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202X年、四月の金曜日。金曜日はイスラム教の安息日、休日であり、ユダヤ教徒にとってはその日の日没から安息日に入る日だ。集団礼拝を終えたアラブ系イスラム教徒と、もうじき一切の活動を禁じられるユダヤ教徒の両方がつかの間の楽しみを求めて、ベン・イェフダ通り、エルサレム新市街最大の繁華街をにぎわわせていた。
エルサレム。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教全ての聖地を持つが故に、長い戦争の歴史に翻弄されてきた古都。イスラエルが首都と言い張り、アラブ人はそれを認めず、東と西に引き裂かれたまま、アラブ系とユダヤ系双方のイスラエル人が混在している街。
その昼下がり、五歳のラーニア・アル・フサインはイスラムの集団礼拝を終えた両親に連れられて久しぶりに、エルサレムの新市街へとやって来た。同じく五歳のユダヤ人の少女エルゼ・リブナットも、安息日入りの前の気晴らしに両親と共に遊びにやって来た。
様々な個人商店が立ち並び、ヘブライ語、アラビア語、英語の看板が入り混じる一角ではアラブの老婆が道端で色とりどりの花を売り、若者たちは欧米風のカフェやハンバーガーショップの前で列を作っていた。
一見世界中のどこの都市にでもある、のどかな休日の光景に見えるだろう。もし、街角の要所要所に自動小銃を下げた兵士が立っていなければ。パレスチナ紛争は一向に解決の兆しを見せないまま、奇妙な現状維持の状態が続いていた。
アラブ人の自爆テロを警戒して、アメリカ資本のハンバーガーショップに入るだけでも、イスラエル軍兵士の金属探知機によるチェックを受けねばならないこの街では、しかしそれがもはや日常の一部と化していて、誰も気にもしなくなっていた。
とあるカフェの入り口の列に並んで兵士によるチェックの順番を待っている間、そんな難しい話はまだ理解出来ない同い年の少女たちは親の目を盗んで、お互いに微笑み合っていた。エルゼの西洋風のおしゃれなワンピースをうらやましそうな目で見つめる、ラーニアはまだ頭全体を覆うベールの着用を義務付けられない年。自分の足元まで覆う灰色の長い上着と、エルゼの来ている可愛い服の落差に戸惑っているように見えた。
列はなかなか前に進まなかった。親たちがそれぞれ自分たちの言語でヒマつぶしにおしゃべりしている横で、エルゼとラーニアは片言のヘブライ語とアラビア語をお互いに、一言二言囁き合っては笑うという事を繰り返していた。
数分後、カフェの近くの通りの角から突然、黒い喪服に頭のてっぺんからつま先までを包んだアラブ人の女が、すさまじい勢いで駆け出してきた。後ろからイスラエル人の兵士数人が走って追いかけて来て、ヘブライ語と英語で二度辺りに叫んだ。
「黒い未亡人だ! 逃げろ!」
なぜそれぞれの親たちがたちまち顔面蒼白になり、母親が悲鳴を上げたのか、エルゼにもラーニアにも理解出来なかった。夫をイスラエルとの紛争で失くしたイスラムの女が自爆テロに志願する、それを「黒い未亡人」と呼ぶ、そんな事を瞬時に理解するには、彼女たちは幼すぎた。
その黒衣の女はまっすぐ二人のいる方に走って来た。周りの大人たちがパニックになって逃げ出す。人波に巻き込まれてエルゼもラーニアも両親とつないでいた手を引き離された。エルゼが人ごみに押されて石畳の上に転倒する。走り寄って助け起こそうとするラーニアは、自分の眼前で黒衣の女の足が銃弾で打ち抜かれ、女が地面に倒れ込むのを見た。
次の瞬間、閃光と黒煙と爆発音が辺り一帯に轟き渡り、エルゼとラーニアは抱き合うようにして一緒にその渦に巻き込まれた。
割れたガラスと飛び散ったレンガの破片と、そして大量の血だまりの中で、エルゼとラーニアの血まみれの小さな体が並んで横たわっていた。やがて辺りは騒然とし、救急車と警察車両のサイレンがさっきまでの平和な空気を引き裂いた。
黒衣の女は即死し、遺体は原型を留めていなかった。体に巻きつけた爆薬の質が悪かったのか、女から二メートル以上離れていた人たちは軽傷で済んだ。エルゼとラーニアだけが内臓にまで達する重傷を負い、一緒に西エルサレム市内の大学病院へ搬送された。
一時間後、駆け付けた病院の医師、看護師、医療技術者たちはエルゼとラーニアの手術を担当する事になった医学部教授の説明に思わず耳を疑った。
「気は確かですか? 教授! こんな……」
アラブ系の検査技師が叫んだ。ユダヤ系の女性の医師が言葉を続ける。
「ユダヤ人とアラブ人の体を……そんな事って」
