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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
その夜、半地下の部屋の鍵をかけてから、床に膝をついた。
アイロンの焦げ跡のある床板の、端を強く押す。
板が、少しだけ浮いた。
暗い隙間から、大学ノートを三冊と、青い缶を取り出した。
缶は、開けずに、そのまま戻した。
ノートだけを、鉄のベッドの上に並べた。
隣に、トキさんにもらった冊子を置いた。
表紙に、白抜きの字で、ミカゲ・メソッド。
*
一冊目のノートの表紙には、左手の字で、家事ノート、とあった。
その下に、白瀬澪。
最初のページの日付は、五年前の三月だった。
十九で家事代行の仕事に就いてから、お客様の家で覚えたことを、メモ帳に書き散らしてきた。
ミカゲ・ライフに移った年の春、それを一冊に清書した。会社の新人さんに見せられるように、と思って。
その夏、蒼真が言った。研修で使わせてほしい、と。
冊子を、開いた。
第一章、朝の三十分。
まず窓を開ける。上から下へ。奥から手前へ。
ノートを、開いた。
朝の三十分。
まず窓を開ける。上から下へ。奥から手前へ。
一字一句、同じだった。
ページをめくった。冊子も、めくった。
台所の油汚れ。浴室のカビ。畳の目に入った砂。
染み抜きの章で、手が止まった。
ワインの染みには、まず塩。こすらない。
ノートの、同じ行。
私の、右に上がらない字。
冊子のその下に、小さな図が一つ載っていた。
ボックスシーツの畳み方。四つの角を内側に入れ込む手順を、矢印で示した図だ。
三つ目の矢印が、逆を向いていた。
私は、ノートの同じページを開いた。
三つ目の矢印は、やはり逆を向いていた。
その横に、あとから小さく書き足した字があった。矢印、逆。こっちが正しい。
清書したときの、私の書き間違いだった。
会社の冊子は、私の書き間違いまで、そっくりそのまま、きれいな活字の図にしていた。
*
二冊目と三冊目の表紙には、別の名前があった。
御影澪。
嫁いでから、この家で書き足していったノートだ。
二冊目の最初のページは、陽翔が鼻血を出した冬の朝のことだった。酸素系漂白剤の泡で、血かどうかを見分ける方法。
三冊目には、陽翔の献立が並んでいた。
甘酒を入れた卵焼き。人参を星形に抜いた煮物。熱の夜の、葛湯の作り方。
三冊とも、同じ字だった。
左手で書いた、横線がわずかに右下がりになる字。
私は、三冊を胸に抱いた。
これは、私の仕事だった。
蒼真の名前でも、会社の名前でもなく、私が、私の手で書いたものだった。
ベッドの上で、ノートと冊子を並べ、同じページを一枚ずつ写真に撮った。
逆を向いた三つ目の矢印は、二つ並べて、一枚の写真に収めた。
離れに、写真を送った。
返事は、しばらく来なかった。
十分ほどして、画面が光った。
この矢印は、どんな弁護士の言葉よりも強い。
続けて、もう一行。
ノートは、まだ床下に。出すときは、あなたが決めてください。あなたの仕事だ。
私は、画面の最後の一言を、しばらく見ていた。
あなたの仕事だ。五年間、誰も私に、そう言ってくれなかった。
*
翌朝、厨房の配膳台の上で、麗奈が一枚の紙をつまみ上げていた。
私が書いた、買い物のメモだった。
牛乳、卵、甘酒、鶏の胸肉、柚子。
「何これ」
麗奈は、メモをひらひらと振った。
付け爪の先で、字を一つずつ指した。
「字、汚っ。小学生みたい。凛さんって、学校行ってた?」
「お見苦しくて、申し訳ございません」
凛の声で、頭を下げた。
麗奈の爪が、最後の一行で止まった。
「柚子? こんなの、何に使うの」
「大奥様の、ゆず味噌に。秋のお膳にお出ししたいと」
「ふうん」
麗奈は、興味をなくした顔で笑い、メモを配膳台に放り投げた。
私は、メモを拾った。
右手で、毎晩百回ずつ練習した字だった。この家に来てから、人に見せる字を左手で書いたのは、榊さんの前の一度きりだ。
この人は、去年の連絡帳を見ている。
左手で書いた、私の字を。
もしいつか、誰かがこのメモとあのノートを並べても、同じ人の字だとは、誰も思わない。
