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春。
制服のシャツに袖を通すと、ほんのりと洗剤の香りがした。桜はもう散り始めていて、歩道には花びらが積もっている。新学期の朝、深澤悠真は、少しだけ早起きして登校していた。
「……今日は、席替えあるかな」
独り言を呟きながら校門をくぐると、見慣れた背中が前を歩いていた。
肩までの黒髪に、きれいな姿勢。
「おはよう、悠真くん」
振り向いた彼女、瀬川日菜は、微笑みながら声をかけてきた。
「おはよ、日菜」
中学からの同級生。特別仲がいいわけじゃないけど、話せば普通に笑い合える相手。
ただ、彼女と話すときだけ、悠真の心は少しだけざわついた。
新しいクラスには、知らない名前がいくつも並んでいた。でも、悠真の斜め後ろの席には――
「また一緒のクラスだね」
日菜がいた。
それだけで、少しだけ今日が特別に思えた。
放課後、教室には雨の音だけが響いていた。傘を持っていなかった悠真は、窓の外を眺めながら時間を潰していた。
「ねえ、これ聴く?」
声がして顔を上げると、日菜が片耳のイヤホンを差し出していた。
「え?」
「音楽。待つの退屈でしょ」
その時、イヤホンから流れてきたのは、どこか懐かしいメロディだった。
日菜は窓の外を見ながら、微笑んでいた。
「この曲、好きなんだ。春になると聴きたくなるの」
悠真は、何も言えずにただ頷いた。心臓が、やけにうるさかった。
教室の時計が昼休みを告げるチャイムを鳴らすと、ざわめきが一気に広がった。
机を寄せ合って弁当を広げるグループ、購買ダッシュを狙って立ち上がる男子たち。
教室の隅では、カーテン越しに光を浴びながら本を読む子もいた。
悠真はというと、廊下側の自分の席で、購買パンを机の上に並べていた。
「やっぱ今日も焼きそばパン……」
隣の席の木下が、苦笑いで見下ろしてくる。
「いいじゃん。安定の味。ていうかお前、今日のメロンパンで3日連続じゃね?」
「俺はメロンパンに忠誠を誓ってるから」
「……意味わかんねーよ」
そんな他愛もないやりとりに、笑い声が混じる。
何気ない、それだけの昼休み。
そこへ、教室の後ろから声が飛んできた。
「悠真くん、それ今日の? やっぱり焼きそばパンだった?」
瀬川日菜が、自分の席から顔を覗かせて笑っていた。
「うん。もう、これじゃないと昼が始まんないんだよ」
「ふふ、前にも同じこと言ってたよね。それ、1年のときも聞いた」
「……そんな昔のこと、覚えてんの?」
「覚えてるよ。なんか、変わらないなぁって」
その一言が、不思議と胸の奥に残った。
静かに流れる時間。教室の窓から差し込む光が、日菜の髪に反射していた。
春の午後の、少し緩んだ空気の中で――悠真は、自分の心の変化に気づかないふりをしていた。
昼休みが終わる頃、悠真と日菜はいつものように話しながら、食堂へ向かっていた。
日菜の笑顔がまぶしくて、悠真はつい視線をそらしたり、上手く言葉が出なかったりしたけれど、彼女は気にしていない様子だった。
「さて、午後の授業は体育だね」
「うん、また、バスケの授業?」
「うん、でも今日、監督が来るんだって。なんか新しいメンバーが加入するかも」
日菜がそう言うと、悠真は少しだけ興味を引かれた。
「新しいメンバー? どんな人だろう」
そのとき、教室のドアが開き、体育館へ向かう途中の男子たちが一斉に話し始めた。
「うわ、来た来た。見て、あれが新しい人だ」
「うお、イケメンじゃん!」
「でも、運動神経もヤバいらしいよ」
「やばいって、どういうこと?」
ざわめくクラスの中、悠真は無意識にそちらを見た。
体育館の方から、1人の男子が悠然と歩いてくる。その男の姿を見た瞬間、教室の空気が一瞬で変わった。
