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#不倫
#離婚
#ヒトコワ
夫婦共有口座に、空白があります。
白い書類に記された赤い一文を見た瞬間、美沙は、胃の底が重く沈むのを感じた。
共有口座。
それは、結婚した翌月に航平と一緒に作った口座だった。
家賃、光熱費、保険、車検、冠婚葬祭、将来のための貯金。
二人の生活に必要なお金は、そこから出すことにしていた。
通帳の表紙には、今も薄くメモが挟まっている。
毎月十万円ずつ。
ボーナス月は多めに。
無理せず、でも将来のために。
そう言ったのは、航平だった。
「俺たちの口座だからさ。ちゃんと増やしていこう」
あの時の航平は、頼もしく見えた。
美沙はその言葉を信じた。
夜間窓口から持ち帰った書類には、表題が記されていた。
共有財産移動届
申請者欄には、藤代航平の名前。
その下に、いくつもの日付と金額が並んでいる。
三万円。
五万円。
二万円。
八万円。
一度に大きな金額ではない。
けれど、何度も、何度も、少しずつ引き出されている。
美沙は翌朝、通帳を探した。
通帳は、リビングの棚の一番下にある書類ケースに入れていたはずだった。
保険証券、住宅関係の書類、家電の保証書。
その中に、青い通帳が挟まっている。
あった。
美沙はそれを開いた。
最後に記帳したのは、半年ほど前だった。
そこから先は空白のまま。
ネットで残高を確認することはあったが、細かな出金までは見ていなかった。
美沙は銀行へ行った。
記帳機に通帳を入れると、機械音が長く続いた。
ジジジジ、と印字される音が、妙に不吉に聞こえる。
戻ってきた通帳を開く。
そこには、夜間窓口の書類と同じ日付が並んでいた。
出金。
振替。
出金。
振替。
金額も一致している。
美沙の指が、通帳の行をなぞった。
合計すると、半年で八十万円近くが消えていた。
目の前が、少し暗くなる。
八十万円。
美沙がパートでどれだけ働けば、その金額になるだろう。
食費を切り詰め、冬のコートを買うのをやめ、友人とのランチを断り、少しずつ残してきたお金。
それが、知らないうちに抜かれていた。
家に戻ると、通帳と夜間窓口の書類を並べた。
同じ日付。
同じ金額。
けれど通帳には、どこへ行ったのかまでは書かれていない。
夜間窓口の書類には、移動先口座が記されていた。
ただし、名義欄は黒く塗りつぶされている。
航平でもない。
瀬名里緒でもない。
それだけは、赤い注記で分かった。
移動先名義、配偶者および同伴者に該当せず。
美沙はその一文を何度も見た。
不倫相手に使ったお金ではない。
では、何のための口座なのか。
夕方、航平が帰ってきた。
美沙は夕食を並べたあと、通帳をテーブルに置いた。
航平の箸が止まる。
「何これ」
「共有口座の通帳」
「見れば分かるけど」
「お金が、何度も引き出されてる」
航平は通帳を一瞥し、すぐに視線をそらした。
「ああ、それか」
その軽さが、美沙の胸を逆なでした。
「家のためだよ」
「家のため?」
「投資。前に言っただろ。少し運用した方がいいって」
「聞いてない」
「言ったよ。美沙が忘れてるだけ」
航平は味噌汁をすすった。
その何気ない動作が、許せなかった。
「八十万円近いよ」
「だから、増やすために動かしてるんだって」
「どこに?」
「いちいち細かいな」
航平の声が低くなる。
「夫婦のお金だよ」
「だから俺が管理してるんだろ」
「私にも確認するべきじゃない?」
航平は箸を置いた。
「美沙ってさ、数字に弱いじゃん」
美沙は息を止めた。
「投資とか、税金とか、そういうの分からないだろ。だから俺がやってるのに、疑うわけ?」
「分からないからって、知らなくていいわけじゃない」
「じゃあ、今から全部説明して理解できるの?」
航平は笑った。
見下すような笑いだった。
「無理だろ。だったら黙って任せておけばいいんだよ」
黙って。
また、その言葉だった。
美沙は通帳を閉じた。
ここで言い合っても、きっとまた同じ場所へ戻される。
美沙が分からない。
美沙が忘れている。
美沙が疑い深い。
