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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
答えられなかった。
涙を、手の甲で拭った。
拭っても、次から次へと出てきた。手のひらの剥けたところに、塩が沁みた。
陽翔は、戸口から一歩も動かなかった。
パジャマの裾から、裸足の指がのぞいていた。母屋から、靴も履かずに走ってきたのだ。
榊さんが、静かに立ち上がった。
「……ここは、窓が多い」
私にだけ聞こえる声だった。
それから、陽翔の前にしゃがんだ。
「裸足で来たのか。ムギが、心配する」
陽翔は、ブラシを抱えたまま、榊さんの顔を見上げた。
「おじさん、りんさんを泣かせたの?」
「いや」
榊さんは、首を振った。
「泣かせたのは、俺じゃない。……部屋まで、送ってもらいなさい」
*
暗い庭を、陽翔の手を引いて歩いた。
小さな手は、汗で湿っていた。
抱き上げようとして、まだ皮の薄い手のひらが引きつった。陽翔は、じぶんで歩く、と首を振った。
もう片方の腕で、タオルにくるんだブラシを、しっかり胸に抱いていた。
勝手口から入り、厨房を抜ける。
大階段の十三段目を、私はいつものように踏んだ。ぎい、と鳴った。
陽翔は、跨いだ。
二階の廊下の奥、書斎の扉の下から、細い灯りが漏れていた。
陽翔が、私の手をぎゅっと握った。私たちは、足音を殺して、その前を通り過ぎた。
子ども部屋の灯りを、ベッドの脇の小さなスタンドだけ点けた。
陽翔の足の裏を、濡れたタオルで拭いた。土と、芝の切れ端がついていた。
「坊ちゃん。夜に、一人でお外に出てはいけません」
「……うん」
陽翔は、ベッドの端に座った。
膝の上で、タオルをほどいた。木の柄のブラシが、スタンドの光の中に出てきた。
「りんさん」
陽翔は、ブラシを見たまま言った。
「りんさんは、澪ママ?」
部屋の中の音が、全部止まった気がした。
時計の音も、窓の外の虫の声も。
ただ、私の心臓の音だけが、耳の内側で鳴っていた。
「……どうして、そう思うんですか」
凛の声で、聞き返した。
聞き返しながら、自分がずるいことをしているのがわかった。
陽翔は、指を一本ずつ折りはじめた。
「卵焼きが、あまい」
一本。
「ねんねの舟、うたってた。ゆめじゃなかった。ぼく、ほんとは起きてた」
二本。
「ムギが、おなか見せる。ムギは、澪ママにしか、おなか見せないの」
三本。
「時計、はち回まくの。澪ママも、はち回だった」
四本。
最後の指を折る前に、陽翔は、私の左手を見た。
「指のきず。ぼくが、ほうちょう引っぱったときの。澪ママ、ここだよって、見せてくれた」
五本。
小さな手が、ぐうになった。
「それでね。パパが、りんさんのお部屋から出てくるの、見たの。そのあと、ぼくの箱をあけて、ブラシの毛、取ってった」
陽翔は、顔を上げた。
「パパも、りんさんが澪ママかもって、思ったんでしょ」
五歳の子は、全部見ていた。
大人たちが目の端でしか見なかったものを、この子は、まっすぐに見ていた。
*
嘘をつくか。
それとも、この子に、秘密を背負わせるか。
ちがいます、と言えば、今夜は終わる。
この子は泣いて、眠って、明日からまた、りんさん、と呼ぶだろう。
そして、ママはもういないのだと、もう一度覚え直すことになる。
九か月前に一度覚えたことを。ブリキの箱の底にブラシを隠して、やっと忘れずにいられたことを。
私は、この子に、二度目の葬式を出させるのか。
本当のことを言えば、この子は、大人の秘密を一人で抱えることになる。
パパにも、おばあちゃまにも、幼稚園の先生にも言えない秘密を。五歳の体で。
どちらを選んでも、私はこの子に、何かを背負わせる。
陽翔は、待っていた。
ぐうにした手を、膝の上に置いて。泣きもせず、目もそらさずに。
私は、床に膝をついた。
陽翔と、同じ高さになった。
左手の手袋を、二枚とも外した。
人差し指の、白く盛り上がった傷を、スタンドの光の中に出した。
「……ママだよ」
凛の声ではなかった。
焼けて、かすれて、もう昔の声には戻らない。それでも、私の声だった。
陽翔の顔が、くしゃりと歪んだ。
泣くと思った。
陽翔は、泣かなかった。
ベッドから飛び降りて、私の首にしがみついた。
