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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
堂島の電話は、それきり切れた。
ガレージの裏の暗がりで、太い指がスマホを握りつぶすように閉じる音がした。
私は、ゴミ袋を置く音を立てずに、勝手口の中へ戻った。
部品。
あの夜、ガレージで私の車の下に潜っていた男が、まだ持っているもの。
離れに、一行だけ送った。
堂島が、部品を持っていると言いました。
返事は、短かった。
聞いたことは、全部書き留めておいてください。日付と時刻も。
半地下の部屋で、手帳を開いた。
右手で書く。九月十七日、午後十時十二分、ガレージ裏。上場したらもう一本。部品はまだ俺が持っている。
右手の字は、まだ少し震えていた。
それでも、もう、左手の字には似ても似つかなかった。
*
土曜日の午後、お義母さまは坂上先生の稽古場へ出かけていた。
蒼真は、居間のソファで、上場の資料をめくっていた。
麗奈は、その向かいで、陽翔におやつのプリンを食べさせていた。
食べさせている、と見えたのは、最初の五分だけだった。
「ねえ、陽翔くん」
麗奈の声が、甘くなった。
「最近、りんさんと、どんなお話してるの?」
私は、居間の隅で、窓ガラスを拭いていた。
手を止めなかった。止めたら、聞いていると知られる。
「ムギのおはなし」
陽翔は、プリンのスプーンを口に入れたまま言った。
「ムギの、何のお話?」
「ムギが、おさんぽで、ちょうちょ追っかけたおはなし」
「ふうん。それだけ?」
「うん」
「じゃあ、どうして、朝ごはんのとき、りんさんに口だけで何か言ってたの?」
窓ガラスの上で、私の手が止まりかけた。
「ママレード」
「その前の日も、その前の日も?」
麗奈の声から、甘さが一枚剥がれた。
陽翔は、スプーンを置いた。
ぴょんたを、膝の上で抱き直した。
「……ムギの、おはなし」
「嘘つき」
ぱしん、と乾いた音がした。
麗奈の手のひらが、陽翔の手の甲を叩いていた。
プリンの皿が、テーブルの上で跳ねた。
陽翔は、泣かなかった。
叩かれた手を、ぴょんたの耳の下に隠した。唇を、ぎゅっと結んでいた。
雑巾が、私の手から落ちた。
*
気がついたときには、私は陽翔と麗奈のあいだに立っていた。
「奥様。おやめください」
自分の声が、居間に響いた。
焼けた喉が、裂けるように引きつった。それでも、声は止まらなかった。
「坊ちゃんは、嘘などついておりません。毎朝、ムギの話をしているのは、本当です」
凛の声で言ったはずだった。
けれど、喉の奥から出てきたのは、この子を産んではいないけれど、三年この子の熱を測ってきた女の声だった。
麗奈が、私を見上げた。
長い付け爪の手を、宙に浮かせたまま。
「……何、その目」
「お子さまの手を叩くのは、しつけではございません」
「凛さん」
ソファから、蒼真の声がした。
資料を膝に置いたまま、蒼真は私を見ていた。
階段の夜に私の胸ぐらをつかんだときと、同じ目だった。
「家政婦が、口を出すことじゃない」
「旦那様」
「麗奈は、陽翔の母親だ。しつけに、家政婦が口を出すな」
あなたの息子の手が、赤くなっているのに。
あなたは、資料から顔も上げなかった。
麗奈の唇の端が、ゆっくりと上がった。
「聞こえた? 凛さん。下がっていいわよ」
私は、動かなかった。
動けば、陽翔の前から、私の体がどく。
「――子どもに手を上げた記録は」
居間の入口から、低い声がした。
「家庭裁判所で、一番重く見られる」
榊さんが、立っていた。
ムギのリードを手に、開け放したテラスの戸口に。
陽翔と、夕方の散歩に行く約束の時刻だった。
麗奈の顔から、すっと色が引いた。
「親権の話になれば、誰が、いつ、どこで、どの手で叩いたか。全部が、書面になる」
榊さんは、眼鏡の奥から、麗奈の手を見ていた。
「虚偽の申告で、警察に記録が残っている人なら、なおさらだ」
「……兄さんには、関係ないだろ」
蒼真が、ソファから立ち上がった。
「関係はある。俺は陽翔の伯父で、この家の四分の一の持ち主だ」
榊さんは、蒼真のほうを見もしなかった。
陽翔の前に、しゃがんだ。
「ムギと、散歩に行くか」
