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月曜日の朝、午前六時。
昨夜、深夜三時半に帰宅してリビングのソファで倒れるように眠っていた蒼さんをなんとか寝室のベッドへ誘導し、その隣で浅い眠りについていた私は、アラームが鳴るよりも早く目を覚ました。
いつもなら、この時間にはすでに蒼さんが起きてキッチンに立ち、私のために完璧な栄養バランスの朝食を作ってくれている。しかし今朝は、ベッドの隣から重苦しい熱気と浅い呼吸音が聞こえていた。
窓の外はまだ冬の朝の薄闇に包まれており、遠くに都心の高層ビル群の赤い航空障害灯が静かに瞬いている。
(……今のうちに、経口補水液と氷枕、それから消化に良いものを用意しなきゃ)
私は彼を起こさないよう、そっとベッドを抜け出してエプロンを身につけた。
冷え込む廊下を足音を忍ばせて歩き、まずは冷蔵庫から経口補水液と製氷室の氷を取り出し、ゴム製の氷枕に詰めて柔らかいタオルで丁寧に包む。
ところが、私がそれを持って寝室へ戻ろうとキッチンの通路を出た、まさにその瞬間だった。
「……琴音。そんなところで何をしている」
背後から響いた、ひどく掠れた低いバリトンボイス。
ビクッとして振り返った私は、目の前の光景に息を呑んだ。
寝室のドア枠に片手をついて立っていた蒼さんの顔は、明らかに高熱で赤く上気し、瞳もしっとりと潤んでいた。それにもかかわらず、彼はすでにシャワーを浴びて髪を整え、パリッとした白シャツにスリーピースのスーツを纏い、震える指先でシルクのネクタイを締めようとしていたのだ。
「あ、蒼さん!? だめですよ、起きてきちゃ! それにそのスーツ……まさか会社に行くつもりですか!?」
「当たり前だ。今日は朝九時から、欧州支社との最終復旧点検と臨時取締役会がある。最高責任者である俺が現場を離れるわけにはいかない」
「だめです! 昨夜から咳もしていましたし、お顔が真っ赤じゃないですか!」
私が氷枕をカウンターに置いて慌てて駆け寄り、彼の腕を掴もうとすると、蒼さんは普段通りの冷徹な表情を取り繕って私の手をかわした。
「熱などない。俺の自律神経と免疫システムは常時完璧にコントロールされている。この俺が体調不良など起こすはずがないだろう」
「嘘ばっかり! 息だってこんなに荒いのに……っ!」
私は強引に背伸びをして、彼のおでこに自分の手のひらをぴたりと当てた。
「ひゃっ……!」
思わず声を上げてしまうほどの、尋常ではない熱さだった。まるで火のついたストーブに直接触れているかのようだ。昨夜の三十八度六分どころではない、三十九度近くまで上がっているのは確実だった。
「ほら、やっぱりすごい高熱じゃないですか! 欧州のシステム復旧は昨日の時点で九割以上完了していますし、今朝の取締役会は副社長と私でリモート対応できます! 今日は絶対に休んでください!」
「……俺に触れるな、琴音。君に風邪がうつるだろう」
蒼さんは私の手をそっと引き剥がし、苦しそうに眉間へ深い皺を寄せた。
「俺が休めば、少なからず現場に動揺が走る。そうなれば、秘書の君にしわ寄せがいき、君が残業を強いられることになる。……君の自律神経を乱し、君の細胞を疲弊させるようなリスクは、俺のプライドにかけて一ミリたりとも許容できない」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸は張り裂けそうなほどの痛みと愛おしさでいっぱいになった。
自分の身体が限界を超えて悲鳴を上げているというのに、この人はまだ「私が残業して疲れること」ばかりを心配しているのだ。かつて起業初期に自らが倒れたトラウマを抱えながら、私の前では絶対に無敵の防波堤であり続けようとしている。
けれど、今日の私は、ただ頷いて守られるだけの無力なペットではない。彼の生涯のパートナーになる女なのだ。
「……蒼さん。これ以上強がっても無駄です。私、全部知っているんですから」
私はエプロンのポケットから自分のスマートフォンを取り出し、画面をタップして彼の目の前へと突きつけた。
「なんだ、それは」
「蒼さんのスマートウォッチの、リアルタイム生体データです」
その言葉を聞いた瞬間、蒼さんの琥珀色の瞳がわずかに見開かれた。
「半同棲が始まった最初の週末、蒼さんがお風呂に入っている隙に、こっそり蒼さんのスマホのペアリング設定を操作して……私の端末からも、蒼さんのバイタルデータが閲覧できるように『相互同期』を仕込んでおいたんです」
私が突きつけた画面には、現在の蒼さんの数値が残酷なほど鮮明に赤く点滅していた。
――推定体温、三十九・一度。安静時心拍数、百十八。自律神経ストレス指数、九十九パーセント。
誰がどう見ても、立っていること自体が奇跡のような絶対安静の数値だ。
「……君というやつは。俺の端末のセキュリティを突破して、逆監視のバックドアを仕込んだというのか?」
「私は、神崎ホールディングスのトップを三年間支え続けてきた専属秘書ですよ? 蒼さんのパスワードの法則くらい、お見通しです」
私は震える声を奮い立たせ、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「いつも蒼さんが私に言っている言葉を、そのままお返しします。『嘘をついて誤魔化そうとしても、データは嘘をつきません』! 今の蒼さんが三日間の徹夜でボロボロなのも、昨日から高熱が出ていたのを隠していたのも、全部この時計が教えてくれました!」
