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黛の他にも、俺には片付けなければならないことがあった。
週末。
俺は実家に来ていた。
馨には、休日出勤だと嘘をついた。
俺のデスクの資料の山を知っているから、何の疑いもなく見送られた。
子供の父親が俺ではないことは、父さんと母さんも知っていた。春日野が断言したからだ。それでも、父さんは俺と春日野を結婚させたいと考えていた。
やはり、父さんにとって大切なのは、息子の幸せよりも議員としての将来だった。
「俺は春日野玲さんとは結婚しないし、父さんの跡を継ぐこともない」
絶縁の覚悟で、言った。
馨は望まないだろうけれど、これ以上は俺が限界だった。
「罪悪感はないのか」
「罪悪感?」
「玲さんの愚かな行為は、お前と結婚したいがためだろう」
「それを喜んで、他人の子供を育てろと?」
「血の繋がらない親子など、珍しくもないだろう」
父親と血の繋がりがあることに、嫌悪しか感じない。
どこまでいっても、父親にとって息子は、道具でしかない。
「なら、あなたが彼女の子供の父親になればいい。養子にでもして、後継者に育てたらいかがです?」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはあんただ! 俺はあんたの操り人形にはならない!!」
「お前に何が出来る? 勝手に結婚するか? そんな結婚で、お前は胸を張って立波リゾートの社長になれるのか」
俺は大きく深呼吸をして、興奮を静めた。
「結婚はします。父さんと母さんに祝福してもらって」
「するはずがないだろう」
「いいえ。してもらいますよ」
持って来た封筒の中身をテーブルに広げた。十数枚の写真。
「春日野氏が大山幹事長とも懇意だと、ご存知でしたか?」
父さんと母さんが写真を手に取った。目を丸くし、他の写真も見ていく。
大山幹事長は父さんとは敵対関係にある。それは、政界に留まらず、世間でも知られている。その幹事長が、自分の後援会長に名乗りを挙げている人物と酒を飲んだり、政治資金の提供をする仲となれば、心中穏やかではない。
「なんてこと……」と、声を漏らしたのは母さん。
「春日野さんはどういうつもりで——」
「後援会長の立場を利用して、父さんを操るつもりなのでしょう」
「そんな……」
父さんは裏切られたショックと怒りで、言葉もないよう。写真を握り潰していた。
実家《ここ》に来る前、春日野を見舞って来た。
写真を見せ、槇田家と春日野家の決別を伝えてきた。彼女は力なく微笑み、頷いた。
子供は産まないのだと言う。
『那須川さんとお幸せにね』
そう言って、彼女は結婚祝いをくれた。
春日野を追い詰めたのは俺だ。彼女の気持ちに気づけなかった、俺の責任だ。
だからこそ、きちんと決着をつけて、彼女を解放してやりたかった。
「父さん。春日野氏とは縁を切ってください。この写真を見せれば、円満に決別できるでしょう」
「選挙前に後援会長を空席には——」
「後援会長は俺が立てます」
「なに?」と、父さんが鋭い視線を俺に向けた。
「後援会長は、立波リゾート会長・立波恒義氏が引き受けてくださいます」
「——!」
停職の期間、のほほんと専業主夫に励んでいたわけではない。
情報を集め、立波会長に頭を下げ、計画を進めてきた。
馨にはまだ、知らせていない。
父さんの反応次第では、全て水の泡となるからだ。
「立波会長が後援会長を引き受けてくださる条件は、俺と馨の結婚を認めることです」
「父親を脅すつもりか——!」
「脅すなんて人聞きが悪いですね。これは、提案です。自分の政治生命の為に息子を生贄に差し出すより、健全で安全で有益な取引だ。あなたたちは俺の妻になる女性に、マスコミ用の笑顔で『おめでとう』と言うだけでいい。たったそれだけで、俺は俺の望む女性を妻に出来て、立波リゾートの社長に近づく。あなたたちは立波一族と姻戚関係を結び、強力な後援会長を手に入れることが出来る。Win-Winだ」
「私に……お前の恩恵に感謝しろと?」
父さんには屈辱だろう。
息子を服従させたいのに、服従させられるのだから。
「感謝なんて必要ありません。これは取引ですから。ですが、俺はあなたたちに感謝出来ますよ? それで馨が心置きなく結婚出来るのであれば。跪いて謝辞を述べるくらい、何度でもします。ですから——」
俺は立ちあがり、直角に腰を折り、両親に頭を下げた。
「馨との結婚を認めてください」
こんなことくらい、何でもない。
俺の為に馨が黛に近づくなんてことに比べたら、土下座も厭わない。
馨を妻に出来るのなら、何だって出来る――。
「私からも……お願いします」
