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たこ焼き手裏剣
167
謳
5,049
付き合ってはいなかった。
少なくとも、言葉の上では。
好きだと言ったこともない。好きだと言われたこともない。だから、二人の関係を誰かに尋ねられれば、友達とか、仲間とか、そういう無難な言葉で答えるしかなかった。
それなのに、最近は少しだけおかしい。
ぼんじゅうるは、その変化に気づいていた。
おんりーと二人でいると、視線の置き場に困る。隣に座れば肩が近い。向かいに座れば目が合う。目が合えば、どちらかが先に逸らす。
ただそれだけのことなのに、その一つ一つが以前とは違って見えるようになった。
たとえば、目が合った時。
以前なら、何も考えなかった。そのまま笑うこともあったし、くだらないことを言って流すこともできた。
今は違う。
おんりーの目が自分の顔に留まる時間が、ほんの少し長いように感じる。
そのたびに。
もしかして。
そう思う。
けれど、期待が形になる前に、別の考えが必ず追いかけてきた。
違ったらどうする。
もし、自分だけがそう思っているのだとしたら。
もし、おんりーにとっては全部いつも通りで、自分だけが勝手に意味をつけているのだとしたら。
その勘違いに気づいた瞬間、今までの距離まで失ってしまいそうだった。
だから、確かめられない。
確かめたいのに。
その日の夕方も、収録が終わったあと、二人だけが部屋に残っていた。
約束していたわけではない。他のメンバーが先に帰っただけだ。
窓の外では、夕暮れの名残が薄い紫色に溶けていた。収録を終えた部屋には、長時間点いていた照明の乾いた熱と、機材のほのかな金属臭が残っている。さっきまで何人もの声が重なっていた空間は、今では広すぎるほど静かだった。
ケーブルを床から拾い上げる音。
機材のスイッチを切る音。
空調が低く唸る音。
音がするたび、ぼんじゅうるの意識は、そこにいるおんりーへ引き戻される。
聞こうとしているわけではない。
それでも、静かすぎる部屋では、普段なら気にも留めない音まで耳に入ってきた。
おんりーが息を吸う音。
服が擦れる音。
スマートフォンを持ち替えた時、指先がケースに触れる小さな音。
どれも大した音ではない。
なのに、それを拾うたび、近くにいるのだと意識させられる。
ぼんじゅうるは機材を片づけながら、ちらりとおんりーを見た。
おんりーは机に軽く腰を預け、スマートフォンを眺めている。
蛍光灯の白い光が黒い髪の輪郭を細く縁取り、眼鏡のレンズには画面の光が淡く反射していた。親指がゆっくりと画面を滑る。
その動きが、いつもより遅いように見えた。
一度スクロールして、止まる。
また少し動かして、止まる。
文字を読んでいるだけかもしれない。
読み込みを待っているだけかもしれない。
それなのに。
おんりーも、自分と同じように、この部屋にいる相手のことを意識しているのではないか。
そんな考えが、勝手に浮かぶ。
ぼんじゅうるは慌てて視線を戻した。
見すぎだ。
自分でも分かる。
でも、分かっているのに、また見たくなる。
その時。
「何。」
おんりーが顔を上げた。
静かな部屋に、その一言が落ちる。
ぼんじゅうるの指先が止まった。
「え?」
「さっきから見てる。」
声は責めていなかった。
いつもの淡々とした調子。
それなのに、ぼんじゅうるには、その最後だけ少し柔らかく聞こえた。
気のせいかもしれない。
いや。
今は、何でもそう聞こえる。
「見てないけど。」
反射的に答える。
「見てた。」
おんりーは短く返した。
その言葉のあと、スマートフォンを机の上へ伏せる。
わざわざ画面を見ない状態にしてから、まっすぐこちらを見た。
逃げたい。
そう思った。
