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「……失礼します」
会議室の重い扉を閉めた瞬間
張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
室内には私と健人さんの二人きり。
ブラインドの隙間から差し込む午後の光が、会議用テーブルを白く照らしている。
手元の資料を握りしめ、私は努めて「部下」らしい距離を保って立った。
「あの、部長。午後の資料の修正箇所というのは……」
「日菜子ちゃん」
遮るように呼ばれた声は、さっきまでの会議室での冷徹なトーンとは正反対。
とろけるように甘くて、少しだけ掠れている。
健人さんは椅子に座ったまま、くるりとこちらを向いた。
そして、ネクタイの結び目を少しだけ緩めると
私の手首を優しく掴んで自分の方へと引き寄せる。
そんな仕草につい胸がドキドキしてしまう。
「ぶ、部長……?!ここ、会議室ですよ!誰か来たら……」
「鍵は閉めてあるよ。……それに今日、僕と目合ってすぐに逸らされたから、なんでかなって」
不満げに細められた瞳。
その至近距離に、私の心臓はまたうるさく鳴り始める。
「シゴデキ部長」として部署の全員から畏怖されている人が
今、私だけに拗ねたような顔を見せている。
「だ、だって、他の人が見てる前で変な顔できませんし……!それに私、まだ夢みたいで…っ」
「ふふっ、だと思った。僕が話しかけたあと、耳まで真っ赤だったからね」
「…み、見てたんですか……っ?!」
「ごめんごめん、日菜子ちゃんって分かりやすいから…つい意地悪したくなってね」
健人さんは楽しそうに笑うと、私の手を引いて、空いている椅子に座らせた。
そのまま彼は、私のデスクに手をついて身を乗り出す。
逃げ場のない、彼の手のひらの中。
「……仕事中、ずっと考えてた。早く二人きりになりたいって」
「…っ」
嬉しい、ずっと、私のこと考えてくれていたんだって、本当に夢みたい。
「だから今だけは、部長はやめてほしいかな」
「え、っと…部長…じゃなくて、萩原さん……」
思わずこぼれた名前に、彼の目つきがふっと熱を帯びる。
「部長」ではなく、恋人としての呼び名。
彼は満足そうに目を細めると、私の頬に指先を這わせた。
「名前の方が嬉しいけど……それも恥ずかしいって顔だね…」
「す、すみません…っ」
「いいよ。ご褒美に、これあげる」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、小さな、けれど高級そうな個包装のチョコレート。
「午後の営業、きついだろう? 糖分を補給しておいた方がいいかと思って」
差し出されたチョコを受け取ろうとしたけれど、彼はそれを引っ込めて、自分で包みを開けた。
そして、甘い香りのする一粒を、私の唇にそっと押し当てる。
「あ……」
甘いカカオの味が口いっぱいに広がる。
それと同時に、彼の親指が私の下唇を羽のように撫でた。
体温が、一気に跳ね上がる。
「……おいしい?」
「…はっはい!すごく」
答えながら、私は気づいてしまう。
チョコレートの甘さよりも、彼の指先の感触や
見つめる瞳の熱さの方が、ずっと私を蕩かしていることに。
「よし。じゃあ、残りの仕事も頑張ろう」
パッと手を離し、彼は再び「完璧な部長」の顔に戻った。
その切り替えの早さに、私は置いてけぼりを食らったような気分になる。
「…部長、慣れてるんですか…っ?こういう、こと」
「こういうこと?」
「お、女の子の扱いというか…」
「全然、普通だよ」
「で、でも!私ばっかりドキドキしてますし…っ」
「そうでもないよ。僕だって、今すぐに君を連れて帰りたくなるのを、必死で抑えてるんだから」
扉を開ける直前、背中越しに聞こえた低い声。
振り返ると、彼はもうパソコンの画面を見つめていたけれど
その耳たぶが少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
じれったくて、もどかしくて。
でも、世界で一番甘い「お仕事」が、また始まろうとしていた。