だが、ユダヤ人の執刀医である教授は決然として彼らの声を遮った。
「医者が人の命を救うのに、ユダヤ人もパレスチナ人もあるまい。二人とも血液型のRh因子がマイナス。輸血すら手配できないこの状況で、あの少女たちを両方とも救う方法は他にない。こんな偶然は奇跡だ。その奇跡をもたらしたのが、我々の神であろうと、イスラムの神であろうと、そんな事はどうでもいい!」
「しかし、それ以前に医学的に無謀です! こんな延命処置は聞いた事もありません!」
それでも喰ってかかる東洋人の女性がいた。教授はその日本人、常盤美奈に顔を向けて、一切の感情がこもらない冷徹な口調で言った。
「防衛医科大学の学生である君には気違い沙汰に見えるかもしれんが、これが今の世界の現実なのだよ、ミス・ミナ・トキワ。とにかくこれ以上議論している時間はない! 異論がある者は今すぐここから立ち去りなさい! この手術はたとえ私独りでも行う!」
結局、常盤美奈を含めて全員が教授の指示に従い、その前代未聞の外科手術は開始された。十二時間にもおよぶ長いオペの間、教授以外の誰もそれが成功するとは思っていなかった。だが、手術は奇跡的に成功し、エルゼとラーニアは一命を取り留めた。
その一ヶ月後、二人の少女のベッドが並んでいる特別病室の前には世界中からのジャーナリストたちが詰めかけていた。エルゼとラーニアを執刀した教授が全員を中に招き入れ、看護師に命じて二人の上半身を覆うシーツをまくり上げた。
一瞬の沈黙の後、ジャーナリストたちは驚愕の声を上げた。二つ並んだベッドの上にはエルゼとラーニアが横たわっていた。もう意識も戻っていた。だが、ジャーナリストたちを驚愕させたのは、エルゼの左胸とラーニアの右胸を繋ぐ何本もの太い医療用チューブだった。ベッドの間には、四角いスーツケースほどの大きさの人工心肺装置が置かれ、それが二人の少女の体を繋いだ何本ものチューブの中の血液や体液を循環させている。
あの爆発で、エルゼは爆弾の破片で心臓を傷つけられてその機能を失った。ラーニアは爆炎を吸い込んで肺を内側から焼かれ、両肺の機能を失った。前代未聞の外科手術は、彼女たちの血管をつないで、お互いの失われた臓器の機能を補完する事によって、二人を生き永らえさせるという物だった。
記者たちのカメラのフラッシュが部屋中を埋め尽くす。アメリカのニュース専門チャンネルの女性記者がビデオカメラを肩に担いだ男性カメラマンを従えて、教授にマイクを突きつけて問う。
「これは人体実験ではないか、という批判がありますが?」
「そうだったら、何だと言うのかね?」
教授は冷たい視線をその女性記者に向けて答えた。
「彼女たちの血液型は共にA型、そしてRh因子が共にマイナスだった。Rhマイナスの血液型を持つ人間は非常に稀だ。それだけじゃない! 白血球と血小板のHLA抗原の型まで同じ。こんなに多くの因子が合致する組み合わせなど奇跡に等しい。これ以外にこの少女たちの命を救う方法はなかった」
女性記者は一瞬ひるんだが、すぐに詰問調になって言い返した。
「ですが、ユダヤ人とアラブ人の体をこんな風にする事に抵抗はなかったのですか?」
「この子たちは、このエルサレムの象徴の様なものだ」
「エルサレムの象徴?」
「ユダヤ人とパレスチナ人、東エルサレムと西エルサレム。お互いに無くては生きていけないユダヤ系とアラブ系の、その象徴だ。それが嫌だと言うのなら、世界中の医学者、科学者にこう伝えなさい。この子たちに私が施したのは一時的な延命措置に過ぎない。臓器移植でも人工臓器でも、サイボーグ手術でも何でもいい。この子たちの体を再び分かつ事が出来る技術を発明してくれ! そうしてくれたら、私は喜んで人体実験の罪で、法廷で裁かれてやろう!」
「教授、落ち着いて下さい!」
今にもその女性記者につかみかからんばかりの剣幕でまくし立て始めた教授の腕をつかんで叫んだのは常盤美奈だった。教授はそれでもなおビデオカメラに向けて怒鳴った。
「我々の世代がパレスチナ問題を解決出来ていれば、そもそもこんな事は起こらずに済んだ! 医者の仕事にケチをつけているヒマがあったら、他にするべき事があるだろう!」
その光景を、日野雄平は横須賀海上自衛隊基地の食堂のテレビで見ていた。同じコースの士官候補生が雄平に近づいて来て感心したように言った。
「おい、日野。あそこに映っているの、おまえのカノジョだろ? 彼女、エルサレムにいるのか?」
雄平はちらりと彼に顔を向け、また食い入るようにテレビの画面に視線を戻して答えた。
「ああ、イスラエル軍の緊急救命技術を研究するために防衛医科大学校から派遣されているんだ。こうして見ると日本は、つくづく平和だな……」