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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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取締役会が終わったのは、十一時を少し過ぎたころだった。
役員たちは次々に立ち上がり、何事もなかったように、午後の予定の話をしながら出ていった。
副社長は、出ていくとき、私の椅子の横で一度だけ足を止めた。
「お疲れさま、瀬名さん。今日は、よく頑張ったね」
一本の線。
丸い眼鏡の奥の目は、さっきと同じ、やわらかい目だった。
*
四十三階に戻ると、社長は窓際の執務机に座り、上着も脱がずに書類を広げた。
私は、扉の横の自分の机には戻らなかった。
執務机の前に、立った。
「社長」
「なんだ」
「堂島常務が、最後に叫んだこと」
声が、思ったより細く出た。
「聞こえましたか」
社長は、書類から顔を上げた。
切れ長の目が、私を見た。
「……聞こえなかった」
三秒。四秒。五秒。
輪郭の上で、砂嵐がざわついていた。
目も、眉も、口元も、ちゃんとそこにある。けれど、その奥から、何も届いてこない。
聞こえなかったはずがない、と思った。
常務の声は、天井に跳ね返るほど大きかった。社長は、その一秒後に「退席させろ」と言った。間を置かずに。まるで、続きを誰にも言わせないために。
けれど、確かめる方法がなかった。
十日前の私なら、この人の顔を三秒見るだけで済んだ。今は、何秒見ても、灰色の粒が揺れているだけだ。
「そうですか。……変なことを聞いて、すみません」
「灯。今日は、もう帰れ。顔色が悪い」
「まだ、午後の会議の資料が」
「柏木にやらせる」
社長は、書類に目を戻した。
それ以上、何も聞かなかった。まのとは誰のことだ、とも。君は誰だ、とも。
聞かれないことが、こんなに怖いとは思わなかった。
*
鷹宮に来たのは、偶然ではない。
そのことを、私は誰にも話したことがない。母にも、まどかにも、社長にも。
鷹宮グループは、子会社の帳簿の原本まで、本社ビルの地下でまとめて保管している。大学四年の冬、図書館で読んだ業界紙の小さな記事に、そう書いてあった。保存期間は、十五年。
十五年前の、鷹宮不動産の帳簿。
父が承認したことになっている伝票が、綴じられているはずの帳簿。
それが、今年度の終わりに、期限を迎える。
三年前、派遣会社の登録の面談で、私は自分から鷹宮の名前を出した。経理の仕事なら、何でもします、と。担当の人は、珍しいですね、と笑った。
顔を見なくていい仕事を選んだ、と人には言ってきた。半分は本当で、半分は嘘だ。
派遣の入館カードでは、地下二階の扉は開かなかった。三年間、経理部の窓から一番遠い席で、私は、足の下に眠っている紙の山のことを考えていた。
秘書になって、カードは全フロアで使えるようになった。扉の奥の書庫の鍵だけは、総務が持っている。
それでも、まだ一度も、地下へは降りていなかった。
*
それから、半年近くが過ぎた。
堂島常務は、八月に、自分から取締役を辞めた。工場との取引の件は警察の手に渡り、社内では、もう誰も口にしなくなった。
御影さんは、五・一パーセントを持ったまま、静かになった。三十日の期限が過ぎても、臨時株主総会は求めてこなかった。「急がないことにしたんだ」と、一度だけ、電話で言っていた。
母は、夏の終わりに心臓の手術を受けた。経過はいいけれど、退院は二月になるという。個室の窓から、季節が二つ変わるのを見ている。
私は、社長の家に住み続けていた。
朝は卵焼きを焼き、社長は「明日も」と言い、十二時四十分に同じ弁当を二つ取った。パーティの夜から、キスは一度もしていない。手を握られたのは、熱の夜と、高速の帰り道だけだ。
社長は、真野という名前を、一度も口にしなかった。
私も、聞かなかった。
九月に一度だけ、総務の窓口で、文書の閲覧申請の様式をもらおうとしたことがある。担当の人は、ファイルをめくりながら言った。
「子会社の保存箱の閲覧は、その子会社の経理部長の承認が要ります。鷹宮不動産なら、江藤部長ですね」
