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都内の一等地。地上四十階に位置する高級ペントハウスの静寂は、むせ返るような血の匂いに塗り潰されていた。数千万は下らないであろうペルシャ絨毯が、どす黒い赤に沈んでいく。
部屋のあちこちに転がっているのは、プロの武装警備員たちの残骸だ。誰一人として銃を抜くことすらできず、急所を一瞬で両断されている。その凄惨な地獄絵図の中央で、彼女はひどく退屈そうに息を吐いた。
「……任務完了。やっぱり、数だけ揃えても意味ないね。あっけない」
殺し屋事務所”FOB”所属の暗殺者、リリィ。
闇に溶け込むような漆黒の戦闘服に身を包んだ彼女の容姿は、この血生臭い空間には不釣り合いなほど幻想的だった。色素の抜け落ちた純白の髪が、開いたままの窓から吹き込む夜風に揺れる。そして何より目を引くのは、暗闇の中で不気味なほど鮮やかに発光するような、赤い双眸だ。アルビノ特有のその瞳は、足元に転がる死体を見下ろしても、一切の感情を宿していない。
彼女の細い腕には、身の丈ほどもある巨大な大鎌が握られていた。刃にこびりついた血糊を軽く振り払うと、シャクッ、と空気を裂く鋭い音が鳴る。彼女の通り名”スネークリリィ”は、その巨大な得物を羽毛のように軽く扱い、蛇のように音もなく死角から標的を狩る、彼女の異常な俊敏性から名付けられたものだ。殺しの才能に愛された、純粋な死神。
「さて、帰ろ……」
リリィが巨大な鎌を背中に収めようと、赤い瞳を細めたその時だった。
――きゅっ。
密室であるはずのペントハウス。地上百メートルを優に超えるその場所で、背後の巨大な窓ガラスの外側から、水切りワイパーがガラスを擦るような間の抜けた音が響いた。
リリィの全身の筋肉が、蛇のように瞬時に硬直する。 気配は一切なかった。音も、殺気も、呼吸すらも。
弾かれたように振り返ったリリィの赤い瞳に映ったのは――夜空を背にして、一本のロープで宙吊りになりながら、窓ガラスの外枠に気怠げに腰掛ける一人の青年の姿だった。
「……誰?」
リリィが低い声で問う。手にした大鎌の柄を握り直す。
青年――黒瀬遥は、咥えていた煙草の灰を夜風に落とすと、コンコン、と外側からガラスを叩き、鍵の開いていた窓をスライドさせ、部屋の中へと無造作に入り込んできた。
擦り切れた作業着に幾つもの金具がついた清掃用のハーネス。端正な顔立ちはどこか眠たげで、右腕に彫られた刺青だけが、彼がただの清掃員ではないことを静かに物語っている。
黒瀬は、部屋中に転がる死体と、大鎌を構えるリリィを交互に見やり、面倒くさそうに首の骨を鳴らした。
「夜分遅くにすまない。外から見てたら、随分と窓が汚れちまってるからよ……中から、拭かせてもらおうと思ってな」
黒瀬の気怠げな言葉が終わるか終わらないかの刹那。リリィの姿が、ふっ、と掻き消えた。床を蹴る音すらない。獲物を狙う大蛇の如き尋常ではない初速。数メートルの距離を一瞬でゼロにする異常な踏み込みで、スネークリリィはすでに黒瀬の背後に回り込んでいた。
「遅い」
淡々とした、感情のない少女の声。巨大な鎌が鋭い風切り音を立てて夜気を裂き、黒瀬の首を正確に刈り取りにかかる。常人であれば、己の首が落ちたことすら気づかずに死を迎えるであろう、殺しの天才による必殺の一撃。
しかし――。
ガァンッ!!
