テラーノベル
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その男――夜鷹純は、誰かに呼ばれるようにゆっくりと瞼を開いた。
寝台に横たえた体を気だるげに起こす。しんと静まり返った室内は真っ暗で、夜型の生活を送る自身が自然に目覚めたことから、現在がおそらく夜であろうことを察する。明かりがなくとも暗闇を見通せる双眸をぐるりと巡らせて、夜鷹は首を傾げた。起きた時から纏わりつく違和感は、室内の様相を見て確信に至る。
机の上に無造作に積まれた金メダル。ゴミ箱に投げ捨てられた賞状と衣装。開いたままのキャリケースに、静かに出番を待つ磨かれたスケート靴。
自分が眠る前から、明らかに部屋の様子が異なっている。どこか見覚えのある風景に、夜鷹は眉間に皺を寄せて記憶を辿る。やがてたどり着いた答えを馬鹿馬鹿しいと鼻で笑い、けれど無視するわけにもいかず、彼は寝台から立ち上がった。
広々とした部屋を裸足で進み、リビングのテーブルに投げ出されたスマートフォンに手を伸ばす。普段からぞんざいに扱っているそれに頼るのは不本意だが、同程度の光量を持ち、かつ立ち上がるまで多少の時間を要するパソコンよりもはるかにマシだ。
ただ日付を確かめるだけの作業だ、と嫌々ながら液晶画面を触る。すぐさま反応して表示されたロック画面に、夜鷹はたまらず目を細めた。光量を限界まで絞っているにもかかわらず、暗闇を切り裂くように点灯した画面は、彼の繊細な網膜を容易に焼いてしまう。さっさと用事を済ませてしまおう。画面上に指を滑らせ、一度も使ったことのないカレンダーアプリを開く。
光の洪水の中に見つけた、今日を指すはずの数字はやはり予想通りで、もはやため息すら出なかった。
どうやら自分は、オリンピックで金メダルを得て現役引退してから一年経った時点にいるらしい。
タイムスリップなんてあまりに幼稚で非現実的な発想だ。しかし、脳内に残る苦々しい記憶が、この先に続く未来を嫌でも保証してくれている。
致し方ないとはいえ、引退により氷の外の世界へと追いやられてからは、まるで呪いのように息ができない日々が続いた。銀盤に恋い焦がれながらも、光を厭う目が彼を遠ざけ、闇に溶け込む生活になった。メディアの取材も、アイスショー開催の打診も、引退撤回の提案も、全てが煩わしくて鬱陶しかった。運命の女神の気を引くために生贄を捧げ続けた自分には、スケート以外何にも残っていなくて。自身から銀盤を奪った挙句、なおも悪化していく両目が憎くて、どうせ滑られなくなる日が来るならば、と肺を紫煙で満たした。
犠牲の果ての残滓となった自分。遠くない死を待つだけの人生に辟易する。それから何年も過ぎた頃、至極丁寧な文面で綴られた手紙が、唯一の教え子となる光と自分を引き合わせた。コーチを引き受ける代わりに、氷に乗る時間が確保できるようになり、夜鷹は息を吹き返す。凡人からすれば常軌を逸する条件で、彼女に手本を見せながら、照明を落とした薄暗い世界で氷の上に身を滑らせる。氷を降りて生きていけないことを思い知らされた、つまらない自分が唯一呼吸できる安息の地を、仮初ながらも手に入れたのだ。
そして、夜鷹は出会った。太陽を人の形に落とし込んだような男に。
初めて目にしたのは、全日本でアイスダンスを披露する姿。顔も名前も知らない選手で、リフトを失敗して派手に転倒していたが、足を止めて眺める程度には惹かれるものだった。
次に会ったのは、スケートリンクの人気のない階段。男は拳を固く握り締めて、スケート初心者の教え子をノービス女王の光に勝たせる、と啖呵を切った。そんな世迷言を吐く、彼の強い意志を宿す双眸に、夜鷹は射抜かれたのだ。
翌年。偶然にも鴗鳥の自宅で再会し、夜のリンクで彼が滑る姿に、自身の奥の何かが動いたのを感じた。所作の端々に夜鷹の影を纏いながら、夜鷹をも凌駕するスケーティング技術を駆使して氷上を駆ける姿。一度技を見せただけで模倣できるセンスと肉体に、人並外れた観察力と分析力。だが、その才能を自覚しながら、まだ表舞台で滑れる可能性を捨て、自分によく似たつまらない子どもに奉仕する愚かな男。
氷の上に絶対はないとの言葉に、夜鷹は込み上げる衝動のまま笑った。勝ち目のない勝負に挑む彼が不快かつ不可解なのに、なぜこうもそそられる。凍てついた心がざわつき、新たな拍動を刻み始める。夜鷹が司という人間を明確に意識した瞬間だった。
あれからいくつかの大会を経て、いのりは光に挑み続けている――ところまで覚えている。光との真夜中のレッスンを終え、帰宅してシャワーを浴びた後、寝台に横たわった記憶が最後だ。目を覚ましてから現在に至るまで、特に不審な点は思いつかない。もしや、不摂生と過度の喫煙が祟って、眠る間にあっさり世を去ったのだろうか。それにしては、痛みや苦しみなど死を予感させる前兆はなかった。