でも、ここで目を逸らしたら、それはそれで何かを認めるような気がした。
「気のせいじゃない?」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
おんりーの眉が、ほんの少しだけ動く。
「気のせい?」
「うん。」
「じゃあ、いいけど。」
おんりーはそれ以上追及しなかった。
視線をスマートフォンへ戻す。
ぼんじゅうるは小さく息を吐いた。
助かった。
そう思う。
でも、同時に。
もう一度こっちを見てほしい。
そんなことまで思ってしまう。
本当に面倒くさい。
自分でもそう思う。
普段なら、「見てたじゃん。」と言われても笑って済ませられた。
だって、おんりーかっこいいから。
好きだから見ちゃう。
そんな軽口だって、以前なら普通に言えたはずだった。
でも、今は言えない。
言えなくなった。
もし、その言葉におんりーが困ったように笑ったら。
いつも通り、「はいはい。」と流されたら。
あるいは。
「そういうのやめて。」と、少しでも本気で言われたら。
冗談の形に隠していたものまで、全部見透かされてしまう気がした。
好きだから言えない。
以前なら軽く言えた言葉が、本当になった途端、口から出なくなった。
おんりーも、画面を見ているふりをしていた。
同じページを開いたまま、ほとんど内容は頭に入っていなかった。
ぼんじゅうるが自分を見ていたことには、とっくに気づいていた。
気づいた瞬間。
胸の奥が、わずかに明るくなった。
そのことが、少し嫌だった。
嬉しいと思ってしまった自分が、怖かった。
ぼんじゅうるは誰にでも優しい。
距離が近い。
好きとか、かっこいいとか、そういうことも自然に言う。
だから、自分だけに向けられたものだと思わないようにしてきた。
自分だけ特別だと考えたら、きっと痛い目を見る。
そう思っていた。
それでも。
時々、自分に向けられる視線だけが少し違う気がする。
目が合ったあと、逸らすまでの間が少し長い。
近くにいる時だけ、声がわずかに低くなる。
他の人には軽く言える言葉を、自分には途中で飲み込むことがある。
でも。
それは全部。
自分がそうであってほしいと思っているから見えるだけかもしれない。
そこが、一番怖かった。
「帰る?」
ぼんじゅうるの声で、おんりーは顔を上げた。
「うん。」
スマートフォンをポケットへ入れる。
「飯、食ってく?」
「どこ。」
「なんでもいい。」
「それ、一番困る。」
「じゃあ、おんりーが決めて。」
「ぼんさんが誘ったんじゃん。」
「じゃあ俺が決める。」
「どうぞ。」
いつもと変わらない会話だった。
そのことに、ぼんじゅうるは少しだけ救われた。
何も変わっていないふりをしていれば、まだこの距離にいられる。
少なくとも、今夜は。
二人で外へ出る。
扉が閉まると、冷たい夜風が頬を撫でた。昼間の熱を失ったアスファルトからは、わずかに湿った匂いが立ち上っている。
街灯の下で、二人の影が並んで伸びた。
歩き出す。
距離は近い。
いつもより近いような気もするし、いつもこんなものだった気もする。
腕が触れそうで、触れない。
少し歩幅を変えれば離れられる。
それなのに、どちらも変えなかった。
ぼんじゅうるは、そのことを意識しないようにした。
意識しないようにしている時点で、もう意識しているのだけれど。
「ぼんさん。」
名前を呼ばれた。
その一言だけで、胸の奥が反応する。
「ん?」
「今日、静かだね。」
「俺?」
「うん。」
「そう?」
「なんか、考え事してる。」
「まあね。」
「仕事?」
「違う。」
「じゃあ何。」
「言わない。」
「何それ。」
おんりーが笑った。
ほんの小さな笑い。
息が少しだけ漏れて、口元が緩む。
その横顔を見た瞬間、ぼんじゅうるの胸の奥がまた柔らかくなる。
見ていたら、顔に出る。
