テラーノベル
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朝の食卓は、静かだったけど重くはなかった。
トーストの焼ける音。
フライパンの小さな油のはねる音。
生活の音が、ちゃんと家に戻ってきている。
らんは椅子に座って、両手でマグカップを包んでいた。
昨日まで少し震えていた指は、今日は落ち着いている。
キッチンに立ついるまは、やけに無言だった。
いつも無口だけど、今日は種類が違う。
何度も、ちら、と視線が向く。
らんがいるか確認するみたいに。
「……焦げる」
ぽつっと、らんが言う。
「は?」
「パン」
いるまが振り向く。
トーストの端が少し黒い。
「……」
無言で皿に乗せる。
らんは少し笑う。
「料理、ちょっと雑になってる」
「うるせ」
でもその声は弱い。
怒っていない。
席に着く。
向かい合う。
昨日までと同じテーブルなのに、空気が少し違う。
“確認”しなくても、ここにいるのが分かる空気。
らんが小さく言う。
「今日、学校休む」
いるまの手が止まる。
「まだ怖い?」
らんは少し考えてから頷く。
「外が、ちょっと」
正直な声。
無理に強がらない。
いるまはすぐに言う。
「じゃあ休め」
即答。
「ノートとかは俺が聞いとく」
らんが目を見開く。
「え」
「なんだよ」
「そこまで頼っていいの?」
いるまはパンをかじる。
「頼れって言ったの誰だと思ってんだ」
らんの喉がきゅっと鳴る。
「……兄」
小さい声。
いるまは一瞬止まって、視線をそらす。
「その呼び方、外ではやめろ」
「なんで!?」
「恥ずい」
でも否定はしない。
午前中。
らんはリビングのソファに座って、ブランケットに包まれている。
テレビはついているけど、音は小さい。
いるまは出かける準備をしていたのに、まだ玄関に立ったまま。
「鍵閉めろよ」
「うん」
「知らない人出ても出るな」
「うん」
「怖くなったら電話しろ」
「うん」
「……」
言いすぎて、自分で止まる。
らんがくすっと笑う。
「過保護」
「違う」
「心配してる」
言葉が止まる。
いるまは視線を逸らす。
「当たり前だろ」
その一言は、もう照れ隠しじゃない。
ドアが閉まる。
家の中が静かになる。
でも昨日の静けさとは違う。
“ひとり”の静けさじゃない。
らんは深呼吸する。
怖さはまだある。
思い出も消えていない。
でも。
玄関の向こうに、戻ってくる人がいる。
それだけで、世界の形が変わる。
ソファに座ったまま、スマホを握る。
画面には、さっき登録された連絡先。
いるま
その名前を見るだけで、少し息がしやすくなる。
学校の帰り道。
いるまはいつもより早足だった。
(家、早く帰る)
理由は分かっている。
でも認めるのはまだ悔しい。
家の前に着く。
ドアを開ける。
「……らん」
呼ぶ声は低いのに、急いでいる。
リビングから顔が出る。
「おかえり」
いつも通りの声。
その瞬間。
胸の奥に詰まっていたものが、静かにほどける。
「……ただいま」
靴を脱ぐ手が、少し震えていたことに自分で気づく。
らんは気づかないふりをして、
「ノート、ありがと」
と言った。
いるまは鞄を置きながら返す。
「別に」
でも、目が合う。
ほんの少しだけ、笑う。
コメント
2件
よいなぁ…やっぱかくのじょうずだなぁ…