過去に、まして引退した後の世界に引き戻されるなんて、夢ならば悪趣味にも程がある。氷から引き離された人生を、死ぬまでの退屈で長ったらしい時間を、過去に戻って嵩増しされた状態で過ごさねばならないのか。うんざりする。
ふつふつと沸き立つ怒りに身を任せ、慣れた手つきで煙草に火をつけた。ふわりと宙を漂う紫煙をぼんやりと目で追い、今後に向けて思考を巡らせる。継続的に氷に乗るために、前回と同様に光のコーチを引き受けるか。だが、この先に全く同じ未来が用意されているとは限らない。そのうえ、以前経験したことを繰り返すだけの時間など、それこそ退屈で気が狂いそうだ。短くなった煙草を灰皿に押し付け、ため息をつく。
その時、閉じた瞼の裏に小さな光が瞬いた。
咄嗟に目を開き周囲に視線をやるが、室内は相変わらず闇に満たされている。再びテーブルに放り投げられたスマートフォンは、文句も言わず沈黙したまま。カーテンを閉め切った部屋に街の明かりが潜り込む隙間はない。
しかし、真っ暗な視界の中で確かに捉えたのだ。弱々しく今にも消えてしまいそうな微かな光。どこか懐かしさを覚える榛色。きっと手を伸ばせば易々と掴めるだろうが、内包する途方もない熱に不埒な手を焼き焦がされるのだろう。
あぁ、そうか。
夜鷹は理解した。知らず浮かぶ笑みに、あの日と同じぐらいの高揚が滲む。
ソファの背にかけたままだったコートを羽織り、スマートフォンをポケットに突っ込んだ。スケート靴を詰めたキャリーケースを引きずり、玄関に足を運ぶ。
向かうは名古屋。今どこで何をしているのか知らないが、このふざけた現象が女神の思し召しとでも言うならば、おそらく捕まえられるだろう。資金は十二分にある。場所はどうにかなるだろう。
どうせ死ぬまでの間の暇つぶしだ。飽きるまで好きにするとしよう。
夜を生きる鷹は、狙い定めた獲物を探すため夜空へ飛び立った。
時刻は午後6時過ぎ。辺りは夕闇に包まれ、無機質な明かりが街を照らし出す頃。地元で愛されるスケートリンクの一般営業が終わり、帰路につく子どもたちの元気な声が響く中、すぐ隣に位置する人気のない公園に一人の少年がいた。
通学鞄をベンチに置き、錆びた街灯の下に立つ彼は、注意深く左右を見回す。周囲に誰もいないことを念入りに確認すると、大きく深呼吸した。息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じる。足を開き、腕を伸ばし、静止する。
思い描くのは、網膜に焼き付いて離れないあの姿。風のように速く、正確無比な軌跡を氷に刻み付け、見る者を惹きつけてやまない残酷なまでに美しい演技。
数え切れないほど見返した彼の動きを追うように、息を吸った瞬間に動き出した。陸では氷上と同じ動きはできないが、極限まで近づけるように意識する。成長期で伸びてきた腕を大きく回し、軽やかに飛び上がる。悔しいがジャンプは一回転だけ。だから振付は細かい角度まで頭に叩き込んだ。指先のしなり、関節の角度、乗せる表情まで一つ一つ覚えた脳内の映像を追っていく。
数分間の短いようで長い舞は、天を仰ぎ手を伸ばすようなポーズで終わった。
いかに体力に自信のある自分でも、緩急のある動きやジャンプを繰り返せば息が上がってしまう。弾む息を整えながら、額に滲む汗を拭い、地面に視線を落とす。先ほどの高揚が嘘のように冷めていく。観客も音楽もない、一人楽しく踊るだけの空しい時間。誰かが見てくれることも、見せることもない、戯れのようなそれ。学業とバイトに勤しむ学生のくだらない自己満足だ。
少年は長く息を吐き出した。帰ろう。家族が夕飯の支度をしている頃合いだ。今日は放課後にスケート教室があると伝えてあるが、あまり帰りが遅いと心配をかけてしまう。くたびれた鞄を肩にかけ、駅のある方角へ歩き出したその時。
「ねえ」
感情のない低い声が耳に飛び込んできた。
少年はびしりと硬直した後、錆びたブリキの人形のようにぎこちなく振り向く。視線の先には見知らぬ男がいた。暗がりに溶け込むように佇む彼が、ゆっくりと歩み寄ってくる。日が暮れたにもかかわらずサングラスをかけ、全身を黒に包んでいる。煙草の匂いが鼻を掠めた。友好的とは口が裂けても言えない無表情に、肺が重くなるような圧。
一度見たら忘れられない風貌から、間違いなく初対面だろう。そもそも、こんな時間に一人で公園にいる時点で、不審者の可能性が高い。
早く逃げねば、と少年が決意するも、数歩空けて立ち止まった男はこちらをじっと見据えていた。判断が遅い。
何かされたら大声を出そうと警戒しつつ、ひとまずコミュニケーションを試みる。
「あ、あの…俺に何か用ですか…?」
「君、滑ったことあるの」
「うぇ、す、滑るって…スケートのことですか?」
「そう。さっき君が踊ってたの、フィギュアスケートのプログラムだよね」
(バッチリ見られてる~~!!)
