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#シリアス
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紫香楽
深夜の厨房は、静まり返った鳳凰館の中で唯一、私の自由が許される場所だった。
日中の喧騒が嘘のように消え去り
遠くで時折響く夜鳴き鳥の声だけが、孤独な静寂を際立たせている。
カチカチと爆ぜる炭の爆ぜる音。
その微かなリズムをBGMに、私は小さな蒸し器の蓋をそっと持ち上げた。
「……ふふ、今度はもっと上手に膨らんだ」
この間、煌様が「優しい味がする」と言ってくださった、あの西洋菓子。
あの方の喜ぶ顔が忘れられなくて、もっと驚かせたい
もっと笑顔が見たいという一心で、今夜は中に甘く煮詰めたリンゴを閉じ込めた新作を試作していた。
蒸気と共に立ち上る、蜜のように甘く
そして林檎特有の爽やかな酸味を含んだ香り。
私は指先にかかる熱を我慢して、出来立ての小さな欠片を指で摘み上げた。
ふうふうと息を吹きかけ、まずは毒見と称して自分で味を確かめようとした、その時だった。
「……夜更かしが過ぎるな、雪」
「ひゃうっ!?」
背後から突然かけられた、低く、けれどどこか慈しむような響きを含んだ声。
心臓が口から飛び出しそうになり、私は手元を狂わせそうになりながら振り返った。
そこには、いつも完璧に被っている軍帽を脱ぎ
首元の第一ボタンを少しだけ緩めた煌様が立っていた。
月の光を背負ったその姿は、いつもの厳格な少佐殿とは違う
どこか無防備で、男の人の色香を漂わせている。
仕事帰りなのだろうか。
少しだけ疲れたように落ちた肩。
「悪い、驚かせたか」
けれど私を見つけた瞬間に
その鋭い瞳がふっと春の陽だまりのように和らぐのを、私は見逃せなかった。
「す、すみません! 驚いてしまって……こんな夜更けに、どうされたのですか?」
「少し、仕事が長引いてな。帰りにここの前を通ったら、君の料理の香りがした気がして。気づけば足がこちらに向いていた」
煌様はそう言って、私の指先にある小さなお菓子をじっと見つめた。
私の香り。
その言葉が意味する甘美な響きだけで、私の顔は瞬く間に熟した林檎のように赤く染まっていく。
「あ、あの、これ…新作なんです。宜しければ、味見をしていただけませんか?」
「ああ、有難く」
煌様は、吸い寄せられるように私の目の前まで歩み寄ってきた。
あまりの近さに、私は慌てて小皿へ移そうとした。
けれど彼はそれを待たず、私の指先にあるお菓子を逃がさないとでも言うようにじっと見つめている。
「あ、あの……あーん、ですか?」
恐る恐る、震える指先を彼の唇へと差し出す。
煌様は少しだけ腰を落とし、私の指ごと包み込むようにしてお菓子を口に含んだ。
指先に触れる、しっとりとした温かさと、驚くほど柔らかい唇の感触。
私の心臓は、祭りの最高潮を告げる太鼓のように激しく、止まらない音で打ち鳴らされた。
「……美味いな。リンゴか」
お菓子を嚥下した煌様の熱い視線が、射抜くように私を捉える。
指先から全身へ痺れるような甘い電撃が走り
私は金縛りに遭ったように一歩も動けなくなってしまった。
しかし、その密やかな沈黙を引き裂いたのは
廊下の奥から響く「コツ、コツ」という、迷いのない、そして冷徹な足音だった。
「───まだ厨房に明かりがついているわね。戸締まりを忘れたのかしら」
「か、神代さん……っ!」
血の気が一気に引いた。
もし、こんな夜更けに煌様と二人きり
しかもこんな親密な距離でいるところを見つかったら、私は間違いなく、不純な女として鳳凰館を追い出されてしまうだろう。
「雪、こっちへ」
煌様が、迷いのない動作で私の手首を掴んだ。
そのまま、厨房の隅にある食料庫───
乾物や酒樽が所狭しと並ぶ、薄暗い棚の隙間へと私を力強く引っ張り込んだ。
パタン、と、息を殺すような小さな音を立てて扉が閉まる。
外の光が遮られた闇の中。
そこは、大人二人が入るにはあまりに狭すぎた。
「っ……」
背中が冷たい木の壁に当たり、目の前には煌様の逞しい胸板がある。
暗闇の中で視覚が死に、その分
他の感覚が異常なほど鋭敏に研ぎ澄まされていく。
煌様の軍服の、硬く冷たい金ボタンが私の肩に当たり
彼が静かに呼吸を繰り返すたびに、その厚い胸が私の体に微かに触れ、熱を伝えてくる。
「静かに。……すぐ、いなくなる」
耳元で、彼の低く湿った声が囁かれた。
熱い吐息が耳たぶをかすめ、首筋から背中にかけて、耐えがたいほどの鳥肌が立つ。
彼の纏う清涼な香水の香りと、男の人特有の
どこか官能的な体温が、狭い空間に充満して逃げ場がない。
「誰かいるの?」
扉のすぐ向こうで、神代さんの声が響く。
心臓の音が外まで漏れてしまいそうで
私は煌様の軍服の裾を、ちぎれんばかりの力でぎゅっと握りしめた。
煌様の大きな手が、私の腰を支えるようにそっと回される。
密着した体から、彼の心臓もまた
いつもは冷静な彼からは想像もつかないほど速く、激しく打っているのが伝わってきた。
(煌様も……私と同じように、緊張していらっしゃるの?)
