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深夜二時。都心の喧騒から少し外れた、ひっそりとしたオフィス街の一角。重厚なマホガニーの扉に掲げられた”桐生法律事務所”という真鍮のプレートだけが、そこが表の社会に属する場所であることを静かに主張していた。
しかし、扉の向こうに広がる空間は、一般的な弁護士事務所のそれとは少し趣が異なる。壁一面を埋め尽くす天井まで届く本棚には、年季の入った六法全書や専門書、過去の判例集などが隙間なく敷き詰められている。その一方で、アンティークのチェスターフィールドソファや、間接照明に照らされた重厚なバーカウンターが同居しており、どこか退廃的で洗練された大人の隠れ家のような空気を漂わせていた。
室内を満たすのは、最高級のダージリンの豊潤な香りと、古い紙の匂い。そして静寂をリズミカルに切り裂く、乾いたタイピングの音だけだ。
「――対象法人の関連する三つのダミー口座への資金移動、全て法的に凍結しました。これで奴らの逃走資金は、文字通り一円も引き出せません」
部屋の奥、巨大なモニターが並ぶデスクで、透き通るような声が響いた。
声の主は、タイトなスーツを着こなした十九歳の法務助手、ソフィア・ベルンシュタイン。プラチナブロンドの長い髪をきっちりとシニヨンにまとめ、モニターの光を反射する大きな碧眼を真剣に細めている。彼女の雪のように白い肌と、年齢よりも幼く見える可愛らしい童顔は、今彼女がキーボードひとつで行っているえげつない行為の内容とは、あまりにも不釣り合いだった。
「ご苦労様、ソフィア。完璧な仕事だ」
タイピングの音に応えるように、ソファの奥から静かな男の声がした。
彼の名は桐生慧。アッシュグレーのウルフカットに、左耳で冷たく光るシルバーピアス。仕立ての良さが一目でわかるスリーピースのスーツを乱れなく着こなした長身の男が、深いソファに身を沈めている。銀縁の眼鏡の奥にある理知的な瞳は、手元の分厚い書類に向けられていた。
また彼の長い指先では、アンティークの銀貨がまるで生き物のように、滑らかに、そして音もなく指の関節を転がり回っている。極度の集中と、計算し尽くされた思考の海に沈んでいる時の、彼の密かな癖だった。
「後は……あの戦闘マシン君が、予定通り標的を掃除して帰ってくるのを待つだけだね」
慧が銀貨をピタリと親指で弾き止め、眼鏡の位置を直しながら淡々と呟く。ソフィアはモニターから視線を外し、デスクの傍らに用意していた最高級のアンティークカップに目をやった。すでにポットには、完璧な温度で抽出された紅茶が保温されている。彼女の冷徹な碧眼が、その瞬間だけ、ほんの少しだけ不安と熱を帯びて揺らいだ。
「……黒瀬サン、お怪我、してないといいんですけど」
ぽつりと漏れたその声音は、先程までの冷徹なアシスタントのものではなく、想い人の帰りを待つ少女のものだった。
――ガチャリ。
およそ三十分後。重厚なマホガニーの扉が開いた瞬間、事務所を満たしていたダージリンの豊潤な香りは、鉄錆のような生温かい匂いによって一瞬で塗り潰された。
「……わりぃ。遅くなった」
気怠げな声と共に姿を現したのは、黒瀬遥。擦り切れた作業着にハーネスという高層ビルの窓拭き清掃員の出で立ちだが、その服のあちこちには、赤黒い染みがべったりと見られる。
彼は首筋の血を無造作に手の甲で拭いながら、ゆっくりとした足取りで室内へ入り込んだ。先程までビル風の中で死神を一方的に蹂躙していた男の瞳は、今はただひどく眠たげに半分閉じられている。
「黒瀬サン!」
モニターに向かっていたソフィアのタイピングの手が、ピタリと止まった。プラチナブロンドのシニヨンが揺れ、大きな碧眼が彼を捉える。冷徹に盤面を支配していたパラリーガルの表情が、ほんの少しだけ、しかし確実に綻んだ。