そう思って、視線を前へ戻した。
おんりーは、その動きを横目で見ていた。
逸らされた。
でも。
それが何を意味するのかは分からない。
見られたくないだけかもしれない。
自分の顔が変だったのかもしれない。
本当は。
少し残念だった。
もう少し見てほしかった。
そんなことを思った自分に、また困る。
店に入り、奥の席に向かい合って座る。
店内には低い話し声と、食器が触れ合う音が満ちていた。テーブルの上だけを照らす橙色の明かりが、外の冷気をまとった二人の顔をゆっくり温めていく。
料理を頼む。
仕事の話。
動画の話。
ゲームの話。
メンバーの話。
笑う。
いつも通り。
本当に。
いつも通り。
だからこそ。
余計に。
テーブルの下で靴の先が触れた瞬間。
ぼんじゅうるは、はっきりと気づいた。
ほんの少し。
それだけ。
避けようと思えば、すぐに離せる。
でも。
どちらも動かなかった。
ぼんじゅうるはグラスを持ち上げる。
氷が薄いガラスの中で、からりと鳴った。
その音がやけに大きく聞こえる。
足先には、まだ触れた感触が残っている。
靴越しだから、本当の温度なんて分からない。
それでも。
そこだけ妙に熱を持っているように感じた。
おんりーは足元を見なかった。
気づいている。
多分。
でも、確信はない。
ぼんじゅうるも動かない。
ただ気づいていないだけだったら。
自分だけが意味をつけていることになる。
だから。
何も言えない。
言えないまま。
触れている。
それが。
嬉しい。
嬉しいと思ってしまうことが、怖い。
食事を終えて、店を出る。
駅へ向かう頃には、人通りが少し増えていた。
横から人が来た時、おんりーが少しだけぼんじゅうる側へ寄る。
肩が触れた。
服越しに伝わる感触は一瞬だった。
けれど、ぼんじゅうるの意識はそこへ集まる。
「ごめん。」
「いや。」
おんりーはすぐには離れなかった。
人の流れが落ち着いたあとも、ほんの少しだけ、そのままでいた。
ぼんじゅうるも歩幅を変えなかった。
触れている。
そのことを。
二人とも分かっている気がした。
でも。
人が多かったから。
ただ避けただけ。
そう言えば、全部説明できる。
だからこそ。
確信できない。
駅の手前で、信号が赤になる。
二人で立ち止まる。
冷たい風が吹いた。
ぼんじゅうるはポケットへ手を入れる。
おんりーは袖に指先を隠していた。
「寒い?」
「ちょっと。」
「手、冷たい?」
言ってから。
ぼんじゅうるは、自分の言葉に気づいた。
問いかけというより。
触れる前の確認みたいに聞こえた。
おんりーがこちらを見る。
その視線が、ぼんじゅうるの顔から、ポケットの中の手へ落ちる。
「多分。」
声が、少しだけ柔らかい。
そう聞こえた。
また、自分の都合のいいように解釈しているだけかもしれない。
それでも。
ぼんじゅうるの指は、ポケットの中で少し動いた。
手を出す。
その一つの動作が、ひどく大きなものに思えた。
出して。
触れて。
もし、おんりーが避けなかったら。
それは。
でも。
もし。
普通に避けられたら。
そのあとの自分は。
何を言えばいい。
どう笑えばいい。
ポケットの中で、指先がわずかに握られる。
おんりーは、その小さな布の音を聞いていた。
手を出すのかと思った。
少しだけ。
待った。
でも。
ぼんじゅうるの手は出てこなかった。
信号が青に変わる。
二人とも歩き出す。
手は触れなかった。
おんりーは、自分でも分からないくらい小さく息を吐いた。
安心したのか。
残念だったのか。
多分。
両方だった。
駅に着く。
「じゃ。」
「うん。」
「おつかれ。」
「おつかれ。」
おんりーが改札へ向かう。
ぼんじゅうるは、その背中を見ていた。
呼び止めたい。
そう思う。
でも。
呼び止めたあとに何を言うのかが分からない。
