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季節は秋の終わり。
カフェのテラス席では金木犀の香りがかすかに残っていた。
環奈はいつものように、仕事終わりにカフェへ立ち寄った。
顔を出す理由は、もう「コーヒーが飲みたいから」じゃない。
――彼に会いたいから。
それでも、自分の中でそれをはっきり言葉にしたことは、まだなかった。
カフェの扉を開けると、すぐに優一郎の声が聞こえた。
「いらっしゃいませ──」
でもその声は、自分に向けられたものじゃなかった。
彼は、カウンターの中で一人の女性に笑顔で話しかけていた。
スーツ姿で、どうやら仕事帰りの様子。
環奈より少し年上に見えた。
「○○商事の方でしたよね。またお立ち寄りいただけて嬉しいです。」
「松村さんのコーヒー、本当に癒されるんです。」
環奈はその会話を聞きながら、席に座った。
(仕事の知り合い……かな?)
そう思おうとしたけど、女性が帰り際に微笑んで言った一言が、胸にひっかかった。
「じゃあまた、松村さんに会いに来ますね。」
会いに、来る。
その言葉が刺さった。
心の奥に、じわっと冷たい感情がにじんだ。
(……なんで、こんな気持ちになるんだろう)
優一郎が誰かに優しくしているのは、知ってる。
それが彼の人柄だってことも、ちゃんとわかってる。
でも。
(自分以外に向けられていると、こんなにも胸がざわつくなんて)
コーヒーを一口飲んでも、味がよくわからなかった。
***
閉店後。
環奈はなぜか、席を立つタイミングを逃していた。
そんな自分に気づいたように、優一郎が声をかけてくる。
「……環奈さん、今日いつもより静かですね。」
「……そう、ですか?」
「うん。何かあった?」
「別に……なんでもないです。」
目を合わせたくなくて、カップの底を見つめた。
けれど、優一郎はじっと環奈を見つめて、やわらかく笑った。
「ちゃんと環奈さんが“環奈さんらしくない日”も、僕は気づけますからね。」
その言葉に、胸がぎゅっとなった。
やさしい。
こんなときでも、ちゃんとわたしを見てくれる。
だからこそ、余計にわかってしまった。
(――私、優一郎さんが好きだ)
ようやく、心の中にずっとあった想いに名前をつけることができた。
でも、同時に不安が押し寄せてくる。
(この気持ち、伝えてもいいのかな)
(“迷惑”になったら、どうしよう)
口に出した瞬間、壊れてしまう気がして――
その日は、何も言えずに帰った。
***
夜。
自室でひとり、ベッドに寝転びながらスマホを握りしめていた。
メッセージアプリの画面には、未送信の文章が浮かんでいる。
「今日ね、ちょっとだけ、嫉妬しちゃったんだ。」
消す。
もう一度打つ。
「優一郎さんが、他の人に優しくしてるの見て……」
また消す。
でも、手は止まらない。
(こんなふうに、こんなふうに、思ってしまうくらい)
(私は、ちゃんと好きなんだ)
ようやく、自分の心に正直になった夜だった。