穴があったら入りたい。いやまずここから逃げたい。誰か助けて。
羞恥と恐怖から身を震わせる。赤くなったり青くなったりと忙しい少年は、黙ってこちらを見下ろす男にはたと気づく。答えを待っているのだ。咳払いでごまかし、警戒は怠らぬまま口を開く。
「週に一回、スケート教室に通っています。あれは好きなプログラムを見様見真似でやってみただけです。踊りとは言えない、ひどいものですが」
「へぇ。好きなんだ。僕のプログラム」
「実は俺、夜鷹純の大ファンで――”僕の”?」
聞き間違いだよな。オウム返しに尋ねれば、おもむろに男がサングラスを外す。レンズの奥に現れた金の双眸に少年は射抜かれた。
「大ファンなの、君」
「は、え、いや、そんな……本物?」
「そうだよ」
「…わ、わ~い。まさかご本人に会えるなんて、一生分の運を使い切ったかも…アハハ…」
つまり自分は本人のプログラムの真似事を、よりにもよって本人の前で披露してしまったのか。しかも大ファンとか余計なことまで言ってしまった。消えたい。誰か俺を埋めてくれ。いっそ名古屋港に飛び込んで海の藻屑になりたい。
「司」
思考の海に深く沈んだ司の意識を、夜鷹の一声が引き上げた。
「は、はい…?」
あれ、そういえば名乗ったっけ。
内心首を傾げつつ顔を上げると、ばちりと目が合った。彼の象徴たる金メダルをはめ込んだような瞳に、呆けた顔の自分が映り込んでいる。表情筋がぴくりともしない顔からは、彼が何を考えているのかさっぱり読み取れない。
「君は氷の上にいたい?」
「え、と…?」
「フィギュアスケートの選手になりたいかって聞いてる」
「選手に……」
たまらず視線を逸らした。無意識に胸を抑える。
なりたい。なりたいに決まっている。憧れの人に追いつきたい、同じ世界が見てみたい、俺もあんな風に滑ってみたい。絶えず湧き出す渇望をもう無視できないから、腹を括って氷の世界に飛び込んだのだ。
しかし、右も左もわからない司に突き付けられたのは、年齢の壁と、高額な費用。いくつかのクラブを訪ねたが、5歳までに始めるべきとされる競技なのに14歳では遅すぎる、と門前払いを食らってしまった。さらに、クラブに入れなければ、コーチに出会えないどころか、バッジテストや試合に挑戦する資格すら与えられない。
憧れた世界は、司を受け入れてはくれなかった。
「…なれたらいいなって、思います。でも、この年じゃ遅すぎるし、クラブに通うお金もないから」
「僕が聞きたいのは、君の意思だよ。他はいらない」
「俺の、意思…」
夜鷹は司に答えを促す。猛禽類のような鋭さを帯びた目に、司は思わず息を呑んだ。この人の前では、いくら取り繕っても無駄だ。それに、憧れた人に本心を偽りたくない。固く拳を握り込む。
「なりたい、です。俺も、あなたのように滑りたい。氷の上で生きていきたいです」
顔を上げて、正面から向き合う。こちらを無感情に見下ろしていた夜鷹が、わずかに目を丸くした、ような気がした。暗いから見間違いかもしれない。それでも、纏う雰囲気が揺らいだように感じた。ほんの少し緩んだように見える口元が言葉を紡ぐ。
「そう。なら、ついてきて」
一方的にそう言うと、司の返事も待たずに踵を返して歩き始めた。公園の外へ向かっているようだが、こんな時間からどこへ連れていくつもりなのだろう。いくら相手が世界中が知る有名人かつ己の憧れの人とはいえ、今日会ったばかりの大人に、行き先も理由も告げられないまま素直について行っていいのだろうか。それに、もう帰らないと、家族が帰りを待っている。
だが、この機会を逃せば二度と会えないのは明確だ。せっかく声をかけてもらえたんだ。行かないと絶対に後悔する。
理性と本能の狭間で揺れ動き、足は前にも後ろにも動かない。逡巡して声も出ない司は、遠ざかる黒い背中を見つめることしかできない。
――もっと話がしたい。離れたくない。行かないで。俺を見て。
幼稚な心の叫びが届いたのか。はたまた棒立ちの司に焦れたのか。夜鷹はゆっくりと振り向いた。
「司」
おいで、と呼ばれた気がした。
それならもう、迷う理由なんてなかった。
滲む視界を振り切るように、司は全力で駆け出した。
夜鷹を追っていくと、公園沿いの道路に黒光りするハイヤーが待機していた。言われるがまま乗り込んだ司は、生まれて初めて乗る高級車に生きた心地がしなかった。ちらりと隣を窺うも、彼は窓の外を流れる景色を退屈そうに眺めている。緊張感のない慣れた様子に、学生服と通学鞄の自分がいかに場違いな存在であるか痛感する。雲の上の存在と同じ空間にいられる幸福と、行先がわからないまま身を任せる不安に挟まれて、じとりと汗が滲んだ。
車に揺られること数十分。緩やかに停止した後、厳かに開かれた扉から滑り出た夜鷹に倣い、司も反対側の扉から出る。やっと外の空気を吸える、と大きく伸びをして、ふと夜鷹を見やる。彼は運転手からキャリーケースを受け取ると、こちらに声もかけずにさっさと歩き出してしまった。運転手に早口で礼を言い、慌てて後を追う。
たどり着いた先は、司がテレビや雑誌で何度も見た、強豪クラブ・名港ウィンドFSCがホームとするスケートリンクだった。今の時間は貸切で賑わっているはずだが、表から見る限り、明かりはついていないようだ。
「純くん。久しぶりだね」
優しげな低い声が夜鷹を呼ぶ。純くん?耳慣れない呼び方につられて声の方を見ると、暗い正面玄関の前に男性が立っていた。長身で体格が良く、落ち着いた物腰が印象的だ。だが何より驚いたのは、テレビで数え切れないほど眺めた、夜鷹と同様に憧れる人の顔がそこにあったからだ。
「そ!?にどりしんいちろう!?選手!?」
「あぁ、初めまして。鴗鳥慎一郎です」
「おおおお初にお目にかかります!俺はあけ」
「慎一郎くん。リンクは使えるの?」
渾身の挨拶を途中でさえぎられた。悲しい。でも当の本人はどこ吹く風という顔だし、この二人がくん付けで呼び合うほど仲がいいなんて知らなかったし、二人が揃っているのを間近で拝謁できて今にも昇天しそうなので、一瞬でどうでもよくなった。
