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薄暗い部屋は、耳鳴りがしそうなほどに、しんとしている。
そんな中、執事からうっかり失言されてしまったグレンシスは、どう対処して良いのかわからずに片手で顔を覆ったままでいる。
一方、執事のルディオンは、自分の失態に深い後悔と言葉にできない申し訳なさを感じていた。
「……悪いが、席を外してくれ」
「かしこまりました」
ご主人さまの命令は絶対。ルディオンは、すぐさま一礼して部屋を後にした。
パタンと扉が閉じられ、部屋は再び、重苦しい沈黙に包まれる。
息をするのすら苦痛を覚えるこの空気の中、グレンシスは椅子から立ち上がり、ティアの手から薬湯を取り上げ、サイドテーブルに置く。
それから先ほどより離れて、ベッドに腰かけた。
「ティア、勝手なことをして、すまなかった」
「……」
叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とすグレンシスだけれど、ティアからの返事はない。
「ティア、本当に悪かった。お前がこのまま目を覚まさず、死んでしまうかもしれないと思ってしまったんだ。そう思ってしまったら、不安で怖くて……だから、つい……あんなことをしてしまったんだ」
辛そうに言葉を紡ぐグレンシスから、どれだけ心配してくれたのかが、ティアの胸にひしひしと伝わってくる。
ティアはそれが申し訳ないと思う。でも、とても嬉しいとも思ってしまう。
「熱を出したくらいで、死んだりなんかしませんよ」
素直になれないティアは、気恥ずかしさを誤魔化すように、素っ気ない口調でそう言った。きっとグレンシスは、そうだなと言ってくれると思って。
でも、違った。
グレンシスは、なぜか不機嫌な表情になった。その顔は怒っているというよりも、なんだか拗ねているようだった。
「……そうなのかもしれないな。だが、お前が目を覚ますまで、その不安がぬぐい切れなかったんだ」
まるで、悪戯が見つかったかのようなバツの悪さを含んだグレンシスの口調に、ティアは「どうして?」という言葉を飲み込んだ。
冷たい印象を持つはずのグレンシスのブルーグレーの瞳が、たった一つの感情だけを映していたから。季節に例えるなら、冬ではなく夏。
ティアの心の中にあったはずの疑問は、怯えの感情に変わった。
これ以上、グレンシスの心に踏み込んで知ったら二人の関係が変わってしまうような気がして。
「以前……傷を癒されたことに、何か引け目とかを感じているんですか?もうお礼は頂いていますので、気にしないでください」
口にしてみて、なんだか的外れなことを言ってるような気がしたけれど、何が正しくて何が間違っているのかまではわからなかった。
そして、ティアのあやふやな気持ちはグレンシスにも伝わってしまったようで、彼は少し形の良い眉を下げた。
「いや……」
グレンシスはティアの言葉を否定するかのように、首を緩く横に振った。
「引け目など感じていない。ただ、俺にも術が使えたならどんなに良かったかとは、ずっと思っていた。ちなみに、俺は習得できないのか?」
「無理です」
「……そうか」
即答したティアに、グレンシスは落胆した。
そんなグレンシスの態度にティアは、とても困ってしまう。
自分のあずかり知らぬところで、ファーストキスしたことに混乱しているが、不快な気持ちは一切ないのだ。
だって、記憶はないとはいえ、好きな人から口付けを受けたのだから、嫌なわけなどない。
だから、少しでもグレンシスが逆ギレをしたり、横柄な態度を取ってくれたら、ティアはそれを理由に怒ったり責めたりすることができるのに。
こんな落ち込んだ表情など、グレンシスには似合わない
いや、違う。ティアは悠々と、そして尊大な態度でいるグレンシスのほうが好きなのだ。
「あのですね。えっと、これは、」
「ん?」
かすれた声でティアが言葉を絞り出せば、グレンシスは短く返事をした後、びくりと身を強張らせた。
そんなグレンシスを見て、ティアはわざと茶化すようにこう言った。
「救命行為だったんですよね?」
「……あ、ああ」
グレンシスは少しの間の後、頷いた。
ただ、その語尾は肩透かしを食らったかのように、ぐにゃぐにゃと情けなくぼやけているが、ティアは気づいていないふりをする。
「じゃあ。いいです。私、怒ってません」
──だから、忘れます。
最後の言葉は飲み込んだ。だって、嘘になるから。多分、一生このことは忘れない。
これまでグレンシスを思い出して幸せな気持ちになっていたように、きっとこれも、同じように大切に記憶の箱の中にしまうだろう。
「そうか」
グレンシスは、噛み締めるかのように頷いた。
この部屋を包んでいた気まずい空気が、風が吹き込んでもいないのに一瞬で消える。
でもティアはそんなことより、グレンシスが「忘れる」と言わなかったのが、とても嬉しかった。