彼女は音もなく立ち上がると、デスクの傍らで保温していたアンティークカップに、完璧なタイミングで紅茶を注ぐ。立ち昇る湯気が、室内に持ち込まれた血の匂いを少しだけ和らげた。
「お疲れ様です。……お怪我は?」
極力平静を装いながらも、彼女の声の端には隠しきれない安堵と熱が微かに滲んでいる。タイトなパンツスーツの裾を少しだけ握りしめながら、彼女は遥へとカップを差し出した。
「ん、サンキュ。怪我はねえよ。返り血だ」
遥はソフィアからカップを受け取ると、特に味わう素振りも見せず、喉を鳴らして一気に飲み干した。空になったカップをデスクの端にコトリと置くと、彼はそのまま重厚なチェスターフィールドソファへ倒れ込むように身を沈める。長い脚を投げ出し、深く息を吐き出す様は、過酷な労働を終えたただの青年のそれだった。
ソフィアは飲み干されたカップを見つめ、彼が自分の淹れた紅茶を受け取ってくれたことに、頬の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。それを悟られまいと、彼女は慌てて書類の束に視線を落とし、小さく咳払いをする。
「……良かったです。ターゲットの資金源は、桐生サンの指示通り、すでに私が法的に凍結しました」
少し早口になったソフィアの報告を、遥は目を閉じたまま”おう”とだけ短く応えた。
「遥ー! やっぱお前が一番チートだよなっ」
東屋 朧
蒼乃(キャラボ中〜!)
ソファの裏手、間接照明の影になっていた場所から、弾むような声が飛んできた。
灰谷凪だ。ダボついた黒のオーバーサイズパーカーのフードを目深に被り、その隙間からは、白髪に鮮やかな青のメッシュを入れた無造作な髪が覗いている。目の下に張り付いた濃い隈は、彼がどれだけ現実世界を拒絶し、電脳空間に浸りきっているかを雄弁に物語っていた。首にかけたゴツいノイズキャンセリングヘッドホンを揺らしながら、彼はキャスター付きのチェアを滑らせて黒瀬のそばまで来ると、手元のタブレット端末をヒラヒラと振った。
「監視カメラの映像、リアルタイムで見てたけどさ。あのホワイトスネークを素手で止めるとか、物理法則バグってんじゃないの? 俺の秘密兵器の出番なし!」
凪の声は、ソフィアや他の人間に対して向ける刺々しいものとは違い、身内に向けるような気安い労いの響きを含んでいた。彼は飲みかけのエナジードリンクを揺らしながら、ソファで目を閉じている遥を覗き込む。
「たださぁ……」
先程までの穏やかな口調から一転、彼は少しだけ不満げに口を尖らせた。
「お堅いさんが資金ルートを塞いだのはいいけど、連中、別ルートで仮想通貨に逃がそうとしてた形跡があってさ。俺がブロックしたからよかったものの……やっぱりリアルのルールだけで奴らを縛るのは限界あるんじゃない?」
凪はタブレットの画面をソフィアの方へ向け、挑発するようにニヤリと笑う。彼女の碧眼がスッと細められた。先程までの遥に向けられていた純情な光は消え失せ、冷徹な光が戻る。
「……私の組んだロジックに抜け穴があったとでも言いたいんですか。エナドリ漬けニートさん」
丁寧な敬語でありながら、そのトーンは氷のように冷たい。
「ニートじゃないし。それに事実、仮想通貨のラインはがら空きだったじゃん。俺が塞がなきゃどうなってたか」
深夜の静寂を取り戻したはずの事務所で、同い歳の鋭い視線が交差する。ソフィアの碧眼がさらに剣呑な光を帯び、凪がパーカーのポケットに手を突っ込んだまま鼻で笑った、その時だった。
――パシッ。
軽快な金属音が二人の間に割って入る。ソファの奥深くに沈んでいた桐生慧が、指先で転がしていた銀貨を手のひらで包み込むように握り止めた音だ。
