Blue
「あ…」
電車を途中下車したとき、腕時計を見るともう6時に近かった。ピクシスの閉店時間まぎわだ。残業していて、いつもより遅くなったせいではある。
「どうしよ。ちょっとだけ行くか」
いくぶん通い慣れ始めた道を歩きながら、この道を通るのはあと何回なんだろうと考えた。
あとどれくらい、俺はマスターのコーヒーを飲めるだろう。
そう思っていると、あっという間に店の前に着いた。しかしいつもと違ったのは、ドアノブにかかっているプレートが「closed」になっていることだ。
「あれ」
もう閉じたんだろうか。それとも、都合で開けられなかったのか。
小さな窓から見える店内は、明かりが点いていなくて暗い。どっちにしろ、今日は行けないようだ。
俺は少し肩を落としながら、また電車に乗って今度は家路をたどった。
車窓の外を右から左へ流れていく夜景を眺めていると、ふいに脇腹のあたりが鈍く痛むのを感じた。
これは長くなりそうだな。
俺はポケットに入れていたピルケースの錠剤を飲む。
痛みの原因——膵臓がんが見つかったとき、自覚症状なんてほとんどなかった。体重が減っていたけど、自分の少食のせいかな、なんて思ってたから。
何年かに一度、忘れた頃に勧められる検診を受けたときには、時すでに遅し。
膵臓はそれまで沈黙を保っていたはず。
なのに、最近になってやけに暴れ出すようになった。まったく不条理なものだ、なんて心の中で毒づいてみても現状は変わらない。
薬を飲んでも治らない疼痛に辟易して、俺は下りたことのない駅のベンチに吸い込まれるようにして座った。
投資先にも、そろそろ話さなきゃなんないな。あそこは好意的にしてくれてたけど、会社を畳むなんて言ったらどんな反応をするだろう。
「……お兄さん、大丈夫ですか?」
その声に顔を上げる。スーツを着た女性が、俺をのぞきこんでいた。俺がお腹を抱えるように上体を倒していたからだろう。
「すいません、大丈夫です」
とっさに答えた。反射的にその言葉が出てしまう。
何十歳も年上そうな彼女は、「お気をつけて」と心配そうな視線を残して去っていく。
大丈夫じゃないって言ってみたら、いったい誰が手を差し伸べてくれるだろう。
俺は喫茶店のマスターを思い浮かべた。ピクシスの彼なら、いつでも心配してくれるかもしれない。
でも、彼だって心臓病患者だ。マスターこそ、手を差し伸べられるべき側にいる。
世の中なんて、不安定で脆くて、薄情なもんだよな。
まぁ声を掛けてくれる人がいるだけいいか。
いくらかの諦めをつけて、俺はホームに滑り込んできた準急列車に乗った。
続く
コメント
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雑談で言ってた通り、タイトルがオシャレすぎて…✨そりゃあ気に入るよ!!笑 そして今更、1話のタイトルが「透明色」なことに気づいてしまった…👀