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第22話、読み終わりました。藤堂家からの夜会の招待状──このタイミングでの招待、侯爵家としては断れない絶妙な pressure がかかっていて、胸がざわつきました。そして何より、編集部で白百合の原稿を目にした瞬間の「下がり藤の紋」の浮かび上がり方、ぞっとしました…紫がかったインクも、細いペン字も、すべてが繋がる怖さと美しさがあって、鳥肌が立ちました。幼い頃から「神田の活版所の娘」として培った校正の目がここで生きるのも、胸に沁みます。次話が待ち遠しいです。
「違います」
声は、思ったよりまっすぐに出た。
「私は、何も書いておりません。人様に読んでいただくような文章を書いたのは、女学校の文芸部の回覧誌くらいです」
言ってから、しまった、と思った。
文芸部。千鶴さんがいた部だ。
侯爵様の表情は、変わらなかった。
「わかった」
それだけだった。
侯爵様は雑誌を閉じ、調理台の下の屑籠に落とした。それから鍋に向き直り、私の椀に二杯目を注いだ。
「冷める」
「……はい」
信じてくださったのですか、とは訊けなかった。
訊けば、答えを聞かなければならない。
スープは、さっきと同じ味がした。
けれど二杯目は、半分しか喉を通らなかった。
侯爵様は何も言わずに、私の残した椀を引き取り、自分で飲み干した。
翌朝、厨房の台の上には、いつものように竹皮の包みが置いてあった。
侯爵様はもう出かけたあとで、包みの紐の下に、四つに畳んだ半紙が一枚挟んであった。
「雨。縁側の拭き掃除は女中にさせろ。膝を冷やす」
横画がわずかに右へ上がる、あの字だった。
昨日、縁側で雑巾を使っていたのを、どこで見ていたのだろう。
私は半紙を、行李の中の、前の半紙の隣にしまった。
疑われているのか、案じられているのか。この人のすることは、いつもその両方に読める。
包みを開くと、握り飯が二つと、甘い卵焼きが入っていた。卵焼きは、少しも焦げていなかった。
*
二日後の朝、家令室に呼ばれた。
真柴さんの大机の上に、一通の封書が置かれていた。
「藤堂子爵家から、夜会のお招きでございます。七月十五日、土曜の晩」
厚手の洋紙の招待状は、縁に細い金の箔が押してあった。下がり藤の紋が、紙から浮き上がるように型押しされている。
封筒の宛名は「久遠寺冬馬様 御令室様」。紫がかったインクの、細いペン字だった。
招待状には、一枚の便箋が添えてあった。子爵夫人の名で、「是非とも御令室様にもお運びを」とある。薄くて、指に吸いつくように滑らかな紙だった。
「大奥様は、何と」
「お腹立ちでございます。ですが、お断りにはなれますまい」
真柴さんは、眼鏡の奥で目を細めた。
「あの連載が出たこの月に藤堂様のお招きを断れば、世間は、久遠寺家が何かを恐れて引きこもったと噂します。御前も、ご出席なさるそうで」
「旦那様が」
「はい。私もお供いたします。大奥様は、藤堂の敷居は跨がぬと仰せですので、奥様と御前のお二人で」
真柴さんは招待状を封筒に戻し、文箱の脇の書状挟みにそっと挟んだ。
「返書は、私がご用意いたします。奥様は、何もご心配なさらず」
家令室を出ると、廊下の柱の陰で、百合絵様が手招きしていた。
「お義姉さま。夜会、あたくしは連れていってもらえないの。お母様が、女学生の出る場所じゃありませんって」
百合絵様は唇を尖らせ、それから声を落とした。
「それより聞いて。真柴が雑誌社に抗議の手紙を出したでしょう。そうしたら、筆者のことはお答えいたしかねます、って返事が来たんですって。白百合が誰なのか、編集部の人しか知らないのよ」
編集部の人しか、知らない。
私は、帯に差したルーペの縁を指でなぞった。
*
『婦人の窓』の編集部は、銀座の大通りから京橋のほうへ少し入った、二階建ての木造家屋にあった。
一階の硝子戸の奥で、活版の機械がごとん、ごとんと鳴っている。インクと油の匂いが、通りまで流れてきた。
懐かしい匂いだった。
