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#お仕事
#秘密
衝動的にノートの切れ端に「自分の嫌な思い出」を書き殴り、家を飛び出した。
生い茂る雑草を掻き分けた先に、それはあった。月明かりを映す、静かな沼だ。風もないのに時折、小さな気泡が底から湧き上がり、ぷつんと弾けた。
翼は沼の縁に膝をつき、紙を握りしめた右手を泥の中へ伸ばした。冷たく粘り気のある泥が指先に触れる。深く息を吐き出し、紙を底へ押し込む。
頭の芯を鋭い痛みが貫いた。視界が白く明滅し、耳の奥で何かが割れるような音が響く。
「あ……」
あんなに翼を苛んでいた、教頭を裏切ったことへの罪悪感が、最初から存在しなかったかのように消えていた。
翌日、学校へ行くと教頭の顔を見てもなんとも思わない。あの裏切りの欠片はどこにも残されていなかった。三島さえも、前日の話題を完全に忘れていた。
沼は本物だった。
人間の犯した過ちを、その記憶ごと食らう装置。その日を境に、翼は息が詰まりそうになると夜な夜な沼を訪れ、昼間に生じた嫌な記憶や、周囲に迎合するために重ねた嘘をノートに書いては、泥の底へと沈めていった。
6月に入り、本格的な梅雨が来た。
降り続く雨が地面を濡らす頃、学校の空気はどこかおかしくなり始めていた。翼が沼に嘘を捨てるたび、周囲の人間関係が少しずつ狂っていく。昨日まで親しかったはずの者が、翌日には他人のような目をしている。記憶の辻褄が合わなくなった世界で、人々は理由のわからない焦燥感を募らせていた。
そんなある放課後、運悪く教室で翼と冬真の二人きりになった。雨脚が強まり、窓ガラスを激しく叩いている。
冬真が不意に、震える声で口を開いた。一歩、また一歩と翼との距離を詰め、その大きな手で翼の肩を強く掴む。
「翼。お前にだけは、俺の本当の気持ちを……隠さずに知ってほしいんだ。俺、お前のことが――」
冬真の瞳は、まっすぐに翼を見つめていた。その言葉の先を、翼は鋭く察知した。
(言わせちゃダメだ。こいつの気持ちを受け入れたら、人生が終わる)
冬真の告白を受け止めれば、この保守的な学校で同性愛者として晒され、カーストの底辺へ落とされるかもしれない。苦労して築き上げてきた平穏なスクールライフが崩れる。三島たちに嘲笑される自分の姿が、あまりにも鮮明に浮かんだ。
翼は冬真の手を冷たく振り払い、困ったような曖昧な苦笑いを浮かべた。
「ごめん、冬真。……そういう話、あんまり聞きたくないな。今まで通り、普通の友達でいたいんだ。お前とはさ」
最も残酷な逃げ方だった。
冬真の顔からすべての血の気が引いていく。瞳の奥で光が消え、代わりに深い絶望が宿った。
「……そうだな。悪かった。忘れてくれ」
その日、冬真はそれ以上何も言わずに教室を出て行った。翌日から学校に来なくなり、やがて正式に自主退学した。クラスの名簿からも、最初から存在しなかったかのように彼の名前が消えていた。
沼の呪いが、冬真という存在そのものを学校から「忘却」させたのだ。
冬真の私物がすべて撤去され、主を失った後ろの席。何気なく机の引き出しの奥に手を伸ばした時、指先が天板の裏側に貼り付けられた異物に触れた。
ガムテープで固定されていたのは、一冊の分厚いノートだった。引き剥がして開くと、それは強引に引きちぎられ、激しく破り捨てられたページの束の残骸だった。何枚ものページがびりびりに裂かれ、ぐしゃぐしゃに丸められた状態で押し込められている。
冬真が学校を去ったその日、どうしても沼に沈めきれず、かといって持ち帰ることもできずに隠していった、彼の執念の塊だった。