やっぱり、社長と二人きりで車に乗るのは緊張しますね、と有生の運転する車の助手席で夏菜は思っていた。
うう。
黒木さん。
後部座席でいいので座っていてください~っ、と黒木が、ええーっ!? と叫び出しそうなことを思う。
有生を崇めたてまつる黒木が有生に運転させて、おのれがどっかり後ろに座るなんて絶対にやりそうにはない。
そんなことを考えていたとき、有生が、
「正月は……」
と言いかけた。
え? と振り返ったが、有生は、いや、と言ったあとで、
「そういえば、お前は何年だ」
と訊いてきた。
正月。
年賀状。
干支はなんだ? という発想だろうかなと思いながら、夏菜は答える。
「何年って、えーと。
今、年女なんで……」
と言いかけたところで、有生が、ええっ? という顔をする。
「……十二じゃないよな?」
それだと犯罪ですよね……。
「二十四です」
そうか、と言う有生に、この人、私の年も知らなかったんだな、と思いながら、夏菜は言った。
「いやいや。
そもそも、十二だと犯罪だし、三十六だと社長より年上じゃ……
年上になりますかね?
社長、いくつなんですか?」
と言って、
「お前俺の年も知らないのか」
と言われてしまう。
いや、あなたもですよ、と思いながら赤信号で見つめ合った。
発進しながら、有生が言う。
「まあ、別に……
知らなくても関係ないよな」
ちょっと微笑ましげに笑っていた。
なにに関係ないんでしょうね、となんとなく赤くなったとき、有生が言ってくる。
「じゃあ、お前、亥年か。
猪突猛進、ぴったりだな」
どうやら、最初に会ったときのことを言っているようだが。
いや、今はなにやらいろいろと、うろうろしてしまって、なにも進んでない気がするんですけどね……と思う夏菜に有生が言ってくる。
「そういえば、中国とかでは60年に一度の縁起のいい亥年を金の豚年って言うらしいな。
お前たちか?」
「いえ、私たちのあとですよ。
私はただの豚です。
……違った、イノシシです」
ただの豚になってしまった。
中国など他の国の干支では、豚らしいのだが、日本ではイノシシになっている。
この金の豚の年も国によって違ったりするみたいなのだが。
まあ、どちらにせよ。
日本、イノシシでよかった。なんとなく……と思いながら、夏菜は膝に抱いているアイビーの鉢を見た。
マンションの下に着いたとき、夏菜たちは兄と出会った。
なんとなく一緒にエレベーターに乗りながら、夏菜は兄、耕史郎となにを話したものかなと迷う。
離れて長いし、仕事は上手くいってないみたいだし。
この間は勢いでしゃべれたけど、こうして改まると、ちょっと話題に困るな、と思っていると、有生が、
「この間はありがとうございました」
と耕史郎と話し出してくれたので、ホッとした。
「そういえば、お兄さんの本、全部読んでしまったんですけど。
新刊はいつ?」
と有生が言うと、耕史郎は複雑そうな顔をしていた。
全部読んだと言われて嬉しいが。
新刊の話はされたくないようだった。
「まあ……、そのうちいつか」
と最近出会えていない遠方の人に、年賀状で、またいつかお会いできるといいですね、と書いてしまうときのような、ふんわりとしたことを耕史郎は言ってきた。
「……そのうちいつか、編集さんから連絡があったら」
と言う耕史郎の目が泳ぎ始めた。
「夏菜。
便りのないのは良い便りというが。
編集さんに限って言えば便りのないのは悪い便りだ……」
す、すみませんっ、と夏菜は苦笑いして、なんとなく開くのボタンを連打してしまう。
この階じゃないだろうが、という顔を有生はしていたが。
「いやいや、俺はお兄さんは大人気作家になってくれると信じているぞ」
と自分のフロアで降りた有生は言い出した。
耕史郎よりも有生の方が、耕史郎の明るい未来を信じているようだった。
だから、あんなにズバッと新刊の話を訊けたのだろう。
「……えーと。
ありがとうございます」
すみません。
私は信じ切れてないです、と夏菜は思う。
兄をよく知るだけに不安でいっぱいだったが、とりあえず、礼は言ってみた。
「うん。
俺は信じているぞ。
お兄さんの本が七代目を継がなくてもいいくらいに売れることを」
そ、そうなんですか……?
