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「そういえば、あんた名前なかったっさね」
焼いた鯖を食べながら、碧輝は僕に尋ねた。焼いた鯖は少ししょっぱくて、美味しかった。トマトという赤い野菜を飲み込みながら僕は頷いた。
「……俺がつけてやろっか?」
碧輝が言った。僕は大きく頷いた。碧輝はしばらく考えると閃いたように顔を上げて言った。
「……まさめ、とか」
「まさめ…」
口の中で「まさめ」と反芻する。いい名前を貰ったな。そう自分に言い聞かせる。
「うれしい、名前」
「ふふ、よかったなぁ」
きゅうりを一口齧る。少し苦い瑞々しい感触が、口に広がる。まさめ、と心で繰り返しながら、まさめは昼過ぎの時間を過ごしていった。
「まさめ、午後も海行く?」
机でまさめは本を読んでいた。子供向けの絵本で殆どが平仮名。
「……行く。」
まさめは小さく頷いた。碧輝は着替えを持って別の部屋に入っていった。
「……ん?」
部屋の隅に置いてある箱の中から、灰色の猫が顔を出した。鮫だったまさめにとって猫は未知の生物だった。近づくと、猫は緑色の目でまさめをじっと見つめた。
「!」
猫の鼻先に指を出すと、猫がざらりとした舌で指を舐めた。ざらざらとした感触が指を覆う。
「かわいい…」
猫は箱の中から出て、まさめの手に頭を擦り付けた。ゴロゴロと喉が鳴っている。
「おまたせ〜…って、猫とあそんどっと?」
急に扉が開いて、碧輝が元気よく入ってきた。白いTシャツに、青緑色のパーカー。首元が顕になっていて、今のまさめと似た格好だ。
「うん……もふもふしてる。」
「猫に嫉妬してしまうばい」
「……嫉妬ってなに?」
純粋な疑問をぶつける。碧輝は一瞬躊躇い、いつもの笑顔に戻った。
「羨ましかって思うてしまうよってこと!ほら、海行こ!」
そう言って碧輝は肩掛けカバンを肩にかけ、まさめの腕を掴んで外に出た。真夏の日差しが肌を撃つ。腕を掴んで征く碧輝のうなじが、陽にさらされているのを何故か勿体無いと思った。
自転車に跨り、ゆっくり走り出す。風が心地よくて、なんだか暖かい気持ちになる。夏の空はまさめが住んでいた海と同じ色をしていて、永遠に続くように感じられた。
山の中にある道を走る。ざわざわと揺れる木々と木漏れ日が、碧輝の背中にまだら模様を作る。眩しいと暗いを繰り返し、トンネルの中に入る。トンネルの中は蒸し暑くて息苦しい。碧輝は足を速めた。
道を進んでいくと、遠くから波の音が聞こえてきた。海が近づいているのを感じて、まさめの心は少しずつ弾んできた。碧輝と一緒に過ごすこの時間が、何か特別なものに思えてきたからだ。
「まさめ、着くよ」
と碧輝が言った。
「うん、」
とまさめは力強く頷いた。
二人は海岸に到着すると、まさめはすぐに波打ち際へと駆け出した。冷たい水が足元を包み込み、まさめは少しだけ目を閉じた。この感触は、どこか懐かしいものだったが、今は新しい世界での冒険の一部になっている。
碧輝もその後を追いかけ、二人は一緒に波の中で遊び始めた。太陽がゆっくりと動く。夏の午後がゆっくりと流れていく中、まさめは新しい名前と共に、新しい自分を感じ始めていた。
「まさめ、そろそろ帰る?」
碧輝が穏やかに問いかけたのは、空が紅に染まり始めた頃だった。彼は砂浜に腰を下ろし、波打ち際に転がる貝殻を眺めながら言った。まさめは、名残惜しさを感じながらも、やがてゆっくりと頷いた。夕焼けに染まる海は、昼間のそれよりも一層美しく、心に深く刻まれるような輝きを放っていた。
自転車に乗り込み、二人は暗い森の中へと駆け出す。山々の間に沈む夕陽がオレンジ色の光を残し、遠くの空を鮮やかに染め上げていた。雲はその光を受けて柔らかく滲み、鳥たちが群れをなして頭上を飛び去る。やがて、街の喧騒が遠ざかり、静けさが包み込む紺色の繁華街を駆け抜ける。藍色に染まる住宅街へと入り込むと、徐々に灯る家々の明かりが、日暮れの静寂に溶け込んでいた。
スーパーの中では、夕食の材料を求める数人が、棚の間を静かに行き交っていた。店内に漂う夕飯の匂いや、生活の音が、まさめにとっては新鮮でありながらも、どこか心地よいものだった。夕方の静けさとともに、日常の一幕がゆっくりと流れていく。
「ただいまー」
「ただいま、」
家に入ると、オレンジ色の夕日が部屋の中を優しく照らしていた。リビングの方から何か料理の音が聞こえる。
「おかえり〜、先にお風呂入っとって〜」
碧輝の母親らしき人が、エプロン姿でキッチンのドアから顔を出した。まさめを見て、一瞬疑わしそうな目を向ける。
「碧輝の友達?」
「あー、そう、友達」
母親はまさめをじっと見つめたあと、困ったように微笑んだ。
「名前はなんて言うん?」
「あ、まさめ、です」
母親は納得したように頷くと、「先にお風呂入っててね」と言って再びキッチンに戻った。
お風呂から上がり、碧輝が髪の毛を拭きながら言った。
「そういえば、着替えどうする?」
髪が濡れて少ししぼんでいる碧輝をぼーっと眺めながら、まさめは「あ、そうだった」とつぶやいた。
突然、脱衣所の外から声がした。
「碧輝ー!ここに着替え置いとくけんね〜!」
碧輝は着替えを終えて脱衣所の扉を開け、置かれていた服を手に取った。
「はい、母さんが置いとった」
碧輝が差し出したのは、青い大きめの半袖Tシャツと灰色の半ズボンだった。サラサラした素材で、肌に心地よかった。
「おぉ、似合うじゃん」
「…碧輝の匂いする」
まさめはTシャツの匂いをそっと嗅いで、ふっと微笑んだ。それを見た碧輝も、自然と笑い返した。