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その感情の名は

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その感情の名は

1 - 第1話

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2023年08月18日

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“世の中の関節は外れてしまった”

それは、ほんのわずかなきっかけで崩れるものなのだと、そのときまで理解していなかったのだ。

「すみません。 突然案内を頼んで」

「いいえ、構いませんよ。モリアーティ伯爵。」

「ほかでもないモリアーティ先生のお兄様の頼みとあればこれくらい」

その日、アルバートがダラム大学を訪れたのは些細な所用だった。

弟が教鞭を振るうダラム大学の学内の廊下を学長と並んで歩きながら、アルバートは「弟はよくやっていますか?」と世間話のついでに尋ねる。「ええ、もちろん。

優秀すぎて日々驚かされますよ。

先生の授業も生徒たちから人気で……おや?

噂をすればモリアーティ先生ですね?」

「ん? ああ……………」

不意に足を止めた学長にアルバートもつられた

ように立ち止まり、視線を窓の外に向けて弟の姿

を見つけ、名を呼ぼうとして固まった。

中庭の噴水の向こう、テラスの椅子に腰掛けて

テストの採点をしているウィリアムの正面には、

なぜかシャーロック・ホームズの姿がある。

ウィリアムは採点をしながらなにか彼と話して

いるようだが、その表情は楽しそうだ。

ふとシャーロックが笑ってなにかを言い、それに弟の手が止まる。そうして顔を上げ、ウィリアムはとても綺麗に微笑んだ。心からのあたたかな、それでいてどこか儚げなそんな美しい微笑で。

それを見つめるシャーロックのまなざしは優しく慈しむような、愛おしむような顔で笑っていた。まるでそこだけ世界から切り取られたような、

静謐で密やかな、幸せな箱庭のような。

そんな空間に見えて言葉を失った。

シャーロックと話すその表情が、まとう雰囲気が、雄弁に教えたのだ。

自分の知らない表情、知らない笑顔、知らない弟の姿。足下から崩れていくような錯覚で思い知る(ああ、世の中の関節はとうに外れていた)

その日の夜、ダラムにあるモリアーティ邸の自室で机の上に置かれた教材や資料と向き合っていたウィリアムは扉をノックする音に顔を上げる。「ウィル、 今いいかい?」「兄さん どうぞ」ランプのほのかな明かりで照らされた室内。

カーテンの引かれた窓の外からわずかな風の音と葉擦れの音が聞こえてくる。

扉を開けて中に足を踏み入れたアルバートは

「熱心だな」と笑った。

「熱心なのはいいがあまり無理をするなよ」

「はい、ありがとうございます」

「しかし、今日は機嫌がいいのかな?」

椅子に座ったウィリアムのそばまで歩み寄った

アルバートの言葉に、ウィリアムは「ああ、そうかもしれません」と答える。

「優秀な学生が入ったんですよ」

「優秀な学生?」

「ビルという印刷工の息子なんですが、僕しか解けないはずの問題を解いたんです。

だから僕から掛け合って、学校に入れるようにしたんです」

「…へえ」

そう話すウィリアムの瞳は優しい色をしていて、机の上に置かれたテストの答案用紙は確かに満点だ。

だがアルバートの意識をひっかいたのはその脇に置かれた別の答案用紙。0点などという悲惨な答案用紙には、あの探偵の名前がある。

「で?あの探偵もテストを受けていたのか?」

「え、あ、ああ。そうなんですよ。驚きました」

ウィリアムは一瞬「なんでそのことを」驚いて、

すぐ机の上にあった答案用紙を見て察したようだ。

「なのでホームズにこの満点を取った生徒を」

探してもらったんですよ。

ビルを入学させるのにも協力していただいて…」

そう言いながら答案用紙を手に取り、ウィリアムは思い出したように、くすと笑う。

その表情もあのとき、シャーロックに見せていたようなやわらかなものだ。

「ちょっと面白いですよね。

あれだけの頭脳があるのに数学はからっきしなんて。そのあとホームズの依頼である事件の捜査に協力したんですけど、そのときだって僕の意図を的確に読む頭の回転の速さがあってあれだけ知略に長けているのに。