背が高く、肩幅も広い。運動部のジャージに身を包んだその男、桐島怜(きりしま れい)は、まさに「イケメン」の代名詞だった。顔立ちは整っていて、目元には少し冷たい印象があり、でもその瞳の奥には何か強い意志を感じさせる。
桐島が教室に入ると、周りの男子も少し引いたような表情を見せ、女子たちの視線は明らかに彼に注がれていた。
「……あれが、桐島怜か」
「噂通り、マジでカッコいいな」
悠真は、ふと顔を見合わせた日菜に視線を向ける。
日菜はその姿をじっと見つめ、少しだけ驚いたような表情を浮かべていた。
「……うーん、確かにイケメンだね」
それだけ、軽く言ってはみたものの、内心では悠真の心に少しだけモヤモヤが生まれていた。
「じゃあ、午後の授業、楽しみだね」
日菜がそう言って、どこか照れたような顔を見せた。
彼女がそんな風に思うことに、少しだけ複雑な気持ちが湧いた。
でも、悠真はそれを口に出すことなく、ただ何となく頷いた。
体育の授業が始まり、男子たちはバスケのコートに集まっていた。桐島がどんなプレーを見せるのか、それを見た瞬間、また新たな感情が動き出した。
その瞬間、何かが変わった。
誰にも言えない、もやもやとした何かが心の中に芽生え始めていた。
昼休みの終わり、教室のドアが静かに開いた。その瞬間、教室全体が一瞬静まり返った。
入ってきたのは――
「えっ?」
その声を漏らしたのは、どこかで見覚えのある男子、木下だった。
転校生。
普段なら、こうした突然の転校生の登場に、特に誰も大きな反応は示さないだろう。しかし、この男子は違った。
その男子、桐島怜は、明らかにただの転校生ではなかった。
身長は180センチ近く、シャープな顔立ち、そしてその視線にはどこか冷徹で、強い意志を感じさせるものがあった。
悠真は目を見張った。
その顔は、間違いなく、昨日体育館で見かけたのと同じだった。
「桐島怜です。よろしく」
転校生は、無表情でクラスに自己紹介をする。その冷たい視線が、クラス中を一巡した後、悠真の目の前で止まった。
「……」
桐島は、ほんの少しだけ悠真と目を合わせ、そしてまたすぐに視線を外した。それが、どこか無関心なようで、でも少しだけ挑戦的に感じた。
「……」
教室の空気が、また少し重くなる。
女子たちは興奮気味にざわめき、男子たちはその背筋を正すように少し身を乗り出していた。
その後、先生が桐島に席を指定し、悠真の斜め前の席に座ることが決まった。
「おお、桐島、あのバスケ部の子じゃね?」
「マジか、来たんだな。全国クラスの実力持ってるらしい」
クラス中がささやき始め、悠真もその流れに乗ることができなかった。
桐島が席に着くと、まるで空気が一段と張り詰めたように感じた。
普段の、悠真にとっての「普通の昼休み」「普通の教室」が、突然違うものに変わった。
昼休みが終わり、再び授業が始まった。
ただ、どこか気まずさを感じていたのは、悠真だけではなかった。
桐島が教室に登場してから、日菜の様子も少しおかしかった。
日菜が、いつもよりも少しだけ視線を桐島に向けていたからだ。
悠真はそれを見逃すことができなかった。
「……日菜、どうかした?」
「え? あ、いや、別に。なんでもない」
日菜は慌てて顔をそらし、少し赤くなった。
「それより、放課後のバスケ見に行くんでしょ? 桐島くん、どんなプレーするか楽しみだよね」
その言葉に、悠真の心は少しずつざわつき始めた。
桐島がやってきたことで、日菜との距離が少しだけ遠く感じられる。彼女の目が、桐島に向けられるたび、悠真は胸の奥で何かが引っかかっているのを感じた。
放課後、体育館に集まる生徒たち。
桐島怜の姿を見に、皆が集まってくる。彼の登場は、単なる転校生としての一歩ではなく、既に周囲を引き寄せる力を持っている。
放課後、体育館の中はいつになく賑わっていた。