すべて、美沙のせいにされる。
「分かった」
美沙はそう言った。
航平は勝ったような顔をした。
「最初からそう言えばいいんだよ」
その夜、美沙は千尋に通帳の写真を送った。
すぐに電話がかかってきた。
「これ、本当に共有口座?」
「うん」
「出金頻度が変。少額で何度も抜いてる。大きく動かすと気づかれるから、分けてる可能性がある」
「夫は投資って言ってる」
「投資なら、証券口座なり運用先なり説明できる。説明しないなら、まず疑っていい」
千尋の声は冷静だった。
その冷静さが、今の美沙には支えだった。
「美沙、通帳はコピーして。写真もクラウドに保存。カード明細も確認できる?」
「やってみる」
「あと、絶対に現物を隠しすぎないで。向こうに気づかれるとまずい。必要なものだけ控えて、元の場所に戻す」
「うん」
「それと」
千尋が少し声を落とした。
「お金の問題は、不倫より厄介な場合がある。名義を使われてないかも確認して」
「名義?」
「あなた名義で借入とか、保証人とか。念のため」
美沙の背筋が冷えた。
その言葉に、夜間窓口の書類の末尾が重なった。
妻名義借入申請、審査中。
まだ千尋には、その一文を見せていない。
でも、現実の言葉として、もうそこまで来ている。
「……千尋」
「何?」
「もし、勝手に私の名前を使われてたら」
「すぐ動く。大丈夫。ひとりで抱えないで」
大丈夫。
その言葉を聞いた途端、美沙は目を閉じた。
航平の「大丈夫」は、いつも美沙を黙らせるための言葉だった。
千尋の「大丈夫」は、美沙を立たせるための言葉だった。
翌日、美沙はカード明細を確認した。
航平の家族カードは、最近ほとんど使われていない。
代わりに、共有口座からの出金だけが増えている。
何かを隠している。
不倫だけではない。
航平は、美沙の知らない場所に、お金の逃げ道を作っている。
夜、美沙は再び市役所へ向かった。
午前零時。
右端の明かりが灯る。
地下へ下りる階段は、もう怖いだけの場所ではなくなっていた。
怖い。
でも、行かなければならない場所になっていた。
窓口には、宮乃が座っていた。
「共有財産移動届の確認ですね」
美沙は書類と、通帳のコピーを差し出した。
「現実でも、同じ金額が動いていました」
「確認済みとします」
宮乃は書類に小さな赤い印を押した。
確認済
その印が押された瞬間、書類の黒く塗りつぶされていた名義欄が、じわりと滲んだ。
美沙は息を飲む。
黒いインクが薄くなり、文字が浮かび上がる。
だが、完全には読めない。
宮乃が言った。
「移動先名義は、次回以降の返送対象です」
「今は、見られないんですか」
「まだ、あなたが確認していない申請が残っています」
「妻名義借入申請、ですか」
美沙が言うと、宮乃はわずかに目を伏せた。
「はい」
窓口の奥で、金属音がした。
今度は、硬貨ではない。
印鑑が机の上を転がるような音だった。
宮乃は新しい書類を取り出した。
白い紙の中央に、美沙の名前が印字されている。
藤代美沙
自分の名前なのに、知らない場所で勝手に呼ばれたようで、ぞっとした。
書類の表題は、
本人名義使用届
その下に、赤い文字。
妻の名前で、申請が進んでいます。
美沙の指先が冷たくなる。
「夫が……私の名前を?」
「提出者は、ご主人です」
「何のために」
宮乃は、書類を窓口へ滑らせた。
その一番下には、次回返送予定として、こう記されていた。
妻名義借入申請書
美沙は、紙から目を離せなかった。
離婚届を出しに来たはずだった。
夫の浮気を知るためだった。
けれど、返送されてくる嘘は、どんどん深いところへ潜っていく。
不倫。
義母。
お金。
そして、名前。
宮乃が静かに言った。
「次の嘘は、あなたの名義で提出されています」
美沙は、自分の名前が印字された紙を握りしめた。
名前とは、自分のものだと思っていた。
でも、夫婦という言葉の中で、それすら勝手に使われていたのかもしれない。
窓口の赤い朱肉が、血のように艶めいていた。
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