テラーノベル
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やがて、糸が沈んだ。
軽い引きではなかった。
川底が動いた。
炊源の腕に、重さが走る。竿が深くしなり、足元の泥が崩れた。
「かかったぞ!」
誰かが叫んだ。
炊源は答えられなかった。喉が塞がる。指が震える。だが、手は離さない。
水面の下で、大きな影が反転した。
次の瞬間、黄河が裂けた。
銀の尾が、朝霧を打った。
鯉は水面を破り、弧を描いて跳ねた。銀青の鱗に朝の光が走る。濁った水しぶきが霧の中へ散り、川辺にいた者たちが一斉に声を失った。
炊源の竿は折れそうだった。腕は痺れ、足は泥に沈む。逃げられる。そう思った瞬間、炊源は腰を落とし、全身で竿を引いた。
魚と人と川が、一本の糸で繋がっていた。
やがて銀鯉は岸へ寄せられ、泥の上へ落ちた。
それでも、美しかった。
泥をまとい、腹を打ち、尾を跳ねさせるたびに、鱗が銀青く光る。魚でありながら、魚だけではないもののように見えた。
炊源の膝が震えた。
恐ろしいからではない。
ついに、手が届いたからだ。
何日も川辺に立ち、霧に濡れ、空腹をこらえ、御膳房で叱責を受けながら、それでも追い続けたものが、今、自分の前で跳ねている。
武者震いだった。
漁師たちが何かを言っていた気がする。献上魚だ、殺してよい魚ではない、帝の膳に上がるなら最高の終わりだ――そんな声が、霧の向こうで重なっていた気がする。
だが炊源の耳には、もう届いていなかった。
銀鯉の前に膝をつく。
そして、その目を見た。
魚の目に、人の言葉は映らない。宮廷も、帝も、甘酢も、油の熱も知らない。
それでも炊源は、深く頭を下げた。
「お前を、粗末にはしない」
銀の尾が、一度だけ泥を打った。
それは抗いだったのか。別れだったのか。あるいは、ただ水を探しただけだったのか。
炊源には分からなかった。
まだ青鱗という名はない。まだ言葉もない。ただ、黄河の水が遠ざかっていく。
その最後に、銀の尾がもう一度だけ揺れた。
まるで、濁った川の奥へ、光だけを返すように。
◆
御膳房へ銀鯉が運び込まれた時、火元の音が一瞬だけ止まった。
湯気が立ち、油が鳴り、包丁が俎板を打つ。その絶え間ない騒がしさの中で、魚籠の中の銀青だけが、異様なほど静かに光っていた。
泥と水に濡れている。尾は弱く動いている。それでも、その鱗は濁らなかった。
「……これが、黄河の銀鯉か」
御膳房頭厨が低く呟いた。
頭厨は、御膳房の火場を預かる料理人の長である。普段から多くを語る男ではなかった。怒鳴る時でさえ、声を荒らげすぎない。だが、その一声で火加減も、包丁の速度も、人の立ち位置も変わる。
炊源は魚籠の前に立ったまま、両手を握りしめていた。
「炊源」
頭厨が言った。
「下がれ」
炊源は顔を上げた。
「……頭厨様」
「これはお前が触れてよい魚ではない。御前に出す。俺が捌く」
その言葉は当然だった。
炊源は下働きだ。魚を洗い、桶を運び、火の番をし、鱗を落とす。御膳の主菜を任される立場ではない。
まして、銀鯉である。黄河沿いで噂され、漁師が恐れ、帝の膳に上げるべきかどうかさえ声が割れた魚。失敗すれば、料理人一人の恥では済まない。
炊源は唇を噛んだ。
下がるべきだった。そうすれば、誰も咎めない。
だが、泥の上で銀の尾が揺れた光が、まぶたの裏に残っていた。
お前を、粗末にはしない。
そう言ったのは、自分だ。
炊源は膝をついた。
「俺に」
声が掠れた。
御膳房の空気が変わった。火元の者が手を止め、水場の者が振り返る。
炊源は額を床につけた。
「俺に、調理させてください」
「何を言っている」
頭厨の声が鋭くなった。
「下働きが、御前の魚を捌くつもりか」
「はい」
「思い上がるな」
「思い上がりではありません」
炊源は顔を上げなかった。
「私が釣りました」
「釣った者が捌く決まりなどない」
「決まりではありません」
炊源の指が、床の上で震えていた。
「誓いました。この魚を、粗末にはしないと」
御膳房が静まり返る。
頭厨は黙った。
コメント
1件
うわあああ第2話もエモすぎた…!!😭✨ 炊源が銀鯉を釣り上げる瞬間の描写、めっちゃ臨場感あって息止めて読んだよ…「銀の尾が朝霧を打った」の一文、美しすぎてもう頭の中で映像が流れた…! そしてお前を粗末にはしないって誓うシーンで涙腺きた…。下働きの身でありながら調理を直訴する炊源の覚悟、熱すぎるでしょ…!💔 頭厨の空気変わる演出も痺れた。次の話、めっちゃ気になるよ…!! 良作確信したわ、引き続き読ませてくださいっ🌸