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神崎蒼のペントハウスでの甘く賑やかな半同棲生活が始まってから、二週間が過ぎた。
十一月に入り、神崎ホールディングスはいよいよ年間最大の繁忙期を迎えていた。来月の正式な入籍を控え、私の左手薬指にはプライベートでは婚約指輪が、そして左手首には二十四時間一時も休まず私の生体データを蒼さんへ送信し続ける特注のスマートウォッチが巻かれている。
朝の目覚めから夜の眠りにつく瞬間まで、私の体温も心拍数も、そして胃袋の中身もすべて彼の管理下に置かれていた。けれど不思議と息苦しさはなく、むしろ彼が作ってくれる温かい朝食と三段重のお弁当のおかげで、私の体調は入社以来もっとも快調に整っていた。
そんなある金曜日の午後三時。本社ビルの最上階・社長室に、かつてない規模の激震が走った。
「神崎社長! 緊急事態です! 欧州の主要取引先である巨大物流・部品サプライチェーンの基幹システムが、大規模なサイバー攻撃を受けて全面ダウンしました! 現地での復旧の目処が立っておらず、このままでは我が社の欧州輸出入ラインも完全にストップします!」
「現地当局が非常事態声明を出しました! 週明け月曜日の東京市場で、我が社の株価がストップ安になりかねません!」
社長室の重厚な扉が開け放たれ、血相を変えた各部門の役員や部長たちが次々と飛び込んでくる。
数千億円規模のプロジェクトが連鎖的に頓挫しかねない、文字通り未曾有の危機だった。フロア全体が怒号と悲鳴にも似た通話音で埋め尽くされ、張り詰めた空気がビリビリと肌を刺す。
(……っ、これは一刻を争うわ!)
私は社長室内の特設デスク――蒼さんのマホガニーの執務机のすぐ隣に設置された私の専用席で、鳴り止まない内線電話と緊急メールの嵐を猛スピードでさばき始めた。
キーボードを叩く指を極限まで走らせながら、頭の中では今夜から週末にかけての『徹夜の緊急対策スケジュール』を瞬時に組み立てていく。
「欧州各支社長との緊急オンライン会議の回線確保、完了しました。投資家向けプレスリリースの第一稿も広報部へ通達済みです。……社長、今夜は第一会議室に緊急対策本部を立ち上げ、主要役員は全員社内待機としましょう。もちろん、私も朝まで残ってサポートいたします」
私は印刷したばかりの分厚い緊急対応プロトコルの資料を抱え、隣の蒼さんのデスクへと向き直った。
どんな非常事態でも決して動揺せず、冷徹な社長の右腕として完璧に立ち回る。それが『氷の秘書』であり、そして彼の婚約者となった私の誇りだった。
――しかし。
隣の玉座に座る神崎蒼は、数千億円の損失が出かねない大惨事を前にしても、氷のように涼やかな顔で手元のスマートフォンを見つめていた。
「……社長?」
「琴音。その資料を置いて、まずは深く息を吐きなさい」
蒼さんは私が差し出した資料の束には目もくれず、私の左手首に巻かれたスマートウォッチをじっと見据えていた。
「え……深呼吸って、何を言っているんですか! 今すぐ欧州支社へ代替ルートの承認を出さないと……」
「今、君の心拍数は百十二、血圧も平常時より十五パーセント上昇している。さらに、スマートウォッチが検知しているコルチゾール――ストレスホルモンの推定分泌量が、俺が定めた安全基準値を大幅に超過しているぞ」
「それは……会社の一大事なんですから、心拍数やストレス値が上がるのは当たり前です! 早く対策本部の立ち上げ許可を……っ」
私が身を乗り出して食い下がった瞬間、蒼さんは静かに立ち上がり、私の手から資料の束をすべて取り上げた。
そして私の両肩を掴み、社長室奥の応接ソファへと強制的に腰を下ろさせたのだ。
「しゃ、社長!?」
「いいか、琴音。欧州のシステムがダウンしようが、一時的に株価が揺れようが、そんなものは俺の才覚一つでいくらでもリカバリーできる。……だが、君の自律神経の乱れと、過度なストレスによる細胞へのダメージは、俺にとって何百兆円の損失よりも重大な大事故だ」
蒼さんは、一切の妥協を許さない絶対君主の瞳で私を見下ろした。
「本日の君の業務は、定時の十七時をもって終了とする。一秒の残業も許可しない。十七時になったら専用車でペントハウスへ帰り、俺が手配した薬膳ディナーを食べて眠りなさい」
「なっ……! 定時で帰る!? こんな非常事態に、専属秘書の私が一人で帰るなんてできるわけないじゃないですか!」
「できる。社長である俺が命じているんだ」
「嫌です! 私だって、先日お義母様の前で『社長の隣に並び立つパートナーになる』って誓ったんです! 一緒に戦わせてください……っ!」
――『ブブブッ! ブブブッ!』
私が涙目で抗議の声を上げた途端、左手首のスマートウォッチが激しい警告振動を鳴らした。焦燥感で交感神経が限界まで昂ぶっているアラートだ。
「……これ以上、君の血管と胃腸に負担をかけるわけにはいかないな」
蒼さんは冷徹に言い放つと、自らのデスクの端末を操作し、管理者コマンドを打ち込んだ。
次の瞬間、私が持っていた社用タブレットと、隣席デスクのノートパソコンの画面が、一斉にプツンと暗転した。
「え……?」
「君のすべての社内システムへのアクセス権限を、たった今、俺の社長特権IDで一時凍結させた。月曜日の朝まで、君はメール一通送ることも、社内サーバーの資料一つ閲覧することもできない」
「そんな……! いくらなんでも横暴すぎます!!」