分厚い窓ガラスを震わせるほどの激しく鈍い金属音が、建物内に響き渡った。リリィの赤い瞳が、微かに、しかし確かな驚愕に見開かれる。渾身の力で振り抜いたはずの大鎌が、黒瀬の首のわずか数センチ手前で、ピタリと止まっていた。
黒瀬が振り返りもせず、分厚い作業用グローブに包まれた左手で、鎌の峰を無造作に掴み止めていたのだ。
「嘘……」
リリィの口から初めて動揺の波紋が漏れた。この速度と遠心力が乗った質量を、片手で、しかも振り返りもせずに受け止めるなどあり得ない。
「速いな、お前。才能あるよ」
黒瀬がゆっくりと振り返る。無造作に伸びた黒髪の奥、先程まで眠たげだった瞳から、一切の温度が消え失せていた。
――スイッチが入ったのだ。
今までただの怠惰な清掃員にしか見えなかった青年の輪郭が、突如として血に飢えた獣へと変貌する。部屋の空気が一気に重くなり、圧倒的なプレッシャーが空間を支配した。リリィは本能的な死の恐怖から、すぐさま鎌を引き抜いて距離を取ろうとする。しかし、抜けない。黒瀬の左手は、まるで巨大な万力のように鎌を固定していた。
「でもな」
黒瀬の右腕の筋肉が、異常なほどに隆起する。作業着の袖から覗く刺青が、まるで生き物のように歪んだ。かつてこの世界にあった魔法の概念――その中でも身体強化の極致を、生身の肉体だけで体現したかのような圧力。
メキッ、と嫌な音が鳴る。
黒瀬が左手に力を込めた瞬間、特殊合金で打たれたはずの巨大な鎌の刃が、まるで薄い氷のようにひしゃげ、粉々に砕け散った。
「私の得物……っ!」
武器を失い、完全に体勢を崩したリリィ。すぐさま後方へ跳躍しようとした彼女の蛇のような俊敏さすら、今の黒瀬の前では児戯に等しかった。
「逃げんなよ。掃除の途中だろ」
踏み込みの予備動作すら見えなかった。次の瞬間、黒瀬はリリィの目の前に立ち、その細い首を片手で鷲掴みにしていた。そのままの勢いで、軽々と少女の身体を宙に持ち上げ、背後の分厚いコンクリート壁へと容赦なく叩きつける。
ドゴォッ!!
轟音と共に、壁に放射状の亀裂が走る。
「ぐ、ァ……ッ!」
肺から強制的に空気を吐き出され、リリィは大量の血を吐いて床に崩れ落ちる。ひび割れたコンクリートの粉塵が舞う中、彼女は床に倒れ伏し、激しく血を咳き込んだ。全身の骨が軋み、肺が悲鳴を上げている。だが、彼女のその赤い瞳から殺意だけは消えていなかった。
“スネークリリィ”は、ただ才能だけでここまでのし上がったわけではない。生き汚く、執念深く、どんな絶望的な状況でも標的の命を刈り取るのが彼女の流儀だった。リリィは折れ曲がった右腕を無理やり動かし、ブーツに仕込んでいた漆黒の軍用ナイフを瞬時に引き抜く。
死んだふりからの、音を持たない最後の一撃。残されたすべての力を振り絞り、黒瀬の頸動脈へとナイフを突き立てようと跳躍した。
「死ね」
声なき呪詛が空気を裂くも、その切っ先が黒瀬の肌に触れることは、永遠になかった。
ゴキャッ!!
「あ、ガ……ッ――」
鈍い破砕音。黒瀬の安全靴が、リリィの細い首を床の絨毯ごと、無造作かつ無慈悲に踏み砕いていた。反撃の軌道すら完全に見切られていたのだ。悲鳴を上げる隙すらない。黒瀬はそのまま容赦なく体重をかけ、リリィの命を完全に沈黙させた。
殺しの天才と謳われた少女は、最期まで自分を殺した男の底の知れなさを理解できないまま、ただの動かない冷たい肉塊へと変わった。
再び、ペントハウスに静寂が戻る。
黒瀬は足元の死体から感情のない視線を外すと、ひどく面倒くさそうに息を吐いた。血に濡れた作業用グローブを外し、ポケットから煙草を取り出して火を点ける。ジッポライターの小さな炎が、彼の冷え切った瞳を微かに照らした。
「……金で動くお前らには、殺す相手への最低限の敬意も、命を背負う覚悟もねえ」
黒瀬の口から、静かで、ひどく重い言葉が紡ぎ出される。紫煙を深く吸い込み、吹き込む夜風に向けて、黒瀬は忌々しげに吐き捨てた。
「信念を持たない薄っぺらな”殺し屋”なんてモンは、全員等しく滅ぶべきなんだよ」
吐き出された煙が、むせ返るような血の匂いと混ざり合い、東京の夜空へと溶けていく。彼がいかにして修羅の道を歩んでいるのか、その業の深さと憎悪と共に。黒瀬は少しだけ自嘲するように目を伏せ、誰に言うでもなく、ぽつりとこぼした。
「――俺も含めてな」
生温かい夜風が青年の黒髪を揺らす。見下ろす眼下には、無機質なネオンの海がどこまでも広がっていた。かつてこの世界を満たしていたという魔法の優しい光など、とうの昔に失われている。
奇跡が枯れ果て、命が金で容易く消費される乾いた時代。自らを呪いながら同類を喰らう青年の足元に、今夜もまた一つ、暗く冷たい血溜まりが広がっていた。