屋敷を出る口実は、本所の父の見舞いにした。
帰りに本所へ寄れば、嘘にはならない。前にも同じことを、自分に言い聞かせた。
お鈴には、停留所の前の甘味屋で待っていてもらうことにした。白銅貨を一枚握らせると、お鈴は目を輝かせて、何も訊かなかった。
二階の編集部は、紙の山の間に机が四つ並んでいるだけの部屋だった。
奥の机で、丸顔の男が、耳に赤鉛筆を挟んだまま校正刷りに顔を突っ込んでいる。
「投稿でしたら、そこの箱に入れといてください。お返事は三月先」
顔も上げずに言われた。
「編集主任の大庭さんでいらっしゃいますか。三輪と申します。随筆を書いておりまして、一度お目通しをいただけたらと」
三輪は、亡くなった母の旧姓だった。
大庭さんは、ようやく顔を上げた。鼻の頭に、汗の粒が光っている。
「三輪さん、ね。ありがたいけど、うちは今それどころじゃなくて。校正係が辞めちまって、来月号がちっとも刷り上がらないんですよ」
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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机の上に、刷ったばかりの校正刷りが広がっていた。
私は、つい、そこに目を落とした。
「……そこ、逆さまです」
「へ?」
「三行目の『婦』の字です。活字が上下逆さに組まれています。それから、隣の段の『ゝ』が一本だけ書体が違います。拾い違いでしょう」
大庭さんが、耳から赤鉛筆を外した。
「それと、見出しの『道』」
私は、頁の頭の見出しを指さした。
「しんにょうの撥ねが、欠けています。四月号の巻頭の見出しと同じ活字です。早めに差し替えたほうがよろしいかと」
大庭さんは、校正刷りと私の顔を何度も見比べた。
それから、階段の上から一階へ怒鳴った。
「おおい、親方! 見出しの『道』、欠けてるって知ってたか!」
階下から、何やら言い返す声がした。大庭さんは額の汗を手拭いで拭いて、私に向き直った。
「三輪さん。あんた、何者です」
「神田の、活版所の娘です。もう、店はありませんけれど」
大庭さんは、しばらく黙っていた。
それから、机の上の紙の山を、両手でどさりと私の前に寄せた。
「お礼は大して出せません。けど、週に二度でいい。校正を手伝っちゃもらえませんか」
「お礼は要りません。その代わり」
私は、山の一番上の束に目をやった。表紙代わりの紙に、「青髭 七月号」と赤鉛筆で書いてある。
「白百合さんの原稿を、一目でいいから拝見したいんです。どんな字でお書きになる方なのか、ずっと気になっていて」
大庭さんは、困ったように頭を掻いた。
「筆者の身元は、明かせないことになってましてね。名前も住所も、あたしと社主しか知らない。どこぞの華族のお屋敷から、抗議の手紙まで来てるんですよ」
「お名前は要りません。字だけです」
大庭さんは、ため息をついて束の紐をほどいた。
「……校正のついでに目に入っちまうものを、見るなとは言えませんわな」
*
白百合の原稿は、原稿用紙ではなかった。
上質の洋紙の便箋に、万年筆で縦にびっしりと書きつけてある。郵便で届いたのだろう、三つ折りの癖が残っていた。
紫がかったインク。細くて、少し右へ傾いた字。
横画の書き出しが、どれも妙にかすれている。ペン先が紙に引っかかったように、小さなインクの飛沫が散っていた。
便箋をめくると、婚礼の夜の続きが書かれていた。
三人目の妻が、夜ごと夫の厨房で食事を与えられること。女中部屋の謄写版。茶会で倒れかけた女中。
どれも、少しずつ形を変えてあった。けれど、元の形がわかる者には、わかる。
私は一枚を手にして、窓辺に立った。
梅雨の晴れ間の白い光が、硝子越しに射し込んでいる。
どこかで見たような手触りだった。薄くて、指に吸いつくように滑らかな紙。
光に、かざした。
繊維の影の奥から、ぼんやりと、別の形が浮かび上がってきた。
垂れ下がる二房の花と、それを抱くように反った葉。
下がり藤の紋だった。