桐島怜の転校初日、初めてのバスケの練習試合――そのプレーを一目見ようと、みんなが集まってきていた。
悠真は、教室を出るときからずっと心がざわついていた。
日菜が桐島のことをどう思っているのか、それが気になって仕方なかった。
一緒に教室を出て、体育館に向かう途中、日菜が何度も桐島の方をチラチラと見ているのに気づいて、悠真の胸はさらにざわついた。
「ねえ、悠真くん。今日の試合、桐島くんすごいって噂だよね」
日菜が嬉しそうに話しかけてきた。その笑顔には、どこか楽しみにしている様子があった。
「うん、そうみたいだね」
悠真は少しだけ薄く笑う。だけど心の中では、どこかモヤモヤとした気持ちが渦巻いていた。
体育館に入ると、すでに桐島はコートに立っていた。その姿は、まさに「絵になる」――背筋が伸び、動きが滑らかで、見ているだけで「ただ者ではない」オーラを感じさせる。
それを見た日菜の表情が、少しだけ輝いた。
「あの子、ほんとにカッコいいよね」
その言葉に、悠真は心の中で何かがギュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
試合が始まると、桐島はその言葉通り、まさに圧巻のプレーを見せた。
抜群の身のこなしでボールを操り、相手チームを次々と抜き去っていく。
彼の一挙手一投足に、観客席の目が釘付けになる。
「すごい……!」
日菜が声を上げる。その笑顔に、悠真はまた、何も言えなくなってしまった。
その日の練習が終わり、帰り道、日菜と悠真は一緒に歩いていた。
桐島が見せたプレーにみんなが興奮し、どこか興奮気味の雰囲気が漂っている。
「桐島くん、すごかったね。本当に全国レベルなんだ」
日菜はそう言って、再びあの輝くような笑顔を浮かべていた。
「うん、ああいうプレー、見たことないよね」
悠真は無理に笑顔を作って答えた。けれど、心の中で何かが引っかかっていた。
日菜は桐島に、確実に心を動かされている。それがわかるからこそ、悠真はどうしてもその気持ちを素直に受け入れられなかった。
「ねえ、悠真くん、最近全然バスケやってないよね?」
突然、日菜がそう言って、足を止めた。
「え?」
「ずっと見てるだけじゃなくて、たまには一緒に練習しない?」
その一言に、悠真は少しだけ戸惑った。
「まあ……でも、日菜が楽しければいいけど」
「私、悠真くんが本気でやってるとこ見たいんだよね」
日菜の目が、いつもより少しだけ真剣だった。
その瞬間、悠真の心はまた大きく揺れた。
日菜の言葉が、どこか優しすぎて、けれどその優しさが――桐島に向けられるものだと思うと、なぜか胸が痛くなった。
その痛みを必死で隠しながら、悠真は頷く。
「……うん、わかった。じゃあ、また今度、練習しよう」
その後、日菜と別れて家に帰る途中、悠真はふと足を止めた。
教室で日菜と話している時、ちらりと見えた桐島の視線を思い出す。それは、ただの無関心なものではなかった。
桐島は、確かに悠真に目を合わせた。でも、悠真が感じたのは、ただの挑戦ではない――
「桐島、あいつ、日菜のことをどう思ってるんだ?」
その問いが、悠真の頭の中でぐるぐると回り続けた。
その夜、悠真はふと自分の携帯を開いた。
SNSをチェックしていると、日菜が桐島と一緒に撮った写真をアップしていた。
二人が並んで、楽しそうに笑っている写真――その写真を見た瞬間、悠真の心は一瞬にして冷たくなった。
「……これ、どういうことだよ」
写真の中の日菜は、無邪気に笑っていた。桐島もまた、どこか嬉しそうに笑っている。
その笑顔を見た瞬間、悠真は自分が何か大きな勘違いをしているような気がした。
桐島は日菜に、あの笑顔を向けている。
悠真は、自分の感情がどうなっているのかがわからなくなった。
「……俺、どうすればいいんだ?」
その問いが、今度は悠真の胸の中でぐるぐると回り始めた。