ぐううぅぅ……。
「さあ、次の方どうぞ」
ケージの片隅に、労働者がひとり倒れている。
八角形の狭い空間の中で向かい合うなり、ジョーの左ミドルキックを受けてそのままうずくまってしまったのだ。
医師がリングに上がり、労働者の状態を確認している。
労働者は苦悶の表情のまま息を整え、どうにか「大丈夫です」と声を絞り出した。
ジョーの一発でコロシアムの雰囲気は変わった。
まるで冗談の通じない真剣勝負の場だということを全員が察した。とても会社経営を生業とする財閥息子とは思えないキックに全員が衝撃を受けていた。
「常務、ホンキっすよ。ちょっとでも気を抜いたらかえって大けがします。全力でいってください」
最初に戦った労働者の凄惨な姿を見て、玖村蓮が言った。
「ああ……やってやる」
2番目の挑戦者がケージの中に入った。
しかし試合開始1分でジョーの左フックを被弾し、金網を背にしたままへたり込んでしまった。
3番目の労働者もまた同じだった。しっかりと距離を置いてチャンスを伺おうとしたが、2分足らずでタックルをくらいギロチンチョークによって失神した。
財閥息子の前に敗れた3人の男たちが、ケージの外で動けずにいる。
玖村蓮は蔑むような目で3人を見つめ、ゆっくりとオープンフィンガーグローブを着用した。
「常務、お望み通り本気で潰してやりますよ」
「当然そうすべきでしょう」
ふたりは1メートルの距離で向かい合ったあと、お互いのコーナーに戻った。
試合が開始すると、直後に玖村蓮は全力で飛び蹴りを食らわそうとした。ジョーは軽々とサイドによけ、玖村の左顔面に向けてフックを放った。
玖村蓮はガードを上げてフックを防ぎ、ジャブで応戦した。ジョーは低い体勢を整え、そのままタックルに入った。
玖村の下半身をつかんで倒し、そのままサイドポジションに入る。
くそっ!
玖村の生々しい声が響いた直後、ジョーのこめかみのあたりに強い衝撃が走った。
玖村の肘打ちがジョーの頭部をとらえたのだ。
『マーシャルFC』が肘ありルールを撤廃しただけに、勇信自身も肘を想定したトレーニングを行ってこなかった。
勇信の戦法に落ち度はなかったが、この戦いはマーシャルFCの公式戦ではない。
吾妻財閥の次男と、秋山組の労働者との合法的なケンカの場なのだ。
ジョーはこれ以上肘をもらわないため、すぐに姿勢を変えてフルマウントポジションへと移行した。馬乗り状態のまま、上から10発近いパンチを玖村の顔面に打ち込む。
格闘未経験者のほとんどがそうであるように、玖村もまた下から無理にパンチを返そうともがいた。自身の対応が愚策であると気づいたときには、すでに相当なダメージを負っていた。
さらなる追撃を恐れ、玖村が体をひねり反転した。
ジョーは相手の肩と首の間に腕を忍び込ませ、ギロチンチョークで首を締め上げた。
結局玖村蓮は最後までタップアウトをせずに、そのまま失神した。
医師たちがケージの中に飛び込み頬を叩くと、玖村はようやく意識を取り戻した。
「ちくしょう……」
コロシアムの天井をぼんやりと眺めながら、玖村はつぶやいた。
4人を完全に制圧したジョーは、肩で息をしながら水を一口飲んだ。そして労働者たちを見つめながら、心の中で自分に問いかけた。
――俺はなぜここで殴り合ってるんだ。
堀口課長に暴行を加えた者たちへの報復?
会社の秩序を保つため?
いや、俺には理由が必要だった。
実戦経験を積むための大義名分が。
こぶしでケリをつける事案など、一般社会にはあるはずもないから。
年俸削減。
左遷。
解雇。
会社には、マニュアルに沿った制裁があるだけだ。
だが俺は、ある種の野蛮な手段で相手を痛めつけている。
わかってる。
わかってはいるが、俺の属性が俺をとめてはくれない。
いつか本当に戦う日のために。
吾妻勇信を守る日のために、俺は実戦で勘を養っておかなければならない。
ジョーは無意識に葛藤している自分に驚き、我に返った。
呼吸を整えた玖村蓮が立ち上がった。
「常務。あなたの報復の方法がめちゃくちゃ気に入りました。今さらですが、酒の勢いで堀口課長に手を上げたことは間違いだったって思います。常務のこぶしを味わって、やっと自分たちの過ちに気づいたような気がします。ホント、すいませんでした」
「常務、もう二度とあんな真似はしませんので、どうか今回だけ許していただけませんか。どうかお許しください。お願いします」
労働者のひとりが言った。
4人の労働者が頭を下げて謝罪している。しかし遠くからその様子を眺めていた秋山泰泳が、突然ケージの中に入ってきた。
「常務、堀口課長に対する暴行は我々の重大な過失です。その点に関しては心よりお詫び申し上げます。しかし正直言って、あまり気分がすぐれませんね」
「監督、どうしたんですか?」
労働者たちが尋ねた。
「うちの社員たちを社則によって裁くのではなく、鉄拳制裁という形をとったことに納得がいきません。監督として、またひとりの男として」
秋山泰泳はそう言って、玖村蓮が使っていたグローブを着用した。
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