テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
商店街の裏通りに、古いビルがあった。三階建て。一階は閉まったままの喫茶店。二階の窓に、色褪せた看板が掛かっている。
『一ノ瀬公証役場』
会長が、要を連れていった。「あの人なら、何か知ってるかもしれない」と。何を、とは言わなかった。
階段を上がると、ドアが開いていた。中は、紙の匂いがした。
壁一面の棚。棚の中は、全部、紙だった。綴じられ、紐で縛られ、年号を書いた背表紙が並んでいる。昭和、平成、令和。机の上には、硯と、筆と、朱肉。
「公証人の一ノ瀬だ」
机の向こうに、老人が座っていた。七十を過ぎている。白髪を短く刈っていて、目だけが若かった。
「元、だがな。定年で退いて、この部屋は趣味で残してた。まさか、また人が来るとは思わなかった」
「土師要です。元、銀行のシステムを」
「ああ、会長から聞いた。三冊の帳面の兄ちゃんか」
一ノ瀬は、立ち上がって棚に行き、一冊を抜いた。厚い。革の表紙に、金文字で年号が入っている。
「見てみろ」
要は開いた。
遺言公正証書。土地の売買契約。会社の定款。金銭消費貸借契約。一枚一枚に、本人の署名と、証人二人の署名と、公証人の印と、割印がある。日付と、番号がある。
「これは、全部、無傷だ」一ノ瀬は言った。「大剥離の夜、ゼロだかなんだか知らんが、ここには来なかった。来られなかった。電気が通ってないからな」
要は、一枚の契約書を見た。二十年前の土地の売買。売り主と買い主の署名の横に、証人二人の署名。
「証人が、二人」
「公正証書は、本人と証人二人と公証人の、四人の目で作る。一人が嘘を書いても、三人が覚えてる。一枚が燃えても、原本はここにあって、正本は本人が持ってる。二百年前から、そうやってきた」
要は、顔を上げた。
「侵入される前提で、作られてる」
「そりゃそうだ」一ノ瀬は、当たり前のように言った。「嘘をつく人間が、必ずいる前提だ。だから一人を信じない。一枚を信じない。面倒でも、四人で、二通で、割印で、やる。お前らが『非効率』だと言って捨てたのは、全部それだ」
要は、何も言えなかった。
七年間、要はシステムを速くしてきた。承認を一人にし、署名を電子にし、原本を一つにし、バックアップをクラウドに置いた。全部、速くするためだった。速くするとは、信じる相手を減らすことだった。最後には、サーバーだけを信じた。
そのサーバーが、一晩で嘘をついた。
「一ノ瀬さん」
「なんだ」
「僕らは、間違ってたんでしょうか」
一ノ瀬は、少し考えてから言った。
「間違ってはいない。速い方がいいに決まってる。ただ、速いものは、速く壊れる。それだけだ」
老人は、机の引き出しから、一本の木の棒を出した。古い。手のひらほどの長さで、真ん中から縦に割れていて、割れ目に墨で字が書いてある。
「割符だ。知ってるか」
「名前だけは」
「江戸の商人が使ってた。一本の木に約束を書いて、真ん中で割る。半分ずつ持つ。後で合わせて、割れ目がぴたりと合えば、本物だ。木目は二つとない。偽造するには、木そのものを偽造しなきゃならん」
要は、割符を手に取った。軽い。古い。割れ目は、ぎざぎざだった。
「これ、ハックできない」
「できん。木だからな」
要は、割符を握った。
頭の中で、何かが並び始めていた。顔。紙。三冊。証人。割印。割符。全部、古い。全部、遅い。全部、面倒だ。
全部、侵入された後でも、残る。
「一ノ瀬さん」
「なんだ」
「これ、順番に積めると思いますか。顔で本人を決めて、三人で台帳を書いて、割符で約束を縛って、そこから」
「そこから、何だ」
「金を、作り直す」
一ノ瀬は、要を見た。それから、棚を見た。昭和、平成、令和。二百年分の、嘘をつく人間と付き合ってきた知恵。
「お前らが捨てた古いものが、全部答えだ」老人は言った。「拾う気があるなら、教えてやる」
要は、割符を握ったまま、答えた。
「信用は、作り直せる」
言ってみて、初めて、自分がそれを信じていることに気づいた。
(第8話「最初の台帳」へ続く)
リフェアリー
128
コメント
1件
第7話、すごく良かった……。一ノ瀬さんの「だから一人を信じない。一枚を信じない」って台詞、胸に刺さりました。要くんがシステムの速さだけを追いかけて、最後にサーバーに裏切られたって気づく場面、辛かったけど、それでも「信用は作り直せる」って言えたのが尊い。割符のアナログな強さ、また全話読み返したくなりました。次話も楽しみにしてますね🥀