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#四季総受け
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21,509
芹沢は、ゆっくりと身体を起こした。
耳元から離れていく吐息の湿度が、首筋の産毛を一本ずつ撫でて遠ざかる。熱を失った肌に、フロアの乾いた空調がやけに冷たく触れた。
「では、書類はお預かりしていきますね」
さっきまでの掠れた低音が嘘のように、いつも通りの、控えめで、おどおどした声に戻っている。周囲の誰かが聞いていたとしても、営業部の地味な男が、不機嫌な編集長に恐る恐る業務の確認をしている光景にしか見えないはずだ。
「来月の販促の件、詳細は金曜に改めて、お邪魔します」
(……っ、お前……)
金曜。お邪魔します。
表面上は、ただの仕事の話だった。
なのに、澪の鼓膜には、その一語一語が生々しい別の意味を孕んで、重く沈み込んでいく。
芹沢は、ぺこりと小さく頭を下げた。前髪の隙間で、目が冷たく三日月に歪む。
そのまま踵を返し、使い古された靴の音が、フロアの向こうへ遠ざかっていった。
澪は、しばらくその場から動けなかった。
握り潰しかけた書類の端が、掌の汗でじっとり湿っている。赤ペンのキャップを外そうと親指を掛けたが、指先がひどく震えて、キャップは机の上でカラリと乾いた音を立てた。
(……ふざけんなよ、クソ野郎が)
喉まで出かかった悪態は、声にならずに消えた。
そして、金曜。
時計の針は、残酷なほど正確に、あの男が告げた時間へ近づいていく。
帰りの電車の窓に映る自分の顔は、相変わらず無表情だった。それがどうしようもなく癪で、革鞄の持ち手を、指が白くなるほど握りしめる。
(落ち着け。ただの部下だ。仕事の延長に決まってる。そもそも、あれは――!)
人生最大の、消し去りたい汚点だ。
恋愛小説の編集長という立場にありながら、趣味で書いている自作の、肝心の官能描写だけがどうしても書けない。この歳になって経験不足だなんて誰にも言えない、くだらなくて、切実すぎる悩み。
ほかの手段も考えたが、どれも男側のリアルな心理までは掴めそうになかった。男たちが何を考え、どうやって相手を落/すのか。その生々しい話が聞きたくてネットの海を彷徨っていたら、見慣れない「出張ホスト」の文字にたどり着いてしまった。
――自分の知らない、女たちが金を払って買っている世界の裏側。どんな男が来て、どんなふうに客を落としているのか。その空気感や会話のネタだけでも盗めれば、小説の取材になるかもしれない。
そんな、いかにも編集者らしい虫のいい言い訳を頭に浮かべて、澪はほとんど自棄になって、そのボタンを押したのだ。
まさか自分が、仕事の話を聞くどころか、ベッドの上で組み敷かれ、容赦なく暴かれる側になるなんて。予約した時の澪は、微塵も想像していなかった。
知識の空白を埋めるためだけに、一度きりのつもりで呼んだ男。
――ハルカ。それが、あの夜の男の源氏名だった。
自分の部屋のドアを開けた先に立っていたのが、昼間は背中を丸めてファイルを抱えている営業部の地味な男だと理解するまでに、十数秒かかった。まさか自分の目の前に仕事上の部下がやって来るなんて、誰が想像出来ただろう。なんとも間抜けな話だ。
人生をかけて磨いてきた編集者としての誇りも、冷静沈着な仮面も、あの夜の玄関先であっさり音を立てて崩れ去った。
あの時味わった、脳が焼き切れるような衝撃と屈辱を、澪は一生忘れない自信があった。
コメント
1件
うわ、この第4話、表の仕事のやり取りと裏の関係が重なり合って、すごく生々しい緊張感が伝わってきました……。「金曜にお邪魔します」という一言が、澪にとって全く別の重さを持って響くのが心に刺さります。あの夜の衝撃から、日常のオフィスに戻っても震えが収まらない澪の心情、すごく丁寧に描かれていて引き込まれました。芹沢の「目が冷たく三日月に歪む」表情、めちゃくちゃゾクゾクしますね……! この駆け引きと緊張感、続きが気になりすぎます。