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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
扉の蝶番が、小さく鳴った。
百人近い顔が、一斉に、こちらを向いた。
私は、会場の真ん中の通路を、まっすぐに歩いた。
焼香の列の跡が、絨毯に薄く残っていた。百合の匂いが、一歩ごとに濃くなった。
「……凛さん?」
マイクの前で、蒼真が言った。
その声を、マイクが拾った。
「療養中じゃ、なかったのか。……すみません、皆さん。うちの家政婦です。火事のショックで、まだ。誰か、控室に――」
私は、祭壇の前で止まった。
百合に囲まれた、黒い額縁の、私の写真の下。
「旦那様」
凛の声で、最後に一度だけ、そう呼んだ。
それから、首のスカーフの結び目を、包帯の指でほどいた。
紺の布が、足元に落ちた。
首の火傷の痕が、会場の照明の下にさらされた。
カメラのシャッターが、ぱらぱらと鳴りはじめた。
左手の、白い木綿の手袋を外した。
その下の、肌色の薄い手袋も。
包帯の巻かれた手のひらと、指の先と、左の人差し指の、白く盛り上がった古い傷。
「いいえ」
私は、蒼真を見た。
「あなた」
蒼真の顔から、表情が抜け落ちていった。
「御影澪は、死んでいません」
*
会場が、凍りついた。
記者席の誰かが、椅子を鳴らして立ち上がった。
多恵子叔母さまの扇子が、膝から床へ落ちた。
蒼真が、笑った。
えくぼを作ろうとして、頬が引きつった、笑い方だった。
「何を、言ってる」
マイクを握る手が、白くなっていた。
「皆さん、この人は、事故で記憶が混乱してるんです。……澪は、死んだんだ。DNAだって、一致しなかったんだぞ」
記者席が、ざわめいた。
DNA、と、誰かが繰り返した。
喪主が、自分の家の家政婦の何を、何と比べたのか。その一言で、全員が気づいた。
「あなたが鑑定に出した袋の髪は、私が入れ替えました」
私は、言った。
「Bと書かれた袋に入っていたのは、佐伯凛さんの櫛に残っていた、凛さんの髪です。だから、一致しなかった。澪のブラシの髪と、凛さんの髪は、別の人間のものですから」
蒼真の唇が、開いたまま、動かなかった。
「運転席で亡くなったのは、佐伯凛さんです。私のコートを着て、私の代わりにハンドルを握ってくれた人です」
祭壇の百合を、見上げた。
「あなたが、私の名前で焼いた人です」
*
「歯の話を、しようか」
会場の後ろから、ぶっきらぼうな声がした。
東雲先生が、通路を歩いてきた。
黒いコートの裾から、灰色のパーカーのフードがのぞいていた。
「聖和医大、形成外科の東雲。この人の顔を作った医者だよ」
東雲先生は、記者席に向かって、一枚の紙を掲げた。
「顔は作った。でも、歯は一本もいじってない。白樺台の駅前の歯医者に残ってた、御影澪の五年分の記録と、この人の歯。……一致した。歯は、嘘をつかないからね」
カメラが、紙に向いた。
「そんなもの」
蒼真が、マイクの前から一歩出た。
「そんなもの、いくらでも作れる。こいつは、兄さんとぐるなんだ。財産を狙って――」
「では、字を」
私は、記者席を見た。
灰色のスーツの人が、もう立ち上がっていた。
葛城編集長は、ハンドバッグから手帳とペンを出し、黙って私に差し出した。
「パンを焼いた方ね」
小さな声で、それだけ言った。
私は、祭壇の前の、焼香台の端に手帳を置いた。
ペンを、左手で握った。
包帯の手のひらが、痛んだ。
それでも、指は覚えていた。子どものころから、この手で書いてきた字を。
御影澪。
横の線が、わずかに、右へ下がった。
水無瀬刑事が、壁際から歩いてきた。
コートの内ポケットから、一枚の写しを出して、手帳の隣に並べた。
「保険会社から、令状で取り寄せた申込書です。去年の十月の日付。被保険者、御影澪。受取人、御影蒼真。二億円」
署名欄の「御影澪」は、全部の横線が、右へ上がっていた。
「私は、左利きです」
私は、二つの字を、記者のカメラに向けた。
「この申込書の字を、私は、一度も書いていません」
「……あの字」
多恵子叔母さまが、腰を浮かせた。
「九月の、発表会の。ニュースで見た、スクリーンの家事ノートの字と、同じだわ」
トキさんの周りの家政婦たちが、一斉にうなずいた。
*
「まだ、足りないかしら」
親族席で、お義母さまが立ち上がった。
背筋を、まっすぐに伸ばしたまま。
黒い喪服の胸元に、片手を当てて。
「母さん……」