悟りを開いたような涙目の少年に、鴗鳥は戸惑うような素振りを見せたが、ひとまず会話に割って入ってきた旧友に答える。
「本当は一般営業の後に設備点検があるから明日まで使えないんだけど、リンク周辺の作業は終わっているそうだから、コーチに頼んで特別に許可をもらえたよ。それでも一時間ほどしか入れないそうだよ」
「それだけあれば十分だね」
一つ頷いた夜鷹は、鴗鳥への礼も説明もなしに歩き出し、裏口があると思われる方へ回る。置いて行かれた司と鴗鳥は、思わず顔を見合わせた。ポカンとした顔もかっこいいなぁ、とファン丸出しで見惚れた司は、己の不躾な行為に気づき慌てて頭を下げた。一方、鴗鳥は気にすることなく、彼を追いましょうと朗らかに笑いかけてくれる。丁寧な振る舞いについ胸が高鳴ったが、司は天に突き刺さらんばかりに口角を引き上げて笑顔を作ることで正気を保った。
勝手知ったる様子で裏口から入った夜鷹に続き、鴗鳥に促されて足を踏み入れる。初めて訪れたスケートリンク、しかも一般客が使わない裏口から入ったこともあり、司は興味津々で辺りを見回した。点検業者は離れた位置で作業しているのか、最低限の明かりしかついていない建物は静まり返っている。
「君、スケート靴は持ってきてる?」
ふいに夜鷹が問いかけてくる。キャリーケースを引きずる彼は、長い通路に向かう途中で立ち止まっていた。先ほど夜鷹は鴗鳥に、リンクが使えるかと尋ねていた。あの先にリンクがあるのだろうか。ひょっとして、彼が滑る様を生で拝めちゃうのかも。ファン心理で弾む心を押さえつけつつ、司は正直に答える。
「も、持ってません。いつも貸し靴を使ってます」
「なら、借りてきて。場所は慎一郎くんが知ってるよ」
ここは鴗鳥選手のホームリンクでもあるのだから、把握していて当然だろう。だが、スケート靴を借りてこい、という指示の意図がわからない。司が疑問符を浮かべて首を傾げると、彼は言葉を付け足した。
「靴がないと滑れないでしょ」
「え、お、俺が滑るんですか!?」
自身を指して飛び上がった司に、夜鷹は馬鹿にしたように鼻を鳴らす。ぱくぱくと口を開閉する司に、これ以上の会話は不要だと言わんばかりに、踵を返して行ってしまった。
またも置いてかれた。しかも俺が滑るなんて聞いてないし。
再び涙目になる司に、鴗鳥は気遣わしげに声をかけた。気を取り直すように、貸し靴がずらりと並ぶコーナーに案内してくれる。今日は特別だから好きに使っていい、料金もいらないと言う鴗鳥に、司は恐縮して最敬礼を繰り返した。
司は借り物のスケート靴を万が一にも落とさぬよう抱えながら、鴗鳥とともにリンクにたどり着く。照明をほとんどつけていない薄暗い空間に、広々とした銀盤が浮かび上がる。ひやりとした冷気が頬を撫でた。
氷を刃で削る音の先には、二人を置いていった夜鷹が一人で気ままに滑っていた。体を温めるための簡単な運動とはいえ、その洗練された所作に目を奪われる。現役時代と変わらない、むしろさらに上手くなっているんじゃないだろうか。不安定な氷の上を細い刃だけで駆けているのに、無駄な力がどこにも入っていない、自由で優雅な滑り。こんなの、目を離せるわけがない。
長いようで短い時間だったのか、鴗鳥に肩を叩かれてベンチに促されるまで、司は立ち尽くしていた。
ベンチに腰掛けた司は、憧れの鴗鳥選手に見守られながらスケート靴に履き替えるという苦行もとい至福にわなないていた。一方、それに全く気付かない鴗鳥は、もう少し紐をきつくした方がいい、と優しく教えてくれる。
「ご挨拶が遅れてすみません!明浦路司といいます」
「司くんですね。純くんとは以前からお知り合いなんですか?」
「えっと…さっきお会いしたばかりで…」
「…?そうなんですね。純くんとは、彼が引退してから連絡がつかなくなってしまったんですが、突然電話が来て驚きました。彼が人を連れてくるなんて、とても珍しいですし。そういえば、もう夜になりますが、親御様にはここに来ることを伝えていますか?」
「俺、携帯を持ってなくて…親にはスケート教室が終わったら帰るとしか言ってないんです…」
「……失礼ですが、今日は純くんとは、どのような経緯でここへ?」
「地元のリンクで滑った後、公園で夜鷹、さんに話しかけられて…ついて行って車に乗ったら、ここに着きました…」
「…………」
日が暮れた公園で未成年に声をかける怪しげな成人男性。たとえ少年自身に選ばせたとはいえ、親に連絡もさせず、車に乗せて連れ去るような行為と知って、鴗鳥の脳内に物騒な二文字が浮かんだ。知らず顔に出てしまっていたのか、司が慌てて両手を振って否定する。
「ねぇ。準備できた?」
少しばかり不機嫌を滲ませた声が響く。リンクの壁際まで来た夜鷹が、司に刺すような視線を浴びせていた。旧友からあらぬ疑惑をかけられているというのに、当の本人は涼しい顔をしている。多忙な彼らの貴重な時間を奪った挙句、無駄に待たせて申し訳ない。真面目すぎる司は、急いで腰を上げた。
「は、はい!すみません!」
「こっち来て、リンクの中央まで行って」
「はい……」
簡潔な指示に肩を落としそうになる。靴を借りてこいと言われたからわかってはいたが、俺は今から滑らなければならないのか。スケートを知って一年目のど素人が、オリンピック金メダリストと、GPファイナル銅メダリストが見ている中で。新手の拷問じゃないか。今にも心臓が口から飛び出そうだ。
司はひとまず指示に従い、リンクの中央で足を止めた。いつも一般営業やスケート教室の時間しか氷に乗れないから、多くの人で賑わうリンクしか知らない。がらんとした空間に一人ぼっちで立つと心細くなることを知った。おまけに今は三人しかいない、静かで薄暗い空間だ。刃が氷を削る音と一緒に、跳ね回る鼓動の音まで届いてしまうのではないだろうか。
