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馨が素直じゃないのはわかってた。
黛の件が片付いたからと、自分から別れを告げた馨がすんなり戻ってくるとも思っていなかった。
だからこそ、安永に頼んで高津を尾行してもらった。
お陰で、馨の居場所を突き止められたし、会えた。
けれど、帰国した馨が真っ先に連絡を取ったのが俺ではないことに、改めて腹が立った。
馨が俺を愛してくれていることはわかっている。愛してくれているからこそ、別れを決めたことも。
それでも、俺は一緒にいる苦しみを選んで欲しかった。
馨と離れていた二週間のことは、正直よく覚えていない。記憶は、ある。高津と交わした言葉も、黛の涙も覚えている。
だが、あまりにも目まぐるしくて、余裕がなさ過ぎて、実感がない。
とにかく、馨を取り戻したい一心で、必死だった。
同時に、黛が逮捕されても馨がすぐに帰国するのか、帰国しても高津を選ばないか、不安でたまらなかった。
もちろん、帰国しないのであれば俺が行こうと思っていたし、たとえ高津を選んでも取り戻すつもりでいた。
それでも……。
だから、馨に『関係ない』と言われて、感情の堰がきれた。
狂ったように馨を抱いた。
腹の痛みなんか感じないほどの快感に溺れた。どうせなら、傷が開けばいいとすら思った。
そうしたら、馨は俺から離れられないだろう……?
どんな方法でもいい。どんなに卑劣な方法でも構わない。
一生、馨をこの腕に縛り付けておけるのなら——。
愛と狂気は表裏一体。
馨のように、愛する者のために身を引くような美しい愛し方、俺には出来ない。なら、俺は狂気に満ちた愛を貫く。
馨に恨まれても、憎まれても構わない。
その恨みや憎しみを受け止められる距離に居続けられるのなら、それでいい。
馨が俺を罵りたい時に罵れる距離。殴りたい時に殴れる距離。
俺って、やっぱMか?
以前、酔った馨に縛られた時にも思った。
身動きの取れない状況で、これ以上ないほど興奮した。
ま、馨限定だな。
自分の考えに可笑しくなって、思わずふっと声が漏れた。
まだ薄暗い明け方で良かった。
そうでなきゃ、無精ひげを生やしてにやけ顔で歩いている、ただの変人だ。
そうだ。
こんな姿で放り出されたのは初めてだ。
だから、こんな姿で一生に一度の大勝負をしなきゃならないのは、俺のせいじゃない。
ドアの前で泣くと脅したり、縛られて興奮したり、プロポーズした直後に追い出されたり。馨と付き合ってからの俺は散々だ。俺がしたことを知ったら、どうなることやら。
腹の傷が増えるかもしれないな、と思った。
馨に愛された証なら、どんな傷も甘んじて受けよう。
それでも、馨に拒絶されたら……。
俺は一抹の不安に蓋をした。
大丈夫。
切り札はこの手にある————。
俺は覚悟を決めて、切り札を差し出した。
*****
専務室のドアが少し開いていて、中の声が微かに漏れてくる。
俺は新調したスーツの襟を正して、背筋を伸ばしてドアの前に立っていた。
「いきなり専務だなんて、荷が重すぎます。私は一社員から——」
「気持ちはわかるけど、社内にも社外にも馨ちゃんのことを知っている人間がいる以上、一社員として働かせるわけにはいかないんだよ。荷が重くても、風当たりが強くても、相応の役職にいた方がいい。それに、私なんて大学の講師から社長就任までたった半年だった。会社員の経験すらなかったのに、だ。その点、君は一般企業というものを知っている。それだけで、充分だよ」
何が充分なんだ。
部長だった俺ならまだしも、主任だった馨が専務は、ない。だが、さすがに会長も社長も、『それ』は許さなかった。
「大丈夫。馨ちゃんの社長就任まで、まだ三年程ある。一年程専務として勉強してから二年間副社長として経験を積めば、すんなり社長就任できるよ」
無茶苦茶だ。
今時、会社役員が六十歳で定年退職するなんて、あり得ない。
社長は、よほど引退したいのだろう。
「それに、馨ちゃんの秘書は信頼出来る優秀な人間だ。心配はいらないよ」
「はあ……」
力ない馨の声には、不安が滲み出ていた。だが、馨自身が選んだ道だ。
「わかりました。頑張ります」
俺は思わず口角を上げ、ニヤリと笑った。
「じゃあ、秘書を紹介するよ」と言って、社長がコホン、と咳払いをした。
「入ってくれ」
俺は深呼吸をして、ドアを開けた。
「失礼します」
俺を見た馨の顔には、憶えがあった。
馨から黛を殺したい理由を聞いた俺が『結婚しよう』と言った時。あの時も、今と同じようなアホ面でフリーズしていた。
目を見開き、瞬きもせずに俺を凝視する彼女の頭の中では、花畑が一斉に満開を迎えたか、花畑に潜んでいた蝶が一斉に舞い上がったことだろう。
あの時と違うのは、彼女の脇くらいまであったクセのある髪が、肩まで短くなっていること。
馨の髪に指を絡ませるのが好きだったが、指で髪をすくのも良さそうだ。
俺は馨の、専務の三歩手前まで近づくと、最高級の営業スマイルで言った。
「本日より専務の秘書を務めさせていただきます、槇田雄大です。よろしくお願いします」
「なんの……冗談……」
「槇田君、専務のことをよろしく頼むよ」と、社長が俺の肩を叩いた。
「お任せください」
「じゃあ、私は仕事に戻るよ。……あ! その前に、ひとつ。馨ちゃん、彼を君の秘書にするにあたって、ちょっと特殊な雇用契約を結んだんだ」
社長はドアの前で振り返って言った。
「はい?」
「彼は馨ちゃんの専属秘書として雇用されている。他部署への異動は、ない。君が副社長になっても、社長になっても、彼はずっと君のそばにいる。だから、彼を解雇できるのは、馨ちゃんだけだよ」
「えっ!? それはどういう——」