と思う夏菜の前で、有生がドアを開ける。
暗い玄関と廊下の明かりをつけながら有生がちょっと笑って言ってきた。
「さあ、夏菜。
民衆どもが待っているぞ」
いや……忘れてください、それ。
……はは、と笑いながら、夏菜は有生のあとについて上がった。
「明るい日陰とは何処なんですかね」
と呟きながら、夏菜はアイビーの鉢を手に相変わらず、だだっ広いリビングを見回す。
冬の日差しに床からほんのり木の香りがしていた。
「以前から謎だったんですよ。
観葉植物の置き場所って大抵、明るい日陰って書いてあるじゃないですか。
明るいのか、日陰なのか、どっちなんだって思いません?」
と言いながら、夏菜はとりあえず、キッチンカウンターの上に置いてみた。
ほどほど明るい感じだからだ。
明るい日陰の話をしたせいか、有生は窓の方を見ていた。
そこから射し込む昼の光を眩しそうに見ていた有生が言う。
「ちょっと呑んでみるか?」
「え?」
「せっかく、休みの日にふたりでいるんだ。
昼間から酒でも呑んでみるか」
と有生は笑うが、夏菜は本当に明るい窓の方を見て、
「なにか申し訳ない気持ちになってしまいますね。
何故でしょうね」
と呟いた。
「そうだな。
パーティだと昼間から呑むのにな」
「呑むために集まる場所じゃなくて、ふたりきりの部屋の中だからですかね?」
と言いながら、ふたりきりという言葉に自分で言っておいて、どきりとしていた。
有生は聞いていたのか、いないのか、気がつけば、もうカウンターで酒を作っている。
「ほら」
と差し出されたのはウイスキーだった。
うっ。
困ったぞ。
ウイスキーは苦手なんだが、と思いながらも受け取る。
つい、チラと窺うように見上げると、
「なんだ。
苦手なのか」
と問われた。
「はあ。
どうもウイスキーはセメダインの匂いがする気がして」
と言ったのだが、
「いや、これはそんなことはないぞ。
呑んでみろ」
と言われてしまう。
まあ、社長がそうまでおっしゃるのなら、とちょっぴり口を湿らせる程度に呑んでみた。
「どんな味だ」
「セメダインの味がします」
とうっかり言って、
「……お前はセメダインを舐めたことがあるのか?」
と脅される。
いやいや。
匂いがですね。
もう味のように攻めてくるといいますかね、と心の中で弁解している間に、有生が違うウイスキーを渡してきた。
ちょっと口をつけてみる。
「これならどうだ。
これはすごくフルーティな――」
「……セメダイン」
とうっかり心のままに言ってしまい、フルーティなセメダインをひょい、と取り上げられる。
「すっ、すみませんっ。
つい、うっかり本心がっ」
「余計悪いだろうが……」
と苦い顔で言われたが。
「まあ、俺が好きだからって、お前に無理強いしてもしょうがないな。
よしっ。
お前の好きなカクテルでも買いに行こう」
と言ってくれた。
「この間のスーパー、酒のコーナーが充実してた。
カクテルの材料もいろいろありそうだ」
支度しろ、と有生は機嫌よく言ってくる。
……気に入ったんですね、スーパー、と思いながら、少し暖かい日差しの中を二人で近くのスーパーへと歩いていった。
「大丈夫か?」
歩いてスーパーから帰ってくる途中、有生が夏菜に訊いてきた。
夏菜の歩き方が行きと違うことに気がついたようだった。
「いや、大丈夫です。
ちょっと足が疲れただけで」
いつもよりヒールの高いブーツにしたら、結構足に来たのだ。
別に社長のために、おめかしとかしたわけじゃないですけどね、ええ。
「……おんぶしてやろうか」
と有生が言ってくる。
「いっ、いえいえいえっ。
とんでもないですっ。
大丈夫ですっ。
この間、疲れ知らずのサンダルに疲れ果てたときほどではないです」
と言って、
「なんだ、それは……」
と言われてしまう。
いや、疲れ知らずのサンダルってよく売ってますけど。
足に合わないと、ものすごく疲れるんですよね~と思っていると、
「じゃあ、それも持ってやる」
とほとんど重さのない買い物袋も持ってくれようとする。
いやいや。
重い酒の瓶は全部、社長が持ってくださってるじゃないですか、と思ったのだが。
「持たせないと今すぐ背負うぞ」
と言ってくるので、仕方なく、レモンとか軽いものしか入っていない買い物袋を渡した。
部屋に帰ると、有生とタブレットを見ながら、100均グッズでパスタを茹で、ペスカトーレを作った。
そして、100均で買った100円ではなかったシェーカーで有生がカクテルを作ってくれる。
あー、なんか幸せだな~。
眠くなってきたし、と夏菜はソファと揃いの白いクッションを抱いて、ソファに背を預ける。
横で有生はソファに座り、本を読んでいる。
「あー、なんか最高です~」
と夏菜は鮮やかな赤いウォッカクランベリーのカクテルを呑みながら、うとうととしかける。
「今、あれがあったら最高です。
ほら、
人間じゃなくなるクッション」
「……人をダメにするクッションだろ。
今度買いに行くか」
と言われ、
「はい」
と言ったあとで、
「でも、あれ、分解するとき大変みたいですよ。
友だちの友だちから聞きました」
とぼんやり言って、
「都市伝説か」
と言われてしまう。
「……映画でも見るか?」
と有生が本を置いて訊いてきた。
「あ、そうですね~。
いいですね~」
「なんでも好きなのを選べ」
とリモコンを渡される。
燦々と日が射し込むので、あまり暖房を強くしなくても寒くない。
木の香りと温かい日差し。
美味しいお酒に、可愛い観葉植物に、と思ったとき、有生の顔が目に入った。
す、素敵な旦那様……?
なんとなく目が覚める。
「え、えーと、そうですね。
なにか見ましょうかっ」
と夏菜は起き上がり、リモコンを手に取った。
動画配信サイトのタイトルを眺める。
「あ、これ、面白かったですよ。
『棟梁は二度死ぬ』」
「総統だろ。
大工さんの話か」
そんな話をしながら、結局、よくわからない世界が滅亡するSFを二人で見始めた。
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