テラーノベル
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雨の日は、嫌いだった。
正確には、雨が嫌いなんじゃない。
雨の日に起こることが、嫌いだった。
「……最悪」
ベランダの隅に、弁当箱が転がっている。
蓋は外れて、中身はほとんど残っていない。
白いご飯に、卵焼き。昨日の夜、母さんが作ってくた唐揚げ。
全部、雨に濡れていた。
いや。
弁当だけじゃない。
俺の上履きも、教科書も、体育着も。
少し前まで、ここには俺のものがいくつも並べられていた。
濡れた紙は、簡単に破れる。
俺はしゃがみ込んで、弁当箱を拾った。
もう、怒る気にもなれなかった。
「……またかよ」
呟いた声は、雨音に消えた。
教室に戻る。
誰もこっちを見ていない。
――いや。
見ているけど、見ないふりをしている。
それくらいは、もう分かるようになっていた。
「三枝」
後ろから声をかけられた。
振り向く。
「なに?」
「……いや」
声をかけた男子は、それだけ言って目を逸らした。
たぶん、何か言いたかったんだろう。
でも、言わない。
俺も聞かない。
そういうのが、このクラスでは当たり前だった。
弁当を捨てられることも。
机に落書きされることも。
廊下ですれ違ったときに肩をぶつけられることも。
全部、当たり前。
俺は席に戻って、鞄からコンビニのおにぎりを取り出した。
今日はこれでいい。
そう思ったときだった。
「……あれ、もう昼休み?」
教室の後ろの扉が開いた。
ひょこ、と顔を出したのは、仙河緑だった。
「寝過ぎた」
「……お前、今何時だと思ってんの?」
「昼」
「見りゃ分かるわ」
緑は眠そうに目を擦りながら、自分の席へ向かう。
そこで、ふと足を止めた。
「明那」
「ん?」
「弁当は?」
「……」
俺は答えなかった。
緑が窓の外を見る。
それから、俺を見る。
「……何された?」
「別に」
「明那」
「ほんとに別に」
「嘘」
即答だった。
緑は俺の机の横に立つと、何も言わずにベランダへ出ていった。
数秒後。
「……あーあ」
小さな声が聞こえる。
それから、戻ってきた緑は、いつもの眠そうな顔をしていた。
ただし。
目だけは、全然眠そうじゃなかった。
「叶くんに言ってくるから。お前らも覚悟しとけ」
「は?」
思わず声が出た。
緑はそのまま教室を出ようとする。
すると、後ろから笑い声が飛んだ。
「は? 声ちっさ」
誰かが言った。
緑が振り返る。
「……」
数秒の沈黙。
そして。
「うるせえ、お前らの耳が悪りぃんだよ」
「……え?」
今度は、教室のほうが静かになった。
緑は何事もなかったみたいに扉を開ける。
「じゃ、行ってくる」
「ちょ、緑!」
呼び止める間もなかった。
扉が閉まる。
俺はその場に取り残された。
「……なんなんだよ、あいつ」
呆れたように呟く。
でも。
胸の奥が、ほんの少しだけ変だった。
あんなふうに、自分のことで誰かが怒ってくれるなんて。
いつ以来だろう。
分からない。
分からないけど。
少しだけ、怖かった。
期待してしまいそうだったから。
*
放課後。
雨はまだ降っていた。
俺は教室に残って、窓の外を眺めていた。
結局、緑は戻ってこなかった。
たぶん、生徒会室にいる。
叶さんも。
叶。
この学校の生徒会長。
三年生。
不登校気味で、学校に来ること自体が珍しい。
なのに、来たときは妙に存在感がある。
俺は、ほとんど話したことがない。
ただ、緑がたまに話しているのを見たことがあるくらいだ。
――そのはずだった。
「三枝くん?」
「……え?」
教室の入口に、誰かが立っている。
少し眠そうな目。
制服を着崩しているわけでもないのに、どこか気怠そうな雰囲気。
「叶、さん……?」