暗闇に目が慣れてくると、煌様の瞳が潤んで、獲物を狙う獣のように光っているのが見えた。
彼はじっと、動けない私を見下ろしている。
何かを必死に堪えるように顎に力が入り、浮き出た首筋の筋が、彼の葛藤を物語っていた。
あまりに近すぎて、鼻先が触れ合い、唇と唇が重なってしまいそうな距離。
やがて足音は遠ざかり、再び厨房に静寂が戻ってきた。
「……行った、みたいですね」
安堵のため息と共に、煌様がゆっくりと私の腰から手を離そうとする。
暗闇の中で絡み合っていた体温が離れることに、名残惜しさを感じてしまうなんて
私という人間はどれほど愚かで欲深いのかと自嘲しながらも
一刻も早くこの禁断の空間から出なければという思いで、私は身を固くして立ち上がろうとした。
「あっ……!」
それが間違いだった。食料庫の床は予想以上に滑りやすく
踏み出した足元が大きくよろめいたのだ。
「危ないっ!」
「きゃっ!」
バランスを失い、前につんのめりそうになった私の身体を
煌様の太くてたくましい腕が、間一髪のところで力強く抱きとめてくれた。
軍服越しに感じる彼の鍛えられた胸の硬さと、汗と混じった彼自身の匂いに包まれ
私の頭は真っ白になる。
助かったと思ったのも束の間
私を抱き留めた反動か、あるいは私が思っていた以上に体重がかかってしまったのか
煌様が「うっ」と短い呻き声をあげると同時に
私たちの身体は重力に従い、冷たい木の床へと一緒くたになって倒れ込んでしまった。
「……っ痛……!」
後頭部に鈍い衝撃。けれどそれは思ったよりも弱い。
なぜなら私の体は床ではなく
下敷きになっている煌様の胸に全体重を預ける形となっていたからだった。
「……雪…大丈夫か……?」
頭上から聞こえる、苦悶とも安堵ともつかない低い声。
見上げると、わずかな隙間から漏れる月明かりが
眉根を寄せ、痛みに耐えるように歪んだ煌様の美しい顔を照らし出していた。
「え……あ……きら、さま……?」
自分の置かれている状況を理解した瞬間
背筋が凍るような恐怖と、沸騰する湯のように燃え上がる羞恥心が一気に襲い掛かる。
私、今、何をしているの……?
皇国軍の英雄であり、憧れであり
尊敬すべき主人であるはずの煌様の上に
まるで覆い被さるようにして乗っかってしまっている。
(わ、私ってばなんてことを……!)
あまりの事態に思考が完全に停止し
ただただ呆然と彼を見下ろすことしかできない。
「す、すみません……!すぐに退きます…!!」
「いいから落ち着け、雪」
私の慌てふためく声とは対照的に
煌様の声は意外にも穏やかで、むしろどこか楽しそうな響きさえあった。
床に座り込み、乱れた呼吸を必死で整え
「ほ、本当に申し訳ありません!煌様を床に…っ、わ、私重かったですよね…!お、お怪我はないでしょうか…っ?!本当にすみません…!!」
何度も謝り倒す私だが
一方の煌様はというと
何事もなかったかのように、少し寝癖がついた前髪を指で直しながら
面白そうに私を見ていた。
その瞳の奥には、怒りではなく
むしろ悪戯っぽい光が宿っているようで……。
「全く……君は本当に見ていて飽きないな」
私の心臓はまだ壊れた楽器のように暴れているというのに
煌様はそんなことはお構いなしに、楽しそうにそう呟いた。
「え?」
「そこまで謝り倒すことじゃないだろう」
「でも、本当に申し訳ありませんでした……」
「問題ない。君こそ、どこも打っていないか?」
「は、はい……おかげさまで」
差し伸べられた彼の手を取りながら立ち上がると
なんだか夢でも見ているような非現実感があった。
それでも掌に感じた確かな熱と、至近距離で見つめた彼の顔。
そして狭い空間で共有した甘い吐息の記憶が
これが現実だと残酷なまでに教えてくれる。
「……さっきのリンゴ入りのお菓子は絶品だった」
不意に投げかけられた言葉にハッとすると
煌様はいつもの凛々しい表情に戻りながらも
少しだけ頬を紅潮させていた。
「今度、また作ってくれると嬉しい」
「!はい、喜んで……!」
私の胸の奥底では
嬉しさと愛おしさが混ざり合い、甘い疼きとなって広がっていくのを感じていた。
夜の厨房には再び静寂が訪れた。
けれどその空気は先程までの凍り付くようなものではなく
ほんのりと灯り始めたランプの火のように
二人の間に新しい種類の熱を帯び始めていた。
新作のお菓子よりもずっと甘くて、そして胸を締め付けるほど苦しい、秘密の隠れんぼ。
私は、自分の中の恋心が、もう二度と誰にも
自分自身にさえ隠し通せないほど大きく膨らんでしまったことを
その熱い闇の中で自覚せずにはいられなかった。