汚いと笑われるたびに、この字は、私を守っている。
*
朝食のあと、和館のお義母さまの居間に、お許しをもらいに行った。
「大奥様。本日、半日ほど、お暇をいただけませんでしょうか。紹介所の用事がございまして」
お義母さまは、老眼鏡の鎖を指でたぐりながら、新聞から顔を上げなかった。
「今日は、二十日ね」
心臓が、一度だけ跳ねた。
「……はい」
「お彼岸の入りでもあるわ。どこも、人が多いでしょう」
お義母さまは、新聞をめくった。
「夕食の支度までに、戻りなさい」
私は、畳に手をついて頭を下げた。
立ち上がろうとしたとき、お義母さまが、文机の引き出しを開けた。
和紙に包んだ、細い束を出した。
白檀の線香だった。この家の仏間で、毎朝焚いている。
「紹介所の行き帰りに、遍照寺の前を通るでしょう」
お義母さまは、包みを畳の上に置いた。
私のほうへ、指一本ぶんだけ、押し出した。
「お彼岸だもの。……うちの墓にも、上げておいてちょうだい」
私は、包みを見下ろしたまま、動けなかった。
この人は、何を知っていて、何を知らないふりをしているのか。
問えば、全部が崩れる。
「……かしこまりました、大奥様」
両手で、包みを受け取った。
白檀の匂いが、手袋に移った。
二十日。
この家の誰も、口にしない日付だった。私が死んだことになっている日の、月命日。
*
遍照寺の墓地は、お彼岸の人で、いつもより賑わっていた。
線香の煙の中を、私は杉の並木に沿って歩いた。
一月の雪の日、この木の陰に隠れて、自分の四十九日を見ていた。
御影家之墓、の前に立った。
花立てに、白いガーベラが挿してあった。
まだ新しい。
花びらの縁が、少しも茶色くなっていない。今朝、供えられたばかりなのだろう。茎は、どれも同じ長さに、まっすぐ切り揃えられていた。花立ての水も、まだ澄んでいた。
墓の脇の、黒い墓誌を見た。
御影澪 二十九歳。
この下に眠っているのは、私ではない。
私のコートを着て、私の代わりに燃えた人だ。
お義母さまの線香に、火を点けた。
白い煙が、まっすぐに立ちのぼった。
この家で、三年間、毎朝嗅いできた匂いだった。それが今、私の名前の刻まれた石の前で、揺れていた。
私は、手袋のまま、手を合わせた。
凛さん。
あなたの髪を、借りました。あなたの名前で、あの子に、ママだと言いました。
あなたの名前は、必ず、あなたに返します。
破られて、裏打ちした手紙の一行が、胸の中で鳴った。
凛は、ずくを出して働きます。
あの手紙を書いた人の代わりに、私は今日も、あの家で働いている。
目を開けると、ガーベラの白さが、秋の日差しの中で、まぶしかった。
あの冬の四十九日にも、ここには白いガーベラがあった。
店の名前もカードもなく、茎だけが丁寧に揃えてあった。
離れの窓際のイーゼルにも、同じ花があった。
お義父さまの描いた、小さな油絵。ガラスの花瓶に挿した、白いガーベラ。
あの絵を見たとき、私は何も聞かなかった。
聞いてはいけないことのような気がしたからだ。
*
帰り道、山門の手前で、竹箒で落ち葉を掃いている老人とすれちがった。
墓地の管理をしている人だった。
私が立ち止まると、老人は箒を止めて、帽子のつばを持ち上げた。
「御影さんのところに、お参りですか」
「……はい。お世話になった方の、お墓で」
「そうですか。あそこはね、いつもきれいですよ」
老人は、墓地のほうを振り返った。
「毎月二十日に、背の高い、眼鏡の男の人が来てますよ。白い花を持ってね」
箒の柄に、両手を重ねた。
「去年の冬から、一度も欠かさずにね」
コメント
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ああ、第48話めっちゃ良かった……! 家事ノートがパクられてた真相、じわじわくるよね。「矢印、逆。こっちが正しい」までコピーされてるの、澪の努力の痕跡ごと奪われた感じがして胸が痛む。 そして義母の「二十日ね」「線香、墓に上げといて」のシーンは震えたわ。何を知ってて何を黙ってるのか、絶妙すぎる。この距離感、たまらん。 墓に白いガーベラを毎月欠かさず供えてる人がいる——お義父さんだよな……。まだ47話までしか読んでない身としては、この先の展開が気になって仕方ない🔥