背後から聞き慣れた声がした。か細く、震えているけれど、俺の耳に馴染んだ心地良い声。
半分開いたドアの向こうに、馨が立っていた。目に涙を浮かべて。隣には、姉さん。
「馨……」
馨は手の甲で涙を拭うと、俺の隣に立った。
「雄大さんと結婚させてください。お願いします!」
今度ははっきりと、堂々と言った。そして、深々と頭を下げた。
馨に、こんな真似はさせたくなかった。
俺は彼女の肩を掴み、顔を上げさせた。
「お前が頭を下げる必要は――」
「雄大!」
背後から姉さんに一喝され、俺は言葉を呑んだ。
「馨ちゃんが可愛くて堪らないのはわかるけど、あんた一人に頭を下げさせて、馨ちゃんが喜ぶと思う?」
「姉さん……」
「家族、になるんでしょう?」
姉さんは馨の隣に立つと、頭を下げた。父さんと母さんに。
「雄大と馨ちゃんの結婚を認めてあげてください」
姉さんは、自分の二度の結婚の時ですら、頭を下げたりしなかった。
父さんと母さんに反対され、勝手に婚姻届を出した。
『父さんと母さんに頭を下げるくらいなら、勘当された方がマシ』だと言って。
その姉さんが、頭を下げている。
俺の為に。
俺と馨の為に――――。
胸の奥からこみ上げてくる熱をなんとか抑え込み、俺はもう一度腰を折った。
「お願いします。馨との結婚を認めてください」
すぐ横で馨の髪が揺れた。
「お願いします!」
馨は白いワンピースを着ていた。俺はその服に見覚えがない。
今朝、俺を見送った馨は、ジーンズにパーカーを着ていた。
なのに、今日は白いワンピースを着て、薄いピンクのジャケットを羽織っていた。
俺が出てから、着替えたのだろうか?
そもそも、俺が実家に来ることを、どうして知った?
姉さんにも知らせていなかった。
俺のしようとしていることは伝えてあったが。
「認めない、と言ったら?」
父さんの低い声に、いち早く反応したのは姉さん。
「記事を書きます」
「記事?」
「はい。春日野総合病院を巡る槇田議員と大山幹事長の三角関係について」
「澪さん!」
姉さんが記事を書けば、政界のスキャンダルだ。選挙前の今、派閥争いに新たな火種は致命的な大炎上となるだろう。
「もう……いいでしょう、あなた」
母さんが口を開いた。
「澪も、挑発的な言動は慎みなさい」
まさか、母さんが知らせたのか――?
「雄大。玲さんの妊娠がわかった時点で、お父さんは縁談をお断りしていたのよ」
「余計な事を言うな」と、父さんが止める。
「そうやって大事なことを言わないから、お互いに誤解したままなんです。もういい加減にしてください。あなたの考えは知りませんけど、私は雄大が結婚する気になってくれて嬉しいんです。父子喧嘩の犠牲になって、孫も抱けないなんて冗談じゃありません」
母さんが父さんに意見するなんて、初めてのことだ。
母さんはいつも父さんの言いなりで、庇ってくれたこともない。
「三人とも、座ってちょうだい」
促されて、俺たちは父さんと母さんの正面に座った。姉さんは母さんに言われてコーヒーを淹れるために台所に立った。
姉さんは普段、お湯を注ぐだけのティーパックを使う。実家の台所にティーパックがあるのか、心配になった。
「雄大。玲さんの妊娠がわかって、春日野さんから、あなたに子供の父親になって欲しいと申し出があったの。受け入れるなら、お父さんの政界引退まで資金の心配はいらない、と。けれど、お父さんはきっぱりと断ったわ。次の選挙には出馬しない覚悟で」
「え――?」
俄かには信じられない。
家族よりも政治を第一に生きてきた父さんが、息子の為に引退を考えるなんて。
「けど、さっき――」
「あなたを試したのよ」
「試す?」
「あなたが馨さんとの結婚を私たちに認めさせるために、どうするのかを」
チラッと父さんに目を向けると、気まずそうに逸らされた。
「私はあなたの覚悟よりも、馨さんの覚悟が見たかったのだけれど」
やっぱり、姉さんと馨に俺が実家に来ることを教えたのは母さん。
「もう充分よ。あなたはお父さんを懐柔できる十分な手土産を用意した上で、頭を下げた。これ以上、反対する理由はないわ」
父さんが座り直し、顔を上げた。
「馨さん、不肖の息子をよろしくお願いします」
認めて……くれた――?
「こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします!」
馨の目に涙が滲む。
「馨ちゃんは不束者なんかじゃないわよ! 雄大には勿体ないんだから」と言いながら、姉さんがコーヒーの香りと共に戻ってきた。
姉さんがコーヒーメーカーでコーヒーを淹れることが出来たことに驚いた。
けれど、一口飲んでその濃さに、やっぱり姉さんだ、と思った。
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