夜鷹と鴗鳥のいる方へ振り返ると、談笑でもしているのかもという予想に反して、二人はこちらをじっと見ていた。観察するような真剣な眼差しに、少しばかり気圧される。遠く離れた位置とはいえ、歴戦のアスリートの気迫を浴びた司は息を吞んだ。
「あの、俺は何をすれば…」
「さっき踊ってたやつ、もう一度やって」
「……は」
夜鷹のプログラムを真似た、いや真似とすら言えない文字通りの児戯を、もう一回やれと言うのか。この二人の目の前で。司は呆然と立ち尽くした。
「何してるの。聞こえなかった?」
「え、あの、夜鷹さん…?あれを、ここで、ですか…?」
「そうだよ」
「ま、待ってください。あんなの、ただの子どもの遊びですし、とてもお二人に見せられるようなものでは――」
「いいから」
真っ青な顔で言い募る司を、夜鷹が端的な言葉で制した。突然舞台の真ん中に突き飛ばしてきた男は、凪いだ瞳でこちらを見据えている。焦りと緊張で全身を強張らせた司に、宥めるでも励ますでもなく、最後通牒のように言い渡す。
「見せて」
司は理解した。
これ以上の問答は無意味だ。
なぜなら、あの夜鷹純が、自分の演技を望んでいる。
後でどんな非難も罵倒も甘んじて受け入れるから、今だけはあの人に応えたい。
胸に手を当てる。瞼の裏に浮かべるのは、己の世界を瞬く間に塗り替えたあの姿。大きく深呼吸を繰り返し、息を吸った瞬間に動き出す。
誰もいないリンクを駆け抜ける。テレビの向こうで滑るあの人は、もっと速く、もっと華麗に、ずっと先まで進んでいた。遠くかすむ背中に少しでも追いつきたくて、司は踏み出す一歩を大きく伸ばす。腕を振る速度、膝を曲げる角度、後方へ振り向くタイミングまで、かつての映像に自身を重ねていく。
振付やスピンは、技術の精度や出来栄えはともかく、雰囲気や見た目だけならばある程度模倣できる。しかし、肝心のジャンプは経験とセンスが必須だ。言うまでもないが、司は四回転など飛べるわけがない。教本や解説動画を漁り、自分なりに陸上練習を重ねてはいるが、氷上では教室でシングルを少し習った程度だ。もし多少なりとも怪我をすれば、医療費がかかり、小さな弟らの面倒が見られず、ただでさえ費用を捻出してくれる家族にさらなる負担をかけてしまう。リスクは回避すべきだ、と冷静な自分が告げた。
けれど、ここで一つも挑戦しないほど、愚かでもない。つい先ほど夜鷹が見せた最高の手本を思い出しながら、脳内で素早く体の軌道をシミュレーションする。針に糸を通すような繊細なコントロールが求められる。それでも、試さずにはいられない。いちかばちか、慎重に踏み切って飛び上がった。
ダブルサルコウ。着氷。チェック。
司は両腕とフリーレッグを伸ばしながら、演技中にもかかわらず我を忘れた。降りちゃった。一度も飛んだことのない二回転を、ぶっつけ本番で試して、できてしまった。
呆けたままリンクサイドへ視線を移すと、驚きに彩られた顔の鴗鳥と、腕組みをした無表情の夜鷹がいた。いや、勘違いかもしれないが、たぶん絶対間違いなく気のせいだが、ほんの少し口角が上がっているように見えた。
ぶわりと熱が込み上げる。
氷上の物語は佳境に入った。演技に集中し、体のバランスを取りながら丁寧にステップを描く。氷は固く冷たいけれど、刻まれた軌跡が、鋭利な刃で奏でる高音が、強く背中を押し出してくれる。
あぁ、なんて楽しいんだろう。
司は夢中で滑り続ける。広大なリンクに一人ぼっちでいる心細さを知った。そして、一人きりで思うまま滑る自由を知った。邪魔者も障害物もない銀盤を独占し、縦横無尽に駆けることを許された高揚感。体一つであらゆる世界を表現する没入感。吹き抜ける風は肌を刺すほど冷たいのに、こんなにも気持ちがいい。
夢心地で舞い続けた司は、頭の中で響く曲の終わりと同時に、フィニッシュポーズで止まった。
数秒の静止の後、だらりと腕を下ろす。氷の上を数分間も全力疾走したせいで息が切れている。極限の集中状態で試みたジャンプに神経をすり減らしたのも原因だろう。次々に溢れる汗を手袋で拭っていると、力強い拍手が静寂を破った。観客の存在がすっかり頭から抜け落ちていた司は、突如響いた音にびくりと肩を跳ねさせ、慌ててリンクサイドに目を向ける。
あの鴗鳥が、歓喜に満ちた笑みで拍手している。最前線で戦う現役選手が、素人の自己満足である模倣に拍手をもらえるなんて。
対して、司に再演を強いた張本人の夜鷹は、変わらず腕を組んで黙している。ただ、その瞳がわずかに細められているように見えた。気のせいかもしれないけど。
疲労と衝撃で放心していた司は、やがてその頬を赤らめて、くしゃりと笑った。
「純くん。彼はいったい…」
「スケートを始めて一年。週一で教室に通って、あとは独学だそうだよ」
「それだけで、あれほどまで…」
鴗鳥は唸る。たったそれだけの練習期間で身に着けたものとは到底納得できなかった。
基本的に他者に興味を抱かない夜鷹が、突然連絡を寄越したうえでわざわざ連れてきたのだから、きっと只者ではないだろうと察していた。だが、自前のスケート靴がないと言っていたから、アスリートではなく趣味で嗜んでいるのかと思った。彼の何が夜鷹を動かしたのか。鴗鳥は司と対面した時から、柔らかな眼差しの奥で、慎重に観察していたのだ。
まず特筆すべきは、彼が形作る影に夜鷹の存在をひしひしと感じること。細かな所作を体の隅々まで刷り込ませたのか、夜鷹の過去のプログラムを想起させる動きに息を呑んだ。たとえ自分が同じ真似をしても、ここまで質の高い模倣はできまい。
確かにスケーティング技術は拙くお粗末で、まだまだ粗削りだ。とても試合で加点はもらえないだろう。しかし、持ち前の運動神経と感覚でカバーしているのか、飽きることなく目で追ってしまう。
最初のジャンプ。現役時代の夜鷹は平然と四回転を披露していたが、彼の経験値では不可能だ。ジャンプに似た技で凌ぐか、アドリブを挟んで次のエレメンツに移るか。とても初心者を見守るものではない目付きで鴗鳥と夜鷹が凝視する中、ふいに彼は大きく腕を振って飛び上がった。
