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次の日の昼前、藤波の元にひとりの白髪の紳士が訪ねてきた。
「初めまして。脇田と申します」
「すみません。お呼び立てしてしまいまして」
「いえ。定年後、特にすることもありませんから」
柔らかく、ゆっくりとした口調ながら、鋭い眼光は未だに刑事だった頃の名残なのかもしれない。
「それに、五年前の大西病院のことは引っ掛かっていましたから」
脇田はそう言ってから、
「何せ、三ヶ月で八十人が突然亡くなって、その後はひとりも死亡者がいなかったんです。自然死の患者がいたとしても、その三ヶ月の間に、何者が殺していたに違いないと思うのは当然です」
と、前置きをした。
説明によると、二〇一八年の九月二十日、ある高齢男性患者の容態が急変した際、担当看護師が投与中の点滴袋を誤って床に落としてしまうと、袋内の輸液が急激に泡立ったという。通常であれば、あり得ないことに、その看護師は疑念を抱き、担当医に相談をした。
「それで、私が現場に赴くことになったのですが、担当医の話によると、近頃病院でやたらと患者が亡くなっているというではありませんか。それで調べてみると、三ヶ月で八十人が亡くなっていることが判明したんです」
脇田は表情を変えるわけでもなく、淡々と話した。
藤波がメモを取りながら、頷くと、さらに続けた。
「死亡した患者を司法解剖してみると、塩化ベンザルコニウムが発見されました。これは、主に消毒液に使われるものです。大西病院ではオスバンという消毒液を使っていたことから、それが混入したのではないかと考えました。そして、病院内の点滴袋を調べてみると、未使用の十個のゴム栓部分に封をする保護フィルムに穴が開いていて、それらの中からオスバンの成分が発見されました」
脇田はまるで昨日の出来事かのように、すらすらと話す。
「ちょっと、よろしいですか」
藤波は時間を気にしながらきいた。
「はい」
脇田は藤波を改めて見る。
「その事件は、解決していませんよね」
「はい。誰かが故意でオスバンを混入させたことは確かですが、犯人特定までには至りませんでした」
「怪しい人物はいたのでしょうか」
「そこなんですが……」
脇田は苦い顔をして、
「病院に勤務している者で、点滴袋に触れる立場にある者なら誰でも可能性はありました。大西病院は点滴袋が保管している部屋には防犯カメラがついていなかったので、混入した映像を見ることはできませんでした」
「脇田さんの見立てで、特に怪しいというのは?」
「三人ほどいました」
「その中に、池田みのりという看護助手はいましたか」
「ええ」
脇田は頷いた。
「池田みのりが怪しかったんですね」
藤波はもう一度、確かめた。
「はい。彼女が直接なにかをしたのを見た者はもちろんいませんが、状況から判断して、可能性はあると思ったんです」
「状況といいますと?」
「それは、彼女が病院内でいじめられていたことです。いじめといっても、暴力的なことはなく、執拗に叱られたり、看護助手であることを馬鹿にされるといったものですが。彼女は看護の専門学校に行ったのに看護師国家試験に二度落ちて、結局は諦めて看護助手になったんです」
「疑わしいというのは、いじめに遭っていたという理由だけですか?」
「まあ、そうなんですが、彼女はプライドが高くいじめてきた相手の看護師たちの飲み物に異物を混入したことがあったんです。その経緯からも、職場での腹いせで、患者を殺していたとしてもおかしくないと考えました」
脇田は相変わらず、表情を変えずに話す。
「他に彼女のことで覚えていることはありますか」
藤波はきいた。
「いえ。彼女はそういう経緯があったので、一応疑わしいリストには入っていましたが、犯行を特定する証拠が出てきたわけでもありませんので」
脇田は首を横に振った。
それから、さらに大西病院での事件のことを聞いたが、特に参考になりそうなことはなかった。
だが、藤波の頭の中に、池田みのりが点滴袋にオスバンを混入している様子が容易に想像できた。
やはり、彼女を調べてみよう。
そう思い立った。