自分の得意文句をそっくりそのまま突きつけられた蒼さんは、額に手を当て、熱を帯びた深い溜息をついた。
「……まったく。君に隠し事を見破られて説教される日が来るとはな。俺も相当、焼きが回ったらしい」
「焼きが回ったんじゃありません、私の分まで一人で背負いすぎなんです!」
私は彼の左手からビジネスバッグを強引に奪い取って床に置き、ネクタイを締めようとしていた彼の大きな両手を自分の手でぎゅっと包み込んだ。
「いつも蒼さんが私の健康を管理して守ってくれているように……今日だけは、私が蒼さんを管理します。神崎社長に、これより『絶対安静および歩行禁止令』を発令します!」
「……琴音」
「反論は却下です! 今すぐベッドに戻って、私の言うことを聞いてください!」
私が指を突きつけて宣言すると、蒼さんは熱で潤んだ瞳を細め、ふっと力なく微笑んだ。
「……本当に、生意気な秘書になったな」
「蒼さんの過保護な教育の賜物です。さあ、寝室へ――」
私が彼の腕を引いて歩き出そうとした、まさにその時だった。
「……っ」
蒼さんの長身が、ぐらりと大きく傾いだ。
強靭な精神力だけで張り詰めていた緊張の糸が、私の『逆転看病宣言』を聞いた安堵によって、ぷつりと切れてしまったのだろう。三十九度を超える高熱に耐えきれなくなった彼の身体が、スローモーションのように前へと崩れ落ちていく。
「きゃっ!? あ、蒼さん!!」
私は咄嗟に両腕を広げて彼を受け止めようとしたが、百八十センチを超える鍛え抜かれた男性の体重を支えきれるはずもなく、そのまま二人してリビングの分厚いシャギーラグの上へと倒れ込んだ。
「蒼さん! しっかりしてください、蒼さん!」
「……はぁっ……はぁっ……すまない、琴音。……どうやら本当に、少し限界らしい……」
私の上に重なるように倒れ込んだ蒼さんの身体は、燃え盛る暖炉のように熱かった。首筋にかかる彼の吐息も、胸越しに伝わる速い鼓動も、すべてが彼の限界を訴えている。
私は彼の下からなんとか這い出すと、意識が朦朧としている彼の脇の下に両腕を差し込んだ。
「んしょっ……! もう、普段どれだけストイックに筋肉を鍛えてるんですか、重すぎます……っ!」
小柄な私が彼を寝室まで引きずって運ぶのは至難の業だったが、火事場の馬鹿力で数分間格闘した末、なんとかキングサイズベッドの上へと彼を寝かせることに成功した。
続けて、熱がこもらないようきついネクタイを外し、ドレスシャツのボタンを上から順番に外していく。
布地を左右に開くと、彫刻のように引き締まった胸板と腹筋が現れ、高熱の汗で艶やかに光っていた。看病中だというのに不謹慎にもドキリとしてしまい、私のスマートウォッチが『ブブッ』と小さく震えたが、私は首を振って邪念を振り払い、通気性の良いシルクのパジャマへと着替えさせた。
冷たい水で絞ったタオルを額に乗せ、氷枕を後頭部の下に滑り込ませると、蒼さんがうっすらと瞼を開けた。
「……琴音……離れろ……」
「え?」
「俺の呼気に含まれるウイルスが、君の免疫システムに悪影響を与える……。飛沫感染のリスクが高すぎる。頼むから、別の部屋へ行ってくれ……」
これほど高熱で弱りきっているのに、まだ私に風邪がうつることばかりを恐れている。
私は彼が押し返そうとする熱い手を両手でぎゅっと握りしめ、自分の頬へとすり寄せた。
「うつりませんよ。蒼さんが毎日、ミリ単位で栄養価を計算した最高の手料理を食べさせてくれたおかげで、今の私の免疫力は人生で一番高いんですから」
「だが……」
「それに、私が体調を崩した時、蒼さんは一度だって私を置いて離れたりしなかったじゃないですか。今日一日、あなたの健康管理権限はすべて私にあります。まずはお薬を飲むために、胃に優しくて温かいものを作ってきますね」
私が立ち上がろうとすると、蒼さんが慌てて私のエプロンの裾を掴んだ。
「待て……キッチンには入るな。君が包丁や火を使えば、怪我や火傷のリスクが跳ね上がる。食事なら一流料亭の板前を呼ぶから……」
「だめです! 弱っている時は、パートナーが手作りした温かい『おじや』を食べるって決まっているんです!」
まだ起き上がろうとする過保護な魔王様を、私はふかふかの羽毛布団で首までぐるぐる巻きにして物理的にベッドへ封印した。
「歩行禁止令を破ったら、今度こそ私が怒りますからね! 大人しく待っていてください!」
エプロンの紐をきゅっと結び直した私は、これまで足を踏み入れることすら禁じられていた彼の聖域――アイランドキッチンへと向かったのだった。
コメント
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いやー、今週も最高でした!特にスマートウォッチの相互同期、これは琴音の秘書としての洞察力と執念が光ってますね。蒼さんの「データは嘘をつかない」っていう常套句を逆手に取った反論には痺れました。弱ってるのに「君にうつる」って心配する蒼さんと、それを「今日は私が管理します」って跳ね返す琴音の関係性が本当に愛おしい。過保護魔王を物理的に布団で封印するシーン、思わず笑っちゃいました。次の展開すごく気になります!