ダブルサルコウ。減点なし。
鴗鳥は瞠目した。降りた司も驚きのあまり素に戻ったのか、着氷時のポーズのまま呆然としている。横目で傍らを窺うと、旧友の口元がうっすらと弧を描いたように見えた。演技以外では無表情を貫く夜鷹が、傍目には非常に分かりにくいが、喜びを露わにしている。ぞくりと背筋が凍った。
一つ目のジャンプはなんとか成功させたが、司もさすがに疲労とリスクを考慮したのだろう。後半のジャンプは二回とも一回転に留めた。それでも、回転不足もふらつきもない見事な跳躍だった。スピンはまだ体の柔軟性が足りないのか、足と胴が離れた不格好なものだが、速度と軸取りはクラブの小さな生徒に勝るとも劣らない。ステップはややきごちなさが伴うものの、正確な軌道を思い浮かべているであろう足捌きだった。
初めて会った時は、元気のいい誠実な少年という印象だった。リンクサイドで事情を伺えば、勝手気ままに行動する旧友に巻き込まれた不憫な子だと思った。何の説明もなくリンクに立たされた彼は、青ざめた顔で狼狽えており、咄嗟に夜鷹を止めようとした。
だが、夜鷹の無情な命を受けて、司の顔つきが変わった。息を整え、深く集中すると、一気に加速する。まるで水を得た魚のように、氷上を躊躇いなく突き進む。未熟ながらも懸命に舞い、伸び代が掴めないほどの才能とセンスを秘めた司に、鴗鳥は高揚した。
やがて物語は終結し、始まりの場所であるリンクの中央で、彼は天を仰ぐ。
完走。
鴗鳥は身の内を巡る感動に浸りながら、惜しみない拍手を贈った。夜鷹は腕組みのまま微動だにしないが、注意深く観察すると、能面のような顔にわずかに興奮が滲み出ている。彼を知らぬ者では到底気付けない、極々些細な変化だ。だが、今日会ったばかりだと言う司もそれを見つけたのか、ぼんやりとしていた彼は徐々に紅潮すると、照れくさそうにはにかんだ。
***
リンクサイドへ戻ってきた司に、鴗鳥はあらかじめ用意していたタオルとドリンクを差し出す。またも恐縮し切る彼に、丁寧ながらも毅然とした態度で手渡せば、おずおずと受け取ってくれた。演技を終えて素に戻った彼は、こちらの反応に戸惑いながらも、隠し切れない熱と達成感に満ちている。鴗鳥から社交辞令が一切ない手放しの賞賛を受けて、涙目で身を震わせた。
自身の感想をあらかた述べると、友の意見も伺おうと隣を向く。
そこで鴗鳥は硬直した。
往時の戦友がかつて試合で見せていた、獲物を狙う猛禽類のような眼差しがそこにあったからだ。ぎらりとした光を湛え、見る者を射抜くような鋭さに、鴗鳥と司は凍り付く。
「慎一郎くん。この子を君のクラブに入れてあげて」
「……え?」
司の口から零れ落ちた掠れ声は、静寂に満ちたリンクの中で確かに届いたはずだが、夜鷹は素知らぬ顔で続ける。
「君からコーチに伝えて、目の前で滑らせれば絶対に受かるよ」
「っあ、あの、何の話を」
「それと、練習時間は確保しないとね。リンクに近い学校に移らせよう。寮に入れるか、調理師とハウスキーパーつきのマンションに住まわせるよ」
「…純くん。司くんの意思を確認しなければ」
「必要ない」
夜鷹は吐き捨てるように言い切った。司に向き直ると、蒼白な顔で臆する様を睥睨する。
「君は言ったよね。選手になりたい、氷の上で生きていきたいと。なら、聞くまでもないよ」
「で、でも、うちにそんなお金は」
「あぁ、そんなこと。君にかかる費用は全て僕が出すから」
「なんで…やめてください。さっき会ったばかりのあなたに、そこまでしていただく義理はありません!」
「理由が必要なの?面倒な性格だね」
眉を寄せた夜鷹がため息をつく。司は怯えるように身を竦ませた。遠慮も気遣いもない、大人げない態度に、鴗鳥は内心ハラハラしながら成り行きを見守る。
「……別に。ただの気まぐれだよ」
「気まぐれ…?そんな理由で…?」
嘘だ、と鴗鳥は直感する。自由人の旧友がここまで世話を焼くのは、決して情や奉仕ではない。夜鷹が司を望んでいるからだ。
品のない話だが、彼の現役時代にその名声にあやかろうと数多くのスポンサーがついたおかげで、桁を数えれば血の気が引くほどの資金が溜まっているだろう。元々スケートに関係ないものに対して物欲を持たず、氷から離れた今は浪費する機会もないと推察される。パトロンとしては申し分ない。
「君には慎一郎くんのクラブで練習してもらうけど、夜は僕が見るから」
「見る、とは…?」
「君にはコーチが必要でしょ」
「コーチ…?あの夜鷹純が、俺の、コーチ…?」
「なに、不満なの」
「めめめ滅相もありません!ありがたい限りです!」
ぶんぶんと左右に首を振る司に、夜鷹は気を良くしたのか眉間の皺を緩めた。
眩い輝きを垣間見せる原石に、最強の見本が味方となった。出場した全ての大会で優勝した実績に裏打ちされた師のスケーティングを糧に、少年は驚異的なスピードで成長していくのだろう。師の人間性やコーチング力については、ここであえて触れない。
「ねぇ、慎一郎くん。君も見たいでしょ」
夜鷹から話を振られて、咄嗟に意図を掴めず首をひねった。ちらりと寄越された視線の苛烈さにぞくりとする。
「この子がオリンピックのリンクで滑るところ」
予想だにしない言葉に息が止まった。
いまだ現役で快進撃を続け、オリンピックのメダルを渇望する鴗鳥に、そのような言葉を投げつけるなんて。声を失う鴗鳥の視界の外で、司も戦慄していた。
だが、雷が落ちたような衝撃で停止する頭の片隅で、冷静な声が鴗鳥を制する。
――きっと数年後には、司は己と鎬を削る好敵手となるだろう。
――次のオリンピックが最後のチャンスだ。一秒でも惜しい自分に、他人を気にかける余裕なんてあるのか。
――多くの助けを借りて氷に立つ今、自分のスケートに集中すべきだ。
この異常な事態から鴗鳥を助け出そうと、理性が正論を並べ立てる。もっともな主張の一つ一つに内心で頷く。