スカーフの上から、小さな腕が、首の火傷の痕をぎゅっと締めつけた。
痛かった。痛いことが、うれしかった。
「……おかお、どうしたの」
耳元で、陽翔が聞いた。
「火に、とられちゃったの。お医者さんが、新しいのを作ってくれた」
「こえも?」
「声も」
陽翔は、私の首に顔をうずめたまま、しばらく黙っていた。
それから、くぐもった声で言った。
「でも、においは、澪ママ」
私は、陽翔の背中を抱きしめた。
くせっ毛の頭に、頬を押しつけた。日なたと、子ども用のシャンプーの匂いがした。
「陽翔」
名前を呼んだ。
坊ちゃん、ではなく。九か月ぶりに、母親として。
*
どれくらい、そうしていたのかわからない。
陽翔の腕から少し力が抜けたころ、私は、そっと体を離した。
両手で、陽翔の頬を包んだ。
「陽翔。お願いが、あるの」
陽翔は、濡れていない目で、私を見た。
「ママだってこと、誰にも言わないでいてくれる? パパにも、おばあちゃまにも、新しい奥様にも。幼稚園の先生にも」
「……なんで?」
「ママがここにいるって知られたら、ママは、またいなくならなきゃいけなくなるの」
本当のことの、半分だった。
残りの半分は、この子には言えなかった。パパが、ママを殺そうとしたことは。
陽翔は、長いあいだ考えていた。
「……おじさんは?」
「え?」
「おじさんは、知ってる? 澪ママだって」
「……うん。おじさんは、ママを助けてくれている人」
陽翔は、ぴょんたを枕元から引き寄せて、膝の上に置いた。
「おじさん、いい人?」
「うん。とっても」
「パパと、ぜんぜん似てないもんね」
いつか、榊さん本人に言った言葉だった。
陽翔は、それで納得したように、一度うなずいた。
小さな手が、伸びてきた。
私の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
「ぼく、ひみつ守れるよ」
指切りより好き、と言った約束の印だった。
事故の夜、明日の朝起こしてあげる、と約束して、守れなかった印だった。
私も、陽翔の耳を、二回叩き返した。
陽翔は、やっと少しだけ笑った。
下の前歯が一本、ぐらぐらと傾いていた。私のいない九か月のあいだに、この子の歯は、抜けかけていた。
*
陽翔の寝息が深くなってから、部屋を出た。
廊下の暗がりで、私は壁に背中をつけた。
膝から、力が抜けていった。
うれしかった。
九か月、名前を呼べなかった子を、やっと抱きしめられた。
それなのに、胸の真ん中に、冷たい石が一つ落ちていた。
私は今夜、五歳の子に、嘘を守らせる約束をさせた。
あの子はこれから毎朝、パパの前で、おばあちゃまの前で、何も知らない顔をしなければならない。
背負わせたのは、私だ。
*
翌朝の八時、柱時計のねじを巻いた。
階段の上の柱の陰に、陽翔がいた。
いつものように、ぴょんたを抱いて、私の手元を見ていた。
いち。に。さん。
小さな唇が、声を出さずに数えていく。
はち。
前なら、ここで、ママおわり、と言った子だった。
陽翔は、唇を結んだまま、何も言わなかった。代わりに、自分の耳を、そっと二回触った。
私は、ガラスの扉を閉めた。
振り返らずに、階段を下りた。
*
その朝、麗奈が二週間ぶりに食堂の席に戻ってきた。
お義母さまが許したのだと、蒼真が言った。
麗奈は、パステルの水色のワンピースを着て、何事もなかったような顔で、スープの皿を前にしていた。
私は、陽翔の前に、甘い卵焼きの皿を置いた。
陽翔が、皿から顔を上げた。
私を見た。
小さな唇が、声を出さずに動いた。
マ・マ。
向かいの席で、麗奈のスプーンが、スープの上で止まった。
コメント
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みぅ🤍🥀です。 第44話「耳ぽんぽん」、めちゃくちゃ泣けました…陽翔くんが全部見てたって気づいた瞬間、胸がぎゅっとなりました。五歳であの観察力、そしてママを守るために秘密を背負う覚悟…「耳ぽんぽん」の約束が涙腺崩壊です。榊さんの「窓が多い」という一言も、ずっと守ってくれてるんだなって伝わってきました。ラストの麗奈さんの登場、また空気が変わる予感で続きが気になります…! 凛さんの苦しさと陽翔くんへの愛がぎゅっと詰まったお話でした🥀