蒼真が、かすれた声で呼んだ。
お義母さまは、息子を見なかった。
私の前まで歩いてきて、包帯の手を、両手で包んだ。
私は、ワンピースのポケットから、銀色の録音機を出して、お義母さまの手のひらにのせた。
「去年の十一月二十一日の朝。この家のワインセラーで、私が、これを拾いました」
お義母さまの声は、茶室で客を迎えるときと同じ高さだった。
「拾って、聞いて、一年間、隠しておりました。息子の声が入っていたからです」
お義母さまは、録音機を、マイクの前に置いた。
再生の音がした。
雨の音。換気扇の唸り。
「来週の別荘で、片をつける。ブレーキは堂島に仕込ませた」
蒼真の声が、スピーカーを通して、翠の間いっぱいに響いた。
「保険の二億が入れば、会社の穴も埋まる。……澪がいなくなれば、全部うまくいくんだから」
会場の誰も、動かなかった。
「堂島には、終わったら五百万」
ぎい、と、木の鳴る音。
お義母さまは、停止のボタンを押した。
水無瀬刑事が、手帳を開いた。
「切れ目の入ったブレーキホース。実行犯の、堂島賢治の供述。あの夜、燃える車の助手席から、女が這い出したのを見た、と。……それから、一昨日の火事。ガスの元栓と、ドアの前の灯油缶から出た指紋は、御影蒼真さん、あなたのものでした」
*
蒼真は、祭壇の前に立ちつくしていた。
私は、その横の、百合の山を見た。
「私は、百合のアレルギーです」
喉の奥が、かゆかった。
それでも、声は、かすれなかった。
「初めての誕生日に、あなたは百合をくれた。覚えとく、と言った。……あなたは、一度も覚えてくれなかった」
蒼真の目が、祭壇の百合を見た。
初めて、そこに何が飾られているのかを知ったような目だった。
私は、蒼真の左の手首を、指さした。
「その時計」
蒼真が、とっさに、手首を右手で覆った。
「それは、私が、家事代行の仕事で、一年かけて貯めたお金で買ったものです。……返して」
そのときだった。
親族席から、小さな足音が駆けてきた。
「澪ママ!」
陽翔だった。
ぴょんたを片手に、通路を、まっすぐに走ってきた。
玲司さんが、その背中を、止めなかった。
陽翔は、私の腰にしがみついた。
一年分の重さが、ぶつかってきた。
私は、膝をついた。
包帯の手で、くせっ毛の頭を抱いた。
陽翔が、私の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
人の大勢いる前で。
カメラの前で。もう、隠さなくていい場所で。
私も、小さな耳を、二回叩き返した。
「……お前さえ」
頭の上で、声がした。
蒼真が、マイクを握りしめたまま、私を見下ろしていた。
えくぼは、もうどこにもなかった。
「お前さえ、黙って死んでいれば!」
マイクが、その声を、会場の隅々まで運んだ。
記者席のカメラが、一台も、止まらなかった。
蒼真が、こちらへ一歩踏み出した。
その前に、黒いスーツの背中が立った。
「御影蒼真」
玲司さんの声だった。
「その人に、触るな」
*
水無瀬刑事が、上着のポケットから、紙を出した。
「御影蒼真さん。佐伯凛さんに対する殺人。御影澪さんに対する殺人未遂。保険金の詐欺。それから、一昨日の、現住建造物等放火と殺人未遂の容疑で、逮捕状が出ています」
蒼真の膝が、崩れた。
絨毯に膝をついたまま、蒼真は、震える指で、左の手首の留め金を外した。
「……こんなもの」
腕時計が、私の足元に投げ出された。
百合の花びらが一枚、その上に落ちた。
会場の後ろの扉から、制服の警官が二人、入ってきた。
百合の祭壇の前で、手錠の音がした。
私は、陽翔を片腕に抱いたまま、包帯の指で、腕時計を拾い上げた。
裏蓋に、結婚した年の私が彫ってもらった日付が、まだ残っていた。
警官に両腕を取られて、蒼真が、扉のほうへ引かれていった。
一度も、振り返らなかった。
会場が、ゆっくりと息を吹き返した。
陽翔が、私の首の火傷の痕に、そっと頬をつけていた。
私は、陽翔を抱いたまま、顔を上げた。
祭壇の上の、百合に囲まれた私の写真を見た。
それから、会場の全員に向かって、もう一度、自分の名前を口にした。
「御影澪です。……ただいま、陽翔」
コメント
1件
めっちゃ鳥肌立ちました…「ただいま、私の名前」ってタイトル、泣ける。陽翔が「澪ママ!」って走ってきてぴょんた持ってるところ、もう無理。人の前で隠さなくていい場所で耳叩き合うの、尊すぎる。それとお義母さまが自分の息子の声を一年隠してたの、重すぎて好き。復讐とおかえりが同じ場所にあるの、すごいよ🥀🤍