陽翔は、ぴょんたを抱いたまま、こくりとうなずいた。
叩かれた手の甲を、もう片方の手で押さえていた。
麗奈は、何も言わずに、居間を出ていった。
付け爪が、廊下の柱を、かり、と引っかく音がした。
陽翔が榊さんに手を引かれてテラスへ出ていくと、居間には、蒼真と私だけが残った。
蒼真は、ソファに座り直した。
資料を膝に戻し、ページをめくりながら、私を見ずに言った。
「凛さん。兄さんと、ずいぶん仲がいいんだな」
「ムギの世話を、仰せつかっておりますので」
「そうか」
ページをめくる音が、一度止まった。
「……あの人に、家の中のことを、あんまり話さないでくれよ。上場前なんだ」
「かしこまりました、旦那様」
私は、床に落ちた雑巾を拾った。
あの人の目が、資料の上から、私の背中に移ったのがわかった。
*
夕方、陽翔とムギの散歩から戻った榊さんを、勝手口で迎えた。
陽翔は、ムギの首に抱きついたまま、離れのほうを名残惜しそうに見ていた。
手の甲の赤みは、もう引いていた。
「坊ちゃんの手、冷やしていただいて、ありがとうございました」
「冷やしたのは、ムギだ。ずっと舐めていた」
榊さんは、リードを陽翔の手から受け取った。
それから、陽翔に聞こえない高さで言った。
「あなたが怒るのを、初めて見た」
私は、目を伏せた。
「……申し訳ございません。家政婦の分を、越えました」
「いや」
榊さんの声が、少しだけ笑っていた。
「悪くない」
顔を上げると、榊さんはもう、ムギを連れて庭の暗がりへ歩き出していた。
大きな背中が、一度だけ、振り向かずに片手を上げた。
*
その夜、十時過ぎ。
蒼真は書斎に、麗奈は和館の客間にいた。
厨房の灯りを、流しの上の小さな電球だけにして、私は小さなフライパンを火にかけた。
甘酒を、いつもより多めに。
卵を一つだけ。小さく、小さく巻いた。
皿に載せて、ナプキンをかけ、階段を上った。
十三段目を、わざと踏んだ。家政婦が夜の見回りをする音だ。
子ども部屋の扉を開けると、陽翔は、起きていた。
布団から目だけを出して、私を見ていた。
「……りんさん」
「お腹が空いて、眠れないかと思いまして」
凛の声で、そう言った。
扉を閉めてから、ナプキンを外した。
陽翔の目が、まん丸になった。
あまいの、と声を出さずに聞いてくる。私は、黙ってうなずいた。
小さな卵焼きを、陽翔は布団の上に座って、両手で持って食べた。
一口ごとに、甘い、と小さく言った。
食べ終えた陽翔の口を、濡らしたハンカチで拭いた。
叩かれた手の甲を、そっと撫でた。もう、何の痕もなかった。痕がないことが、かえって苦しかった。
「痛かったね」
「ううん」
陽翔は、首を振った。
それから、私の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
私も、叩き返した。
布団をかけ直して、立ち上がろうとしたときだった。
陽翔が、布団の中から、私のエプロンの裾をつかんだ。
ささやくような声だった。
暗がりの中で、少しだけ、得意そうだった。
「ママ。ぼく、うそつくの、上手になったよ」
エプロンをつかむ小さな指を、私は見下ろした。
この子は、それを、褒めてほしくて言っている。
五歳の子が。
私は、陽翔の指を、一本ずつ、そっとほどいた。
くせっ毛の頭を撫でて、眠るまでそこにいた。
部屋を出て、扉を背中で閉めた。
九月の終わりに、あの人の会社は、上場の承認を受ける。
それまで待つつもりだった。待って、確かな物を一つずつ揃えてから、と。
もう、待たない。
終わらせる日を、早める。
この子が、嘘の上手な子に育ちきってしまう前に。
コメント
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いやあ…もう、胸がぎゅっとなりました。陽翔くんが「ママ。ぼく、うそつくの、上手になったよ」って誇らしげに言うところ、本当に刺さりました。五歳の子が「叩かれないための嘘」を覚えちゃう切なさ。麗奈に手を叩かれたとき、泣かなかったのも、もう癖になってるんだろうなって。凛さんの「待たない」という決意も、この流れなら納得です。構造としても、右手と左手の震えの対比が効いてて、感情の積み重ねが丁寧でした。続きが本当に気になります。