テラーノベル
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天灯食堂の昼時は、いつも少しだけ騒がしい。 天界の霊獣も、仙人も、精霊も、盆を持てば同じ列に並ぶ。誰が生前に何であったかなど、ここではよほどのことがなければ問われない。
その気安さを、青鱗《せいりん》は嫌いではなかった。
前を歩く墨兎が、入口の献立札を見上げた。
「今日は粥じゃないといいな。三日続くと、俺の腹が修行僧になる」
「兎は草で足りるのではないか」
「俺は立派な霊獣だ。草だけで済ませるな」
墨兎が耳を立てて言い返した、その時だった。
青鱗の足が止まった。
食堂の入口に、大きな筆字の札が貼られている。
本日の昼餉。
黄河鯉の甘酢あんかけ。
墨兎は数歩先で振り返った。
「青鱗?」
返事はなかった。
青鱗は、ただその字を見ていた。銀青の髪が食堂の灯を受けて淡く光っている。だが、その光はいつもの水面のような柔らかさではなく、凍った川面のように硬かった。
墨兎が戻ってきて、献立札を見る。
それから、青鱗を見る。
「……おまえ、大丈夫か?」
「大丈夫だ」
「大丈夫なやつの止まり方じゃない」
「少し、思い出しただけだ」
「何を」
青鱗はもう一度、献立札を見た。
黄河鯉。
その文字の奥から、濁った水の匂いがした。甘酢の香りではない。油の熱でもない。まだ自分が水の中にいた頃の、黄河の朝の匂いだった。
食堂の奥で、熱い皿へ甘酢餡がかけられる音がする。
じゅ、と。
その音が、遠い水音に変わった。
黄河の記憶は、いつもこうして不意に開く。
青鱗はまぶたの裏に、まだ名もなかった頃の自分を見た。
*
黄河の底には、ひときわ白く光る鯉がいた。
濁った水の中で、その鱗だけが朝を知っていた。黄河は澄まない。土を抱き、砂を抱き、遠い山から削られたものを呑み込みながら、太く流れていく。その中で、銀の鯉だけが、泥に沈まない光をまとっていた。
尾をひと振りすれば、水底の砂が薄く舞う。
群れの鯉たちは、自然と道を開けた。
怯えているわけではない。追われているわけでもない。ただ、その鯉の通る場所だけ、川の流れが少し変わる。大きな鯉も、小さな鯉も、銀の鯉の横を乱さなかった。餌を奪い合う時でさえ、銀鯉が近づけば、群れは一拍遅れて身を引いた。
魚に王はない。けれど黄河の底で、その鯉は王のようでもあり、異物のようでもあった。
人は、まだその鯉の名を知らない。
ただ、黄河沿いの漁師たちは噂した。
銀の鯉がいる。
濁り水の中で、月みたいに光る。
網を避ける。針も避ける。あれは普通の魚じゃない。
水神の落とし鱗だ。
龍門を越える前の鯉だ。
その噂を、御膳房の下働きの男は魚市場の端で聞いた。
最初は、ただの法螺だと思った。黄河沿いでは、珍しい魚の話などいくらでもある。大きすぎる鯉。人の顔をした魚。釣った者に富をもたらす魚。逃がせば子が授かる魚。
だが、銀の鯉の話だけは違った。語る者たちの声に、笑いが混じらなかった。
「見たのか」
男が尋ねると、年老いた漁師は口を閉じた。しばらくして、黄河の方を見た。
「見た」
「どれほどの魚だ」
「料理人なら、見るな」
その言葉が、男の胸に刺さった。
見るな。
つまり、見れば欲しくなるということだ。
男は、宮廷料理人と呼ばれるにはあまりに下の場所にいた。御膳房の末席。火元の端、水場の隅、残飯桶の横。魚を洗い、鱗を落とし、鍋を磨き、先輩料理人が怒鳴れば頭を下げる。包丁を握る時間より、桶を運ぶ時間の方が長かった。
それでも、魚を見る目だけは確かだった。
肥えた魚か。痩せた魚か。身に張りがあるか。泥臭さが強いか。鱗の並び、尾の力、目の澄み方。
魚は、死んでから料理になるのではない。水の中にいる時から、すでに料理へ向かっている。
男はそう思っていた。
その日から、男は朝ごとに黄河へ通った。
御膳房で鍋を磨き、魚を洗い、残飯桶を運び、夜明け前に川へ出る。釣り糸を垂らし、霧の中で待つ。何もかからない日が続いた。
一日。二日。五日。十日。
はじめは笑っていた漁師たちも、やがて笑わなくなった。
「下働きが、何をそんなに狙う」
「銀鯉だ」
男が答えると、漁師は眉をひそめた。
「やめておけ。あれは人の膳に上げる魚じゃない」
「では、何のためにあれほど美しい」
「知らん。だが、殺してよい魚ではない」
男は黙った。
殺したいわけではなかった。名を上げたいだけでもなかった。
ただ、見たい。見てしまえば、触れたい。触れてしまえば、捌きたい。捌くなら、己の技のすべてを使いたい。
料理人として、その欲は清らかではない。だが、嘘でもなかった。
御膳房へ戻ると、男はいつも通りに怒鳴られた。
「炊源、桶が遅い」
「炊源、鱗が残っている」
「炊源、火から目を離すな」
はい、と答えるたび、指の節が痛んだ。黄河の冷えが骨に残っている。寝不足で目の奥が重い。それでも、川へ行かずにはいられなかった。
銀鯉。
その一語が、炊源の内側で針のように沈んでいた。
十一日目の朝、黄河には低い霧が出ていた。
水面は鈍く、空はまだ白まない。岸辺の葦は湿って重く、泥には夜の冷えが残っていた。
炊源は凍えた指で釣り糸を確かめた。
今日は、帝の膳に出す魚を揃えなければならない日だった。行在に組み込まれた臨時の御膳場は、朝から張り詰めている。北方の騒乱が鎮まり、戦勝の宴を兼ねた膳が控えているという噂が、水場にまで流れてきていた。小さいもの、痩せたもの、傷のあるものは使えない。魚の出来が悪ければ、下働きの炊源など、名を呼ばれる前に叩き出される。
だが、炊源の胸を締めていたのは失敗への恐れだけではなかった。
今日だ。
なぜか、そう思った。黄河の流れが、いつもより低く唸っている。釣り糸が、水の中で妙に静かだった。
コメント
1件
えっ、これもうめっちゃ好きなんだけど!!😭✨ 黄河の濁り水の中で銀鱗だけが朝を知ってるって表現、美しすぎて泣く…あと"見るな"って言われた料理人が逆に追いかける展開、厨師の執念エモすぎる。転生ものの匂いがプンプンする〜!青鱗くん…あんたがその鯉だよね?ね?次話気になりすぎて今夜眠れないかもしれん🥺💕