同世代が続々と引退する中、自分は悲願のために現役であり続けている。年を重ね、怪我をする頻度も、疲労が溜まる速度も増す一方だ。はっきり言って、始めたばかりの若手の面倒を見てやれるほど余裕はない。
加えて、おそらくメダル争いをするであろう強力なライバルの誕生に手を貸すなど、愚の骨頂だ。己の美学やスポーツマンシップに反する選択かもしれない。だが、厳しいハードルをいくつも越えたうえでようやく続けられるフィギュアスケートという競技は、良心や情念だけでは成立しない。
――今すぐここを立ち去れ。自分には関わりないと縁を切れ。それが自分のためになる。
理性が喧しくけしかける中、それでも鴗鳥の足は動かなかった。
脳内を占めるのは、先ほど見た司の演技。正確に操る身のこなしに高揚し、底知れぬ才覚に畏怖し、もっと見たいと思った。
――彼が大成するところを見てみたい。
――余すところなく磨かれた刃で駆け回る様を。コーチや振付師の予想すら超えた先で描き出す世界を。彼自身のスケートを。
――もっと。もっと。
そうか、と鴗鳥は腑に落ちた。
夜鷹も自分も、所詮は同じ穴の狢なのだ。全くもって笑えない。それでも、この選択を生涯悔いることはないと確信している。彼は高ぶる感情をそのまま顔に乗せた。
「司くんと大会で戦える日が楽しみです」
一方、呆気にとられた司は鴗鳥と夜鷹を交互に見ていた。当事者を差し置いてとんとん拍子で進んだ話に、理解が追いついていないのだろう。快活さは鳴りを潜め、凛々しい眉を下げた顔は迷子のように頼りない。
「…え、と。あの。俺はこれからも滑ってもいいんですか?」
「うん。いいよ」
「毎日、ずっと、ですか…?」
「そう」
夜鷹の端的な言葉が、司の奥底に沈んだ本音を、いとも簡単に引き上げる。
ずっと暗闇にいた。憧れた世界は、己を迎え入れてくれなかった。誰も俺に期待しない。俺を見てくれない。俺が滑ることを許してはくれなかった。
けれど、憧れの人が、スケートの神様が、手を差し伸べてくれた。傲慢で不愛想で、それでいて優しい光が、司の閉ざされた世界をこじ開ける。滑ることを許された。許してくれた。
これまで理性で押し殺してきた心が、産声を上げるように叫び出す。
「お、俺は…!氷の上で生きていきたい!たくさん滑るために、スケートをするために生まれてきたんだねって、言われる人になりたい!」
成長期特有の丸みが残る頬を、幾筋もの涙が滑り落ちる。枯れることのない泉のように湧き出すそれは、彼が内に長く留めた思いの欠片たちなのだろう。幼い子どものようにしゃくりあげる姿は、痛々しくもどこか神聖な清らかさを感じさせる。
滂沱する司に歩み寄った夜鷹は、手袋から現した細い指を伸ばし、彼の赤らんだ目尻にあてがう。壊れ物に触れるような手つきで、目尻に溜まった大粒を一つ掬うと、ゆうるりとほほ笑んだ。
「君を世界に見せてあげる」
鷹の目は獲物を見つけ出し、磨き上げた爪が確かに捉える。
退屈に心が死んでいく時間の中で唯一興味を抱いた獲物を逃しはしない。
大きな口を開いて、ぱくりと飲み込まれてしまいそうな深淵がそこにあった。
哀れな獲物は、それを愚かにも喜んで受け入れたが、いつか全てを光で染め上げるのだろう。
泣き腫らした少年が浮かべる、目も眩むような笑みがそう予感させた。
「僕に振付してもらえるなんて、君は本当に幸運だね。僕がとびきりの魔法をかけてあげよう」
「て、天才振付師のレオニード・ソロキン!?さん!?」
「君の今度のプログラムを振付してもらう」
「この方に俺のを!?ていうか初耳なんですけど!!」
「言う必要ある?」
「ありますよ…??」
「高峰先生。彼にスケーティング技術を教えてください」
「…お前よぉ。突然連絡寄越してきて、久しぶりに会ったコーチに一番に言うことがソレかよ」
(夜鷹純の歴代コーチの一人、高峰匠先生!?しかもさらっと俺の指導を依頼してる!全然聞かされてないんですけど!)
「彼には必要なんです。――お願いします」
((“お願いします”って態度じゃないんだよなぁ…))
「つかさくん!”つぎきたらいっしょにねようね”ってやくそくだよ!」
「わ、理凰さん!急に走ったら危ないよ」
「こら、理凰。…司くん、申し訳ないけど今晩はうちに泊まっていってもらえませんか。君が来ることを昨日話したら、嬉しくて寝付けなかったみたいで…」
「おおお恐れ多いですが、ご迷惑でなければ…」
「やったぁー!つかさくん、いっしょにごはんたべよう。あと、あしたはリンクいこうね!」
(すっかり大きくなって…弟たちを思い出すなぁ…)
司が夜鷹関係者および鴗鳥一家に溺愛されるといい。
ただし全員もれなく”おもしれー男・女”なので、司のツッコミと鴗鳥の心労がノンストップなのはお約束。
夜鷹(21)
目を覚ますと過去に逆行していた。引退後というタイミングの悪さにブチ切れるも、それならいっそ気になっていた司を育てようと開き直る。偶然見つけた司に話しかけ、説明もないまま車に押し込んでリンクに連れて行った、未成年誘拐未遂犯。今後もやりたい放題なので、司・鴗鳥・クラブ関係者らが尻ぬぐいしがち。
この夜鷹は、ただ自分を再現させるよりも、司自身の表現力や感性も武器にして自分を超える様を見たい派なので、あらゆる手段を用いて司を磨き上げる。
意訳すると「見る?僕の司を」。
司少年(15)
14歳の時にオリンピック金メダリストとなった夜鷹の演技に魅せられ、スケートの世界に飛び込んだ。なけなしの貯金やバイトの給料をつぎ込んで、なんとか氷にしがみ付く日々を送る。競技の厳しさや周囲の反応に打ちのめされ、自信を持てず、才能の輪郭すら掴めなかった。
ある日、スケート教室を終えて公園でイメトレするところを不審者もとい夜鷹に見つかり、ホイホイついていった先で慎一郎くんに出会う。憧れの人たちの前で滑らされるし、本人をよそに勝手に話が進むし、二人とも目がギラついてるしで半泣き。でも何より欲しかった「滑っていいよ」の言葉がもらえて大歓喜。
