テラーノベル
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セレンは、リリアンナの歩調がわずかに乱れたのを見逃さなかった。
だが、それを指摘することも、理由を問いただすこともしない。
ただ、彼女が安心して動けるだけの距離を保ち、音楽に身を委ねるように導く。
その配慮は、押しつけがましさを一切感じさせないものだった。
近付き過ぎず、離れ過ぎず――。
リリアンナの呼吸に合わせるような、静かなリード。
(……やっぱり、おかしい)
心の中で、リリアンナはそう思ってしまう。
誠実で、丁寧で、礼を失さない。
少なくとも、今この場にいるセレンからは、誰かを裏切るような軽薄さは微塵も感じられなかった。
だからこそ、胸の奥に小さな棘のような違和感が残る。
(本当に、私が聞いた話は、……そうしてそこから導き出した推論は……間違っていないのかな……?)
ステップを踏み替えた瞬間、セレンがほんのわずかに手の位置を変えた。
触れ合う指先は相変わらず最低限で、そこに私的な感情を忍ばせる余地はない。
「……無理はしないでくださいね、リリアンナ嬢」
低く落ち着いた声が、耳元ではなく、あくまで社交の距離から届けられる。
「今日は、あなたにとって大切な夜です。僕はずっとあなたとこうしていたいけれど……もし少しでも辛くなったら、すぐにお伝えください。ライオール卿のもとへお連れします」
その言葉に、リリアンナの胸がきゅっと締め付けられた。
気遣われている。
それも、表向きの礼儀ではなく、本当にこちらの都合を考えた言葉として。
(……どうして、そんなふうに言えるの?)
セレンに対して疑いを抱いている自分が、ひどく意地悪な人間に思えてしまう。
思わず視線を伏せたリリアンナに、セレンはそれ以上何も言わなかった。
追及もしない。
慰めようともしない。
ただ、変わらない歩調で、音楽の流れに彼女を乗せていく。
その姿は、周囲の目には――まるで、彼女を大切に扱う婚約者のように映っていた。
ひな壇の上から、その様子を見下ろす視線の一方が、満足げに眇められたことを、リリアンナは知らない。
そしてフロアの外から、その誠実さが生む誤解を、忌々し気に……だが何も出来ずに見守っている男がいることも。
音楽が一段落し、周囲で踊っていた幾組もの人影が、ゆっくりと動きを止めていく。
視界には、色と動きと人の気配が一斉に流れ込んでくるのに、それを受け止める余裕が、今のリリアンナにはなかった。
代わりに、拍手の音だけが、やけに大きく耳に残る。
その静かなひとときが、後になって振り返れば――確かに、何かが決定的にずれ始めた瞬間だった。
コメント
2件
何が決定的にずれたのかなぁ?
セレン様、いい人だよね