主人の嘘が、未提出です」
その瞬間、窓口の奥で、どこかの引き出しがひとりでに開く音がした。
金属のレールが、闇の中でゆっくり鳴った。
女は一枚の白い書類を取り出す。
そこには、赤い文字でこう記されていた。
差戻通知
女――宮乃と名札に書かれた受付係は、淡々と告げた。
「まずは一枚目から、お持ち帰りください」
美沙は、動けなかった。