彼は頭の部屋にあまりたくさんのものを詰め込みたくないって言ってましたが」

その言葉にウィリアムはあの昼休みにああして

突然来訪したシャーロックの話に付き合っただけではなく、彼の捜査にまで協力したと知ってどろりと腹の奥底にどす黒い感情が澱んだ。

「昼休み、なにを話していたんだ?」

「…え、兄さん、いらっしゃってたんですか?」

「ああ。込み入った話をしているようだったから声をかけずに帰ったが」

「気にせず話しかけてくださればあ駄目ですね」

「彼は兄さんの声を覚えているはずですし…」

そう、シャーロック・ホームズはあの教会の懺悔室で犯罪卿として対峙したアルバートの声を覚えているはずだ。だから声をかけず、アルバートはそのまま帰ったのだ。そのことがなければきっと声をかけ、弟をあの男から引き離していただろう「それで話していたのはその優秀な学生のことかい?」「…犯罪卿のことです」ウィリアムは一瞬の間の後、ゆるやかに瞳をほころばせて答えた。「彼は命を賭けてでも僕を捕まえたいと言った。義賊であろうと関係ないと。彼の思想も考えも、僕と同じで強い共感を覚えます。最初はただ適格者だと思って彼を選びましたが、…今は彼で本当に良かったと思う」そう心からの、慈しみと深い情愛のこもった声で綴ったウィリアムの横顔に──そこににじんだあたたかな感情に箍がぷつりと切れて外れた気がした。

「ウィル」はい。 な…」なんですか兄さん、と無防備に顔を上げたウィリアムは間近にあった兄の顔と、唇に触れた感触に呼吸を止める、

花の蕾のようなやわらかな唇をそっと塞いで、

見開かれた真紅の瞳を絡め取るように目を逸らさずに見つめた。「……兄さん………?」

茫然と、まだ頭が理解出来ない様子で自分を呼んだウィリアムの身体を軽く押すと、簡単に机の上に押し倒せる。「…兄さん…? な、に…」

「ウィリアム。彼はおまえの目的にとって、今や欠かすことの出来ない存在だな?」

動揺をあらわにするウィリアムの身体は、自分に比べれば細い。その身体を机の上に組み敷いて、覆い被さると戸惑うその顔の横に手を突いた。 机の上に散らばった答案用紙。その中にあの男のものがある。それが忌々しくて机に突いた手に力を込めればぐしゃり、と彼の答案用紙が音を立ててひしゃげた。「ホームズを殺されたくはないだろう?」アルバートの言葉に真紅の瞳が見開かれる。信じられないように。「…なんで、彼が。 どうして、そんな…」かすれた声が弟の唇からこぼれる。その弱々しい響きが、弟にとってのあの男の存在の重さを語っていた。

「気づいてないのか?おまえは彼をただの探偵役とは見ていない。──おまえは彼を、シャーロック・ホームズを恋しく想っている」

あえて自覚させるように告げてやればウィリアムが呼吸を失う。驚愕に見開かれた瞳が徐々に、慟哭に揺れていくのを心臓がすりおろされる心地で見ていた。殊更に優しく頬を撫でれば、緊張と恐怖に冷たく凍えている。

「…でもそれは叶わないものだ。彼とおまえの道が交わることは永遠にないのだから」「………………」

「でも僕なら一緒に堕ちてあげられる。

一緒に地獄まで行ける。わかるだろ?ウィリアム。誰の手を取ればいい?」

青ざめた白い頬をあたためるように触れ、

間近でささやくとそのまま顔を寄せ、唇を塞ぐ。やはりひどく冷たかった。そのままタイをほどき、シャツのボタンを外してもウィリアムは抵抗はおろか、微動だにしない。ただアルバートにされるがままになって、見開かれた瞳が人形のように虚ろな色で天井を見上げている。

「………僕が、ホームズを………」

その唇から、無残に痛んだ声がぽつりとこぼれたアルバートが言わなければおそらく、まだ自覚することのなかった感情。けれどいつかは芽吹いた感情だ。ならば先に芽吹かせて摘んでしまえばいい。知らぬところで咲いてしまう前に、摘み取ってしまえば。「………シャーロックを」

(愛しているなんてそれはなんてひどい悲劇だ)そう絶望したような声が落ちるのを聞いて、

アルバートは優しく微笑むともう一度キスをした「だから、おまえは僕のものにおなり。愛してあげるから」そうささやいて人形のように動かない身体を抱きしめる。その心をずたずたに引き裂いて、そうして手に入れた。蝶の羽根をむしるように、その翼を奪い取って閉じ込めた。見開かれたままの鮮やかな緋色の瞳から一筋、涙があふれて紙の上に落ちる。雫が落ちた先、彼の名が刻まれた答案用紙に染み込んだ涙が彼の名前をにじませていった。

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