私は、様式を受け取らずに帰った。
名前の残る紙を、どこかに出す勇気がなかった。
誰かが、私の本当の名前を知っている。
非通知の声。堂島常務の叫び。副社長の、やわらかい目。
動けば、見られる。動かなければ、何も起きない。
何も起きない毎日は、甘い卵焼きの匂いがした。
*
十二月の、最初の月曜。
社員食堂の窓際で、まどかが、唐揚げ定食の上に身を乗り出した。
「ねえ、灯。総務、今、年度末の廃棄リスト作りで死んでるの」
「廃棄リスト」
「地下の文書庫。保存期限が切れる箱を、全部書き出すんだって。四月の頭に業者がトラックで来て、まとめて溶かすの」
まどかは、箸の先で唐揚げを割った。
「今年は量が多いらしいよ。子会社の、十五年前の帳簿が、まるごと期限切れだから」
味噌汁の椀を持つ手が、止まった。
あと、四か月もない。
「まどか」
「ん?」
「総務の鍵束。……文書庫の鍵も、ある?」
まどかは、唐揚げを口に入れたまま、私の顔をじっと見た。
それから、ゆっくりと飲み込んだ。
「あるよ。……あるけど」
声が、低くなった。
「借りたって、言わないでよ?」
*
その夜、私は社長に、まどかと夕食に行く、とメッセージを送った。
既読の印がついて、『遅くなるなら連絡しろ』とだけ返ってきた。
この家に来てから、何度目の嘘だろう。数えるのは、とうにやめていた。
九時四十分。
人のいなくなった一階のエレベーターホールで、まどかから、鍵を一本だけ受け取った。真鍮の、古い鍵。札に「B2 文書庫」と書いてある。
「十一時までに、受付の引き出しに戻しといて。私は、帰ったことにする」
「ありがとう」
「何を探すのか、聞かないからね」
まどかは、それだけ言って、通用口のほうへ歩いていった。
地下二階で、エレベーターの扉が開いた。
入館カードをかざすと、重い扉の横の小さなランプが、緑に変わった。
廊下の突き当たりに、灰色の鉄の扉。鍵を回すと、思ったより軽い音がした。
*
文書庫は、冷たかった。
天井の蛍光灯が、一本だけ切れている。その下だけが、夜の底のように暗い。
可動式の書架が、壁から壁まで隙間なく並んでいた。それぞれの端に、船の舵のような丸いハンドルがついている。回すと書架がレールの上を滑り、見たい列の間にだけ通路が開く仕組みだった。
棚の端の札を、一列ずつ見ていった。
本社。フーズ。リゾート。
不動産。
ハンドルに両手をかけて、体重ごと回した。
書架がゆっくりと左右に分かれ、人一人がやっと通れる幅の通路が開いた。
切れた蛍光灯の、真下の列だった。
スマホのライトをつけて、中に入った。
段ボールの保存箱が、棚にぎっしりと並んでいる。側面に、番号と年度と部署名。鷹宮不動産、経理部。
父が死んだ年の、春から夏。架空の工事の伝票が切られていた時期。
その番号の箱は、棚の、ちょうど目の高さにあった。
手を伸ばした。
軽かった。
蓋を開けた。
中には、何もなかった。
ファイルも、帳簿も、紙一枚も。底に、薄く埃が積もっているだけだった。
隣の箱を開けた。空だった。
その隣も。
棚には、番号を書いた箱だけが、きちんと並んでいた。中身だけを抜いて、外側を残したように。
三年。
三年間、私はこの空の箱の真上で、伝票を打っていた。
*
ぎ、と音がした。
金属の擦れる、低い音。
通路の入り口のほうからだった。
振り向くと、スマホのライトの輪の外で、何かが動いていた。
隣の書架が、レールの上を、こちらへ滑ってくる。
ゆっくりと。
けれど、止まらずに。
通路の幅が、少しずつ、狭まっていく。
肩幅。
それより、少し狭く。
暗い通路の入り口で、丸いハンドルの回る音がした。
カラ、カラ、と、一定の速さで。
誰かが、回している。
コメント
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みぅです🤍🥀 第31話、読み終わりました……。 地下の書庫のシーン、すごく怖かったです。箱の中が空っぽだった瞬間、鳥肌が立ちました。3年間見てきたもの全部が「なかったこと」にされてるみたいで。 社長の「聞こえなかった」も、絶対嘘ですよね。あの場面で出てこなかった“真野”という名字。灯ちゃんの心臓の音がこっちにも聞こえてきそうでした。 続き、気になります……!