テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その日は金曜日だった。朝の光が、私の瞼越しに存在を主張する。少し閉め忘れたカーテンの隙間から、朝の静けさがほんの少しだけ覗いていた。
ピピピピピ――ピピピピピ――
「……うーん……」
ピピピピピ――ピピピピピ――
「はいはい……」
左手でスマホの電源ボタンを押す。アラームを止めてからも、私はしばらく布団の中で目を閉じていた。
部屋は一人暮らしには十分な広さで、私の好きな観葉植物が置いてある。シンプルな色で構成された家具も、私の好みだ。水間針は、片付けておかないと気が済まない。
時計の針が一秒ごとに鳴る音だけが、生活の証のように響いていた。
「……そろそろ起きるかぁ」
声に出してみるが、この部屋には返事をする人はいない。それでも、独り言を口にすると、少しだけ空気が柔らかくなる気がした。
台所に立ち、電気ケトルのスイッチを入れる。コーヒーを淹れるのは、毎朝の日課だった。お湯が湧くまでの間、冷蔵庫を開ける。昨日の残りの野菜、半分使いかけの卵、小さめな合挽肉のパック。萎びてカサカサになったネギを、無造作にゴミ箱に捨てた。
……特に変わり映えしない、いつも通りの中身。
「……ハンバーグ、久しぶりに作ろうかな」
――思い出したのは、十四年前の春。
大学の近くのアパートで、初めて出来た彼氏と、二人で作ったハンバーグ。うっかり焦がして笑い合った夜の匂い。
その記憶が、油の匂いと一緒にまだどこかに漂っている気がする。
朝食はトーストとコーヒーだけにして、身支度を整える。鏡の中の自分に、短く挨拶した。
「今日も、頑張らない程度に頑張ろ」
目元の小さなクマを隠すように指でなぞった。
通勤電車は、いつもより少し混んでいた。車窓に映る自分の顔を眺めながら、イヤホンの音量を少し上げる。
僅かに聞こえる、周りの音。隣の学生たちが笑っている。その声に混じる笑い方が、かつての彼の笑い方に少し似ている気がして、思わず窓の外に視線をそらした。
会社に着くと、午前中は書類とメールの整理であっという間に過ぎた。迎えた昼休み、同僚が新しいお弁当箱を見せながら言う。
「最近、自炊始めたんだ。やってみると、意外とハマるね」
「いいじゃん。料理は、無心になれるもんね」
「え、料理するの?」
「うん、気が向いたらだけど。昨日も作ったよ」
「何作ったの?」
「オムライス」
「へえ、いいなあ。写真撮ればよかったのに。みんなタグ付けて、SNSアップしてるでしょ」
「確かに。次は撮るかも。てか、そんなに私が料理するの意外?」
「あー。ごめん、なんかイメージになくて」
「酷いなぁ」
笑いながら答えた。
(――写真、か。彼といたころは、よく撮っていたっけ。焼け具合がいいとか、ソースの照りがどうとか、盛り付けが上手くいったとか、そんな他愛もない理由で)
午後、仕事が一段落したころ、休憩スペースでコーヒーを飲む。本日二回目のコーヒー。カフェインの撮り過ぎが良くないことはわかっているが、やめられなかったし、やめるつもりもなかった。コーヒーを飲みながら、SNSの懸賞アカウントを何気なくスクロールしていく。
『#食材モニター』『#懸賞当選』『#無料サンプル』『#キャンペーン』。懸賞関連の投稿を見ると、つい参加してしまう。これなら、応募だけなら名前、住所、メールアドレス、何もいらない。
『フォロー&リポストで応募OK!』という文字が輝いて見える。『どうせ当たらないよね』と思いながらも、フォローとリポストをタップすると、胸の奥が少し軽くなった。
……なぜだろう。誰かが見ていてくれる、そんな気のする瞬間があった。
定時で上がり、外に出ると風が少し冷たくなっていた。春の終わりの夕暮れは、色が淡い。
スーパーの袋を提げ、マンションの坂を上る。買ったものは、玉ねぎとパン粉と牛乳。今足りない、ハンバーグの材料。
「今日はちゃんと、焦がさないようにしよう」
独り言を呟きながら、ふと足元のアスファルトを見ると、西日が影を長く伸ばしている。その影が、一瞬二人分に見えた。
家に帰り、カーテンを閉めて照明を点ける。手洗い、うがい、ルーティンの動作を終えた後、冷蔵庫を開ける。残っていたひき肉のパックは、ちょうど良い色のままだった。賞味期限は明日だ。
「よし、久し振りにハンバーグにチャレンジ」
玉ねぎを刻みながら、彼の声がふっと浮かんだ。
――焦げ目がつくくらいが、一番美味いんだ。
「わかってるって」
笑って、手早く動く。玉ねぎを炒めパン粉を牛乳に浸し、ボウルに材料を入れてこねる。だんだんと手の中の温度が上がり、柔らかくまとまっていった。
「ね、こんな感じで合ってたよね」
誰にともなく話しかけながら、フライパンを温めた。
――じゅうっ。
音が弾け、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。油が跳ねて、頬に小さく当たった。
「いたっ……。もう」
半分呆れて笑いながら、フライ返しを握る。
ハンバーグを皿に盛り、ソースをかけた。湯気の向こうに、甘くて濃い匂いが広がる。テレビの音をつけるのも忘れて、ただ黙って食べた。味は、思っていたよりも優しかった。
「美味しい」
その一言で、今日一日の疲れがどこかへ飛んでいくようだった。
洗い物を終えて手を拭くと、指の先に少しだけ油の匂いが残っていた。
「……これ、投稿しとこうかな」
スマホを手に取り、写真を一枚撮る。
『#おうちごはん』『#手作りハンバーグ』『#自炊ご飯』『#ハンバーグ』
投稿ボタンを押すと、心の奥にぽっと灯りがついたような気がした。
三嶋トウカ
354
コメント
1件
三嶋トウカさん、毎度お世話になっております!美月ゆめかです🌸 第2話、読み終わったよ〜!もうね、冒頭の朝の描写だけで「あ、この人の生活、ちゃんと見てみたい」って思わせる空気感が素敵すぎた😭💕特に「今日はちゃんと焦がさないようにしよう」って呟きながらハンバーグ作るシーン、過去の彼との思い出と重なって、胸がぎゅってなったよ…。SNSに写真投稿する時の灯りがともるような感覚、すごくわかるなあ。 続きめっちゃ気になる!次回も楽しみにしてるね〜⋆♡