絶望して立ち上がろうとした私の頬を、蒼さんの大きな手が優しく、けれど逃げ場のない力で包み込んだ。
「横暴でも構わない。君には、かつてのように『会社のために自分の身を削って高熱で倒れる』ような真似は二度とさせないと誓ったはずだ。……俺の婚約者に、一秒の残業も、一ミリの過労も許しはしない。おとなしく俺の防波堤の後ろで守られていろ、琴音」
その瞳に宿る、狂おしいほど深く重たい守護の決意。
過去の私の無茶を誰よりも知っているからこそ、彼は自分自身を巨大な防波堤にして、私を外界の嵐から完全に隔離してしまったのだ。
◆
その日の夕方から週末にかけて、私一人だけが強制帰宅させられた本社ビルでは、文字通り伝説となる光景が繰り広げられていたと後日聞かされた。
緊急対策本部の陣頭指揮を執った蒼さんは、専属秘書である私を休ませた穴を他の誰にも埋めさせず、たった一人で『一騎当千の魔王』と化していたのだ。
三つの国際回線を同時に繋ぎ、通訳も介さず流暢なフランス語と英語で欧州の代替物流網をその場で買収・再編し、同時に国内の主要取引銀行の頭取たちへ直接トップ交渉を行って信用不安を完全に封じ込める。本来なら数十人のタスクフォースが何日も徹夜して行うべき危機管理を、彼は自らの頭脳と圧倒的な統率力だけでねじ伏せていった。
一方、ペントハウスに隔離された私は、社内システムから完全に締め出され、ニュース番組の経済速報を見つめては胸を痛める時間を過ごしていた。
毎晩十九時ぴったりになると、蒼さんが手配した老舗料亭の板前さんがペントハウスを訪れ、『社長より、副交感神経を優位にするようにとのことでございます』と、消化に良い白身魚の真丈や季節野菜の炊き合わせを届けてくれた。
いつもなら蒼さんが隣に座って一口ずつ食べさせてくれる温かい食事も、彼が血を吐くような激務を一人で背負っていると思うと、胸の奥につかえて味がしなかった。
そして蒼さん自身は、金曜の夜も土曜の夜も、私が眠りについた深夜三時過ぎにようやく帰宅し、仮眠をとる間もなく翌朝六時には再び本社へ向かうという極限の生活を続けていたのだ。
(……私、本当にこのままでいいのかな。蒼さんは私を守るために、私の分の仕事とプレッシャーまで全部一人で背負い込んで……)
そして迎えた、日曜日から月曜日に変わる深夜三時半。
ベッドの中で浅い眠りについていた私は、玄関の電子ロックが開く微かな音で目を覚ました。
「……蒼、さん?」
そっと寝室を抜け出し、照明の落とされたリビングを覗き込む。
そこには、カシミヤのコートも脱がずにカウチソファへ深くもたれかかり、目を閉じている蒼さんの姿があった。
暗がりの中に浮かぶ彼の端正な横顔は、一見すると普段通りの冷静な彫刻のようだった。しかし、その呼吸がいつもより明らかに浅く、熱を帯びていることに気づいた私は、音を立てないようにキッチンへ行き、温かい白湯を淹れようとした。
その時だった。
「……ケホッ、ゴホッ……」
静まり返ったリビングから、蒼さんの低く苦しそうな咳き込みが聞こえたのだ。
自己管理の権化であり、出会ってから一度たりとも風邪など引いたことのなかった無敵の彼が、胸を押さえて咳をしている。
激しい胸騒ぎを覚えた私は、キッチンの暗がりの中で自分のスマートフォンを取り出し、ある『秘密のアプリ画面』を起動した。
実は二週間前、このペントハウスでの半同棲が始まった最初の週末。
蒼さんばかりが私のスマートウォッチのバイタルデータを一方的に監視しているのが悔しくて、そして何より「いつか彼が無茶をした時に私が気づけるように」と、彼が入浴している隙に彼の端末のペアリング設定を操作し、私のスマートフォンからも『蒼さんのスマートウォッチの生体データ』を閲覧できる相互同期(バックドア)を密かに設定しておいたのだ。
暗い画面に浮かび上がったリアルタイムの数値を見た瞬間、私は息を呑み、声を出さずに口元を両手で覆った。
――心拍数、百二十(安静時異常高値)。
――自律神経ストレス指数、九十八パーセント(危険領域)。
――そして、皮膚推定体温、三十八・六度。
(熱がある……!? 三十八度六分って、こんな高熱を抱えたまま、三日間も不眠不休で会社を守っていたの……!?)
無敵の魔王様は、鋼鉄の身体を持っていたわけではなかった。
私に一ミリのストレスも与えないための『絶対防波堤』として立ち続け、その裏で彼自身の生身の身体が限界を迎え、静かに悲鳴を上げていたのだ。
スマートフォンの画面を見つめる私の目から、熱い涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
(……いつも管理され、守られてばかりの私だけど。明日だけは、絶対に蒼さんを会社になんて行かせない……!)
私は涙を拭って強く拳を握りしめると、愛する人を過労の呪縛から救い出すための『秘書のささやかな反逆計画』を胸に、静かに彼の眠るソファへと歩み寄ったのだった。
コメント
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わあ……第12話、読み終わりました!もうもうもう、胸がいっぱいです……! 蒼さんの「俺の防波堤の後ろで守られていろ」の重たすぎる愛にまず悶絶。でもその裏で自分がバタバタと倒れそうになってるの、気づかないふりしてる姿に切なくなりました。琴音がバレないように仕込んだ相互同期、見事すぎてにやり。次は「琴音の反逆編」ですよね?魔王を看病→絶対休ませるって胸熱展開、待ってました!次話が待ち遠しいです……!