この後、師となった夜鷹の傍若無人ぶりと尽くしっぷりに情緒がぐちゃぐちゃになる。夜鷹を筆頭に変な大人に囲まれて不憫だが、実は一番振り回している無自覚人たらし。
慎一郎くん(25)
GPファイナル銅メダリストの現役選手。引退した夜鷹から久々に連絡があったと思えば「リンク貸して」と無茶振りされた挙句、司育成計画に否応なく巻き込まれた。彼のスケートに魅了され、猛反対する理性を押しのけて本能に従い、後輩兼好敵手としてかわいがる。
小さな理凰をだっこさせたり、自宅に招いて夕飯をごちそうしたりと、司と家族ぐるみの付き合いとなる。
次のオリンピックで銀メダルを獲得し、華々しく引退する。
気温一桁の冷え切った会場に、人々の熱気が満ちている。
入れ替わりでリンクを降りた選手は、力なく肩を落としていた。おそらく動揺して自身の演技に集中できなかったのだろう。先に滑走した今大会最年長の鴗鳥が、自己ベストを更新する快挙を成し遂げ、漬物石と化したまま表彰台入りが確定したからだ。リンクから離れた位置で構成を確認していた夜鷹と司は、残念ながらリンクを去った彼の演技をちらとも見ていない。そのため、出来栄えや期待値は知らないが、悲しいかな乾いた拍手が多かったように思う。
前の選手の採点が終わるまでの間、司は広いリンクを一人きりで伸び伸びと滑る。人生を賭けた大舞台であっても、その笑みが陰ることはない。憧れの人が見守ってくれる中、焦がれてやまない氷に乗れるのだから、それらを失う以上に怖いものなどありはしない。
やがて最終調整を終えて満足すると、軽やかな足取りでリンクサイドに帰ってくる。にこにこと上機嫌な彼は、むき出しの両手をこちらに突き出した。
「純さん、いつものお願いします!」
「…君の思考は理解できない」
「いいんです!俺はこれで安心できるんですから!」
ため息とともに右手の手袋を外した夜鷹は、青白い肌をした手のひらを司に差し出す。それに気をよくした彼は、普段の暑苦しさを引っ込めて、そっと両手で包み込んだ。目を閉じて祈るように黙する姿は、敬虔な信徒を彷彿とさせる。夜鷹の冷えた手を丸ごと温めるように、平熱が高い司の手からじわりと熱が伝う。
「俺、最近思うようになったんです」
「何を」
「俺が人より温かいのは、氷の上でたくさん滑るためじゃないか、って」
何を今更。
夜鷹は長々と息を吐き出す。すると、呆れられたと勘違いしたのか、司は咄嗟に苦笑した。
「はは、自惚れがすぎましたね。変なこと言ってすみません。忘れてください」
急いで貼り付けた不細工な顔が気に障る。夜鷹は包まれていた右手を動かし、その抱擁から抜け出した。知らず名残惜しそうに眦を下げる司に、ふんと鼻を鳴らす。
解放された右手で、宙に取り残された司の左手を掠め取り、驚いて逃げられたりしないように握り込む。そのまま自身の手ごと、彼の手を己の顔に引き寄せた。すり、と頬に触れ合わせる。触れる度に火傷してしまうのではないかと錯覚するほどの熱だ。太陽に近づきすぎた罰のように、夜鷹の肌は容易く焼かれた。
「なら、君の熱に、氷も僕も溶けてなくなるのかな」
ぶわり、と全身が沸騰した。耳まで真っ赤に染めてわなわなと震える司を、夜鷹は何事もなかったかのように平然と眺める。
その時、ワッと歓声が沸いた。前の滑走者の得点が発表されたのだろう。振り返れば点数がわかると言うのに、残念ながら夜鷹も司も互いしか見ていなかった。そもそも、誰が何点を叩き出そうが、二人には関係ない。確かめる意味はないのだ。端から狙う獲物は一つだけなのだから。
「〜〜ッ純さん!!!ダメ!!そういうの!!俺これから滑るんですよ!?」
「金メダル以外は認めないから」
「今それを言うんですか!?」
まったく、純さんはいつも急に色気を振り撒くんですから。いくら無自覚だからって許されませんよ。無差別セクシーテロリストです、現行犯逮捕します。毎度そばで直視する俺の身にもなってください。心臓がいくつあっても足りませんよ。だいたい、純さんは危機意識が足りてないと思います。強くてキレイでかっこよくて、世界中の人を魅了しちゃう人なんですから。この前も厄介ファンに突撃されて――
異議しかない失礼な言葉をつらつらと並べる司に、夜鷹は顔をしかめた。
無自覚。無差別。危機意識。
どれもこれも、目の前の男にこそ言って聞かせたい言葉だ。氷の上でも外でも、周囲をことごとく誑し込んでいくくせに。無意識かつ悪気なくやっているから、なお質が悪い。底抜けの明るさと人の好さに絆されて、氷上では研ぎ澄まされた刃で滑る姿に、見る者を虜にする。厄介なのは果たしてどちらか。
“The last skater, representing Japan, Tsukasa Akeuraji.”
アナウンスが司の出番を告げる。会場に割れんばかりの歓声が轟いた。
捕まえていたままの手を離し、彼と目を合わせた。今この瞬間、榛色の瞳に映るものは自分だけなのだと、知らず気分が上がる。
「司」
直視すれば失明するとわかっていて、なおも仰がずにはいられない太陽のように。
夜鷹が掬い上げ、輝く術を手に入れた光は、慈悲深く、平等に、そして残酷に全てを照らし出すのだろう。
「見せておいで」
明浦路司という存在を世界に知らしめろ。
その眩しさで、見る者全ての目を焼き尽くせ。
太陽は二つとないことを証明しろ。
「はい!行ってきます」
満面の笑みで返す司は、背を向けて力強く滑り出した。
こちらを振り返ることなく、手の届かない場所へと行ってしまう。
けれど、その輝きは遠く離れた夜鷹をも照らし出し、温かく包み込んだ。
ピアノの旋律とともに、物語の幕が上がる。
司はゆっくりと滑り出した。
そして――
師の瞳と同じ色のメダルを掲げる青年は、晴れやかな笑みを浮かべていた。
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