テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
侯爵様の指の間で、雁皮紙がかさりと鳴った。
電灯の下で、灰色がかった黒い目が私を見下ろしている。答えを待つ目だった。
「……十二階で、買いました」
声が、自分のものではないように乾いていた。
「二階の、古本の小店です。百合絵様が写真屋さんにいるあいだ、ひやかしに入って。古い和装本を一冊買ったら、頁の間に挟まっていたんです」
「その本は」
「捨てました。虫が食っていたので」
嘘を一つつくと、次の嘘がすぐ後ろに並ぶ。活字棚から一本抜くと、隣の一本が倒れてくるのと同じだった。
「余白に、栞、と私の名前が書いてありましたから。おかしくて、取っておいたんです。……千鶴様の字、なのですか」
侯爵様は答えなかった。
左の眉を、手袋のない指でゆっくりとなぞる。一度、二度。
和館のほうで、柱時計が十一時を打ちはじめた。
最後の一打が消えるまで、侯爵様は動かなかった。
「……そうか」
雁皮紙が、私の手に戻された。
侯爵様の指は、もう震えていなかった。
「その紙は、人に見せるな」
「え」
「百合絵にもだ」
それだけ言って、侯爵様は内側の扉の向こうへ戻っていった。何を言いに来たのかは、とうとう口にしなかった。
かちり、と鍵がかかる。
私は扉の前に立ったまま、雁皮紙を握りしめていた。
信じてもらえたのか、わからない。
けれど一つだけ、はっきりしていることがある。
侯爵様は、千鶴さんがなぜ私の名前を書いたのかを、一度も訊かなかった。
*
六月に入ると、藤棚の花はすっかり散って、青い莢がいくつもぶら下がるようになった。
池のほとりの紫陽花が、雨のたびに色を濃くしていく。
和館の縁側を雑巾で拭いていると、渡り廊下の向こうから、編み上げブーツの足音が駆けてきた。
「お義姉さま、大変。大変なのよ」
百合絵様が、雑誌を胸に抱えて息を切らしていた。『婦人の窓』の六月号だった。
「お母様が読み終わるのを待ってたら、頁を開いたまま固まってしまわれて。それで、こっそり抜いてきたの」
「抜いて……」
「いいから、ここを読んで」
開かれた頁に、新連載、と大きく刷ってあった。
「青髭侯爵夫人の日記 白百合」
挿絵は、洋館の窓辺に立つ着物の娘の後ろ姿。窓の外に、黒い影のような男が描かれている。
「白百合って、このごろ一番人気の書き手なの。正体は誰も知らないのよ。女学校でも、みんな夢中で」
百合絵様の声が、だんだん小さくなっていく。
私は頁に目を落とした。
日記の体裁だった。
借金の形に、妻を二人亡くした「K侯爵」のもとへ嫁いだ、貧しい娘の日記。
婚礼の宴。笑わない夫。和館と洋館。二階の、閉め切られた二つの部屋。
読み進めるうちに、指先が冷たくなっていく。
そして、婚礼の夜の頁で、目が止まった。
「夫は寝所の戸口に立ったまま、一歩も入ってこなかった。そして低い声で、こう言ったのだ。
『この家では何も食べるな。私が用意したもの以外は』
私は震えた。この人は、自分の家の膳に何が入っているのかを、知っている」
その先には、翌朝の膳を断って姑に睨まれる場面が続いていた。夫が自ら焼いた、焦げた卵焼き。白檀の扇。
屋敷の誰かが見ていなければ書けないことばかりだった。
「ひどいわ」
百合絵様が、私の肩越しに頁を覗き込んで呟いた。
「お兄様のこと、まるで人殺しみたいに書いてある。来月も続くのよ、これ。毎月、みんなが読むのよ」
私は、雑誌を閉じた。
「お義姉さま?」
「……百合絵様。これを、大奥様のお部屋へ戻してきてください。黙って抜いてきたのなら、なおさら」
百合絵様は私の顔を見て、何も言わずに頷いた。
あの夜、あの部屋にいたのは、私と侯爵様だけだった。
食べるな、という言葉なら、宇佐美先生が見えた晩に、廊下で一度だけ口にしたことがある。けれど、私が用意したもの以外は、という後ろ半分まで、誰かに話した覚えはない。
あれを知っているのは、私と、言った本人だけだ。
*
その日の午後、大奥様の居室に呼ばれた。