おんりーの歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。
気のせいかもしれない。
本当に。
ほんの少し。
人の流れに合わせただけかもしれない。
それでも。
ぼんじゅうるは名前を呼んだ。
「……おんりー。」
おんりーが振り返る。
「何。」
改札を通り過ぎる人々が、二人の間を流れていく。
それでも、おんりーは急かさなかった。
ただ。
待っている。
その顔を見て。
ぼんじゅうるは。
本当は違うことを言いたかった。
もう少しいて。
とか。
今日楽しかった。
とか。
また二人で。
とか。
好き。
とか。
でも。
出てきた言葉は。
「……また飯行こう。」
だった。
おんりーの目元が、わずかに緩んだ。
その変化は一瞬だった。
でも、ぼんじゅうるには見えた。
「うん。」
短い返事。
声は、いつもより少し柔らかかった。
「行こう。」
その言葉を聞いて。
ぼんじゅうるは、ようやく息を吐いた。
おんりーが改札へ向かう。
その背中が人の流れに紛れ、見えなくなるまで。
ぼんじゅうるは動けなかった。
「……絶対、なんかあるよな。」
思わず漏れた。
でも。
言った直後。
自分で首を振る。
「いや。」
笑う。
少し弱い笑いだった。
「勘違いだったら最悪だな。」
その声は、駅のざわめきに吸い込まれて消えた。
ホームへ降りたおんりーは、電車を待ちながらスマートフォンを開いた。
ぼんじゅうるとのトーク画面。
『今日はありがと』
打つ。
少し見る。
消す。
『また行こう』
打つ。
それも消す。
伝わってほしい。
そう思う。
でも。
伝わるのが怖い。
自分がどんな意味でその言葉を送っているのか。
もし、ぼんじゅうるが何も思っていなかったら。
そこまで伝わった瞬間。
戻れなくなる。
『また』
二文字だけなら。
ただの挨拶にも見える。
仕事仲間にも送れる。
友達にも送れる。
いくらでも言い訳ができる。
おんりーは、その二文字を送った。
数秒。
既読。
返事。
『うん。また』
短い。
それだけ。
なのに。
おんりーは画面を見つめた。
そこに声はない。
表情もない。
それでも、ぼんじゅうるの声が頭の中で勝手に再生される。
少し笑って。
いつもの低い声で。
また。
そう言っているように思える。
口元が、少しだけ緩んだ。
ぼんじゅうるも、同じ画面を見ていた。
『また』
たった二文字。
何の意味もないかもしれない。
それでも。
その言葉を何度も目で追う。
また。
次がある。
また会える。
また二人で。
そんな意味まで、勝手に足してしまう。
どれも確かなものではない。
記憶と願望が混ざっているだけかもしれない。
二人とも。
同じことを考えている。
多分。
でも。
その「多分」を確かめる勇気がない。
だから、その夜も。
何も起きなかった。
手も繋がない。
好きとも言わない。
何一つ、決定的なことはしない。
ただ。
次に会った時も。
きっと同じように相手を見て。
触れそうで触れない距離に立って。
言葉のない間に。
互いの気持ちを探す。
確信できないまま。
それでも。
離れられずにいる。
コメント
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うわ……めっちゃ沁みた……。もう、ずっと胸がぎゅってなってた。 「触れそうで触れない」距離感が、線一本分の温度で全部描かれてて、読んでるこっちが息を止めてた。お互いに「多分」で止まる切なさ、分かってるのに動けないもどかしさが、静かな言葉のひとつひとつに詰まってた。 特に最後の「また」の二文字だけで、お互いが勝手に意味を重ねちゃうとこ、すごくリアルで好き。二人の季節、これからどう動くのか気になって仕方ないです……🥀