「まあ待てよ、二人とも」
慧がゆっくりと立ち上がる。アッシュグレーの髪を一撫でし、スリーピースのスーツの皺をさりげなく伸ばす所作には、深夜の疲労感など微塵も感じられない。
「完全試合だ。ソフィアが表の退路を断ち、凪が裏の逃げ道を塞ぐ。お互いの死角をカバーし合う見事な連携だったよ。何より遥は相変わらずの仕事ぶりで助かる。みんな本当にお疲れ様!」
労いの言葉をかけながら、慧は滑らかな足取りで部屋の隅にある重厚なバーカウンターへと向かう。クリスタルガラスのデキャンタから、琥珀色の液体がロックグラスへと注がれた。カラン、と氷が心地よい音を立てる。酒を酔うためではなく、純粋な嗜好品として愛する彼らしい、ゆったりとした手つきだった。
「強敵の排除と資金源の制圧。せっかくの大勝だ」
慧はグラスを片手に振り返り、銀縁眼鏡の奥で柔らかく、しかしどこか悪戯っぽい光を浮かべた。
この世界では数年前、飲酒の許される年齢が二十歳から十八歳へと引き下げられた。十九歳であるソフィアも凪も、当然のようにアルコールを口にする権利を持っている。そして慧は、彼らのこだわりに合わせた最高の一杯を把握していた。
「このままみんなで、朝まで飲もうじゃないか。僕はとっておきのアイラモルト、ラフロイグの30年を開けるよ。ソフィアには、マーガレッツホープ茶園の極上茶葉を漬け込んだ、特製のティフィンを用意してある。凪は……冷蔵庫のエナジードリンクで、イエーガーマイスターでも割って好きにキメてくれ」
その提案にソフィアの肩が僅かにビクッと跳ねた。
朝まで? この事務所で? それはつまり、ソファに寝転がっている想い人と同じ空間で、長い夜を共に過ごせるということだ。彼女はタイトなパンツスーツの膝の上で、ギュッと両手を握りしめた。透き通るような白い肌が、隠しきれない期待でほんのりと桜色に染まる。
「……有難いんだが、慧」
チェスターフィールドソファの革が、重く軋む音を立てた。目を閉じていた遥が、ゆっくりと身を起こす。首の後ろを無造作に掻きながら、彼はひどく気怠げな、けれどどこか申し訳なさそうな声を出した。
「俺は今回パスだ」
遥のその言葉に、ソフィアの碧眼からふっと期待の光が抜け落ちた。
「小夜を待たせてる」
彼は立ち上がり、作業着についた見えない埃――あるいは血の匂い――を払うように肩を叩いた。
「これ以上遅くなると、あいつ、また真っ暗な部屋でギター弾きながら……指から血ィ流すまで起きて待ってるからな」
小夜。その名前が出た瞬間、事務所の空気がほんの少しだけ、重い湿度を帯びた。常に憂いのある、兄以外の全てを拒絶する不思議な少女。彼女が遥にとってどれほど絶対的な存在であり、同時に、どれほど危うい依存関係にあるのかを、ここにいる全員が理解している。
ソフィアは、ぎゅっと握りしめた手を静かにほどいた。
黒瀬遥の妹。絶対に敵わない、彼が一番に帰るべき場所。法律の天才である彼女でさえ、その強固な結びつきの前に割り込む抜け穴を見つけることはできなかった。
「……相変わらずだなあ」
慧は呆れたように息を吐きながらも、咎めるような響きは一切含んでいなかった。琥珀色のグラスを軽く持ち上げ、見送るように微笑む。
「いいよ。過保護な兄貴はさっさと帰って、その血と硝煙の匂いを洗い流せ。妹君の機嫌を損ねる方が、殺し屋の相手より骨を折るからな」
「違いない」
遥は短く笑うと背中越しにひらりと手を振り、マホガニーの扉へと向かう。凪も”おつかれー”と気の抜けた声で見送った。扉が開閉し、重い足音が深夜の廊下へと消えていく。残された事務所には、グラスの氷が溶ける音と少しだけ冷めた紅茶の香り、そして遥が持ち込んだ鉄錆の匂いだけが微かな余韻として漂っていた。