「あ、うん。ちょっといい?」
「……俺、ですか?」
「他に三枝いないでしょ」
「あ、まあ……」
叶さんは教室の中を見渡した。
ほとんど人はいない。
それを確認してから、俺の机まで歩いてくる。
「今日、弁当捨てられたんだって?」
心臓が跳ねた。
「……緑から聞きました?」
「うん」
「別に、大したことじゃないですよ」
「そう?」
「もう慣れてるし」
言ってから、しまったと思った。
慣れている。
そんなことを、どうしてこの人に言ったんだろう。
叶さんは少しだけ黙った。
「……慣れなくていいと思うけど」
「え?」
「こういうの」
叶さんは、窓の外を見る。
雨がガラスを叩いている。
「嫌なことされて、嫌だって思うのは普通だから」
淡々とした声だった。
励ますわけでもない。
慰めるわけでもない。
ただ、事実を言っているだけみたいな声。
「……でも」
「うん」
「俺が悪いのかもしれないし」
「なんで?」
「なんでって……」
言葉に詰まる。
こういうとき、いつもそうだった。
自分が悪い理由なんて、本当は分からない。
でも、周りがそういう顔をしているから。
俺自身も、そうなんだと思うしかなくなる。
「……俺が、気に障ることしたとか」
「してないでしょ」
「なんで分かるんですか」
「見てれば分かるよ」
叶さんはそう言った。
それから、少しだけ笑った。
「三枝くん、結構ちゃんとしてるし」
「……それ、褒めてます?」
「一応」
「一応なんだ」
「僕、面倒くさいこと嫌いだから」
「はあ」
「だから、三枝くんが悪いなら関わらない」
さらっと言われて、俺は思わず叶さんを見る。
「……じゃあ」
「うん」
それだけだった。
なのにどうしてだろう。
胸の奥が、じわっと熱くなった。
「……そっすか」
「うん」
叶さんはそれ以上、何も言わなかった。
少しの沈黙。
雨の音だけが聞こえる。
やがて叶さんが、
「あ」
と、小さく声を出した。
「生徒会、来ない?
「生徒会?」
「うん」
「俺が?」
「広報、空いてるんだよね」
「いや、俺……そういうの得意じゃ」
「知ってる」
「知ってるんだ」
「でも、三枝くん」
叶さんが俺を見る。
「喋るの、得意でしょ」
「……」
「さっきも結構言い返してたし」
「見てたんですか?」
「ちょっとだけ」
緑とのやり取りを思い出して、恥ずかしくなる。
「……あれは緑が勝手に」
「うん」
「俺、何もしてないです」
「だから、いいんじゃない?」
「何が?」
「生徒会」
叶さんは立ち上がった。
「明日、暇だったら来てよ」
「……明日?」
「うん」
「叶さんもいる?」
「たぶん」
たぶん。
なんだそれ。
生徒会長なのに。
思わず笑ってしまった。
「なんですか、それ」
「僕、明日来るか分かんないから」
「会長なのに?」
「会長だからって毎日学校来る必要ある?」
「ありますよ」
「え、面倒くさい」
「……」
思わず吹き出した。
叶さんも笑った。
雨はまだ降っている。
窓の向こうは灰色で、どこにも晴れる気配なんてない。
それなのに。
さっきまであんなに嫌だった雨が。
ほんの少しだけ、どうでもよくなった。
「じゃあ、明日」
叶さんが言う。
「はい」
俺は答えた。
「……行きます」
その日。
雨の日が嫌いな理由が、ひとつだけ増えた。
そして。
雨の日に会いたい人も、ひとり増えた。
コメント
1件
お疲れさまです、寺島あおいです🌷 雨の日が嫌いな理由が、最後に「ひとつ増えた」――そのフレーズにぐっときました。嫌なことって慣れてしまうのが怖いけど、叶さんが「慣れなくていい」って淡々と言うのがすごく沁みました。あの距離感、すごく好きです。緑くんの啖呵も痛快で、明那くんの周りに少しずつ味方ができてく感じがじんわりしました。続き、気になります🤍