侯爵様も、もう座っていた。外から戻ったばかりなのか、黒い手袋をしたままだった。襖の際に、真柴さんが控えている。
大奥様の膝の前に、『婦人の窓』が置かれていた。
「朝から、電話室の電話が鳴りやみません」
大奥様は、扇を開きもせずに言った。
「分家の奥様。婦人会の幹事の奥様。皆様、お見舞いだと仰る。お見舞いの顔をして、あの読み物は本当なのかとお尋ねになる」
白檀の匂いが、張りつめた座敷に重く溜まっていた。
「久遠寺の家では、嫁に膳も与えないそうですね。当主が毒を恐れて、自ら台所に立つそうですね。世間では、そういうことになっております」
細い目が、侯爵様から私へ移った。
「この家の内のことが、外へ漏れている。誰が漏らしたのです」
誰も答えなかった。
大奥様の目は、私の上で止まったままだった。
「嫁いで二月にもならない娘が来てから、この家では騒ぎが絶えません。脅迫状、茶会、今度は雑誌」
「母上」
侯爵様が、短く遮った。
「妻を責める筋ではありません」
「では、どなたを責めればよろしいの。冬馬さん」
侯爵様は、答えなかった。
真柴さんが、静かに膝を進めた。
「大奥様。雑誌社へは、私から抗議の書面を出しましょう。名を伏せた読み物とはいえ、K侯爵と書けば、わかる方にはわかります。筆者の名を明かすよう、求めてもよろしゅうございます」
「そうなさい」
大奥様は、扇の先で雑誌を私のほうへ押しやった。
「志摩のお嬢さん。あなたも読んでおおきなさい。世間があなたを、どういう目で見ているか」
居室を下がると、廊下の角で真柴さんが追いついてきた。
「奥様。どうぞ、お気になさいませんよう」
眼鏡の奥の目が、いつものように穏やかに笑っていた。
「読み物は、読み物でございます。千鶴様がおいでの頃にも、心ない噂はございました。人の口は、ひと月もすれば別の噂を探しに参ります」
「ありがとうございます、真柴さん」
「大奥様のお言葉も、本心ではございません。この家の名を守ることに、必死でいらっしゃるだけで」
真柴さんは軽く頭を下げて、家令室のほうへ戻っていった。
その背中を見送りながら、私は大奥様の言葉を思い返していた。誰が漏らしたのです。
屋敷の誰かを疑うより先に、大奥様は私を見た。侯爵様も、たぶん、同じことを考えている。
*
夜になっても、雨はやまなかった。
洋館の厨房の鉄格子の窓を、雨粒が絶え間なく叩いている。
侯爵様は、銅の鍋で何かを煮ていた。玉葱と、鶏の骨を煮出した匂い。
「冷える。飲め」
湯気の立つ椀が、目の前に置かれた。澄んだ金色のスープに、刻んだ青菜が浮いている。
一口すすると、体の芯にじんわりと熱が落ちていった。
侯爵様は、私が椀を半分空けるまで、何も言わなかった。
それから、調理台の端に一冊の雑誌を置いた。
六月号の『婦人の窓』。婚礼の夜の頁が、開いてある。
手袋を外した指が、あの一行の上に置かれた。
「この言葉を、私は君にしか言っていない」
「……はい」
「あの夜、あの部屋には、私と君しかいなかった」
低い、平らな声だった。責めているのか、ただ確かめているのか、わからない。
雨の音が、急に大きくなった気がした。
私も、同じことを考えていた。
私でないのなら、言った本人しかいない。けれど、自分を人殺しのように書かせる人がいるだろうか。そう打ち消してみても、灰色がかった目の奥は、相変わらず何も映していなかった。
侯爵様の目が、私の右手に落ちた。
中指の、インクの黒い染み。
婚礼の夜と、同じ目をしていた。
「君が書いたのか」
コメント
1件
第21話、読了しました。『婦人の窓』に掲載された「青髭侯爵夫人の日記」が、まさに今の主人公と侯爵様の内情を映し出している展開、背筋が冷えるようでした。あの「食べるな」という言葉、二人だけの秘密がなぜ小説に書かれているのか…真柴さんの穏やかな対応も、逆に不気味さを増しますね。雁皮紙のシーンから続く、この屋敷の“謎”の輪郭が少しずつ見えてきて、次が気になって仕方ありません。続きを楽しみにしています🌷