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深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
みどりは逃げている。何から?
みどりは助けを乞う。誰に?
ゆかりはどこ? どうして助けてくれないの?
熱い。熱い。熱い。助けて。
ユカリは熱された鍋に触れた手のように飛び起きる。心臓が高鳴っている。冷や汗が背中を伝う。上半身を起こして部屋を眺めるユカリの姿は水面下に不穏な気配を感じた舟釣り人のようだった。
義母ジニはもう起きているらしい。誰かがそばにいるような気配を感じたが、他には誰もいない。
ここはビアーミナ市のシシュミス教団に貸し与えられている屋敷のユカリの部屋の寝台の上だった。確かに他には誰もいない。
ふと気づく。心臓が高鳴っているはずがない。そして確かに高鳴っていない。きっと夢の中で、夢の心臓が高鳴っていたのだ。ユカリは心を落ち着けるように胸に手を当て、異変に気づく。もう一度部屋に他に誰もいないことを確認し、上衣を脱ぐ。
手で触れる。いや、触れない。以前ならば触れられていた肌が、肉が、骨が、臓腑が消えている。穴が広がっていた。心臓一つ分だった胸の穴は頭一つ分くらいの大きさになっていた。かろうじて脇腹で繋がっているが、それで支えられるはずがないのだ。
もしも完全に切り離された場合はどうなるのだろう。首と体が離れてしまうのか、それともあるべき一定距離が保たれるのか。少し見てみたいと思ってしまった頭をぶんぶんと振り、ユカリは上衣を着直して寝台から這い出る。
何はともあれ謎の闇の秘密が解き明かされつつあるのだ。赤い髪の友人と義母ならばそれができるとユカリは信じている。それはいずれ実母とその友蛇が助かることを意味し、自身の胸の穴が塞がることを意味しているはずだ。
ユカリは何となく起きて部屋を出たものの、いつも通り朝かどうか分からない。朧気な緑光は欠片も強まらず、また弱まりもせず、天から周期という秩序を奪い去ってしまった。ユカリ自身の体感としてはよく眠れたような気もすれば、上手く寝られなかったような気もした。朝昼夕に聞こえるハーミュラーの時報の歌を聞き逃していてもおかしくはない。
「おはよう、ユカリ。よく眠れた?」
別の部屋から出てきた元護女エーミことグリュエーと朝の挨拶を交わす。寝起きにしては溌溂とした表情で、世の中には幸福の他には何もないのではないかと錯覚させられる。
「グリュエーって本体は割と大人で常識的だよね」笑みが伝染した寝ぼけ眼のユカリは改めて最も古い旅の仲間の印象を述べる。
「ユカリと旅したグリュエーは朝の挨拶すら危ういほど子供で非常識だったの?」
「そうだね。非常識というか世間知らずというか。話したことはないの?」
「あるけど、自分自身でもあるからか分かんなかったね。それに魂を宿せるのは非生物だけだからね」
ユカリは一瞬言葉の意味が分からなかった。普通非生物とは喋れないのだ。それが常識だ。
「ああ、魔法少女の【会話】の魔法が原因なのかも」
「そこら辺はあとでまとめてみんなに話すよ。この魔法も、グリュエーの人生に深く関わってるからね」
そう言ったグリュエーの表情はどこか寂しげだった。
結局まだ朝の時報であるハーミュラーの歌、『黎明告げる祈り』は聞こえず、早朝に分類される時間だった。しかし勿論朝の清らかで透き通った空気など存在せず、昼と夕の間のようなどっちつかずの気配が屋敷の隅々まで漂っている。
いつも通り皆が居間に集まる。ユカリ、ベルニージュ、レモニカ、ソラマリア、グリュエー、ジニ、そしてたぶんカーサ。ヘルヌスはいない。
朝食に麺麭と羊乳の乾酪を食べ、人心地がついたところで、これまでのこと、これからのことを話し合う。
「まずは深奥の話? カーサさんも聞きたいですよね」
どこにいるか分からない蛇にユカリは呼びかけた。
「いや、もう十分に話した。昨夜な」とジニの座る椅子の辺りからカーサの声が聞こえた。
言われてみれば、とユカリは気づく。ジニとベルニージュが眠そうだ。ベルニージュの長い睫毛がしきりに瞬いている。随分話し込んだらしい。
「じゃあ謎の闇、深奥への出入り口を開くの?」とユカリは期待を込めて尋ねる。
しかしベルニージュもジニも首を横に振った。ベルニージュが代表して説明する。
「魔法の混沌を作らないといけない。これは自前で作るよりは既に用意された場所に移動した方が早い。魔法の混沌っていうのは文字通り、無数の魔法が無秩序に存在する場、空間。迷宮都市ワーズメーズとかウィルカミドの地下墓地みたいなね」
ゆえにそれらの土地で巨人の遺跡が見つかったということだ。
「クヴラフワで言うと残留呪帯みたいな? あれも間違いなく混沌状態だよね」
ユカリは怪訝な表情をせざるを得ない。謎の闇よりずっと危険だ。確実な死と隣り合わせの空間だ。
「うん。その通り。でも呪いである必要はないからね。だからワタシたちももう一度巨人の遺跡に行かなくてはならない」
「そっか。巨人の遺跡のある場所には魔法の混沌があるか、あったはずなんだね。それで深奥の出入り口が開いて、遥か古代に深奥に消えていた遺跡が逆に出現した」
「ご名答」とジニは心から嬉しそうに娘を称える。「ってわけで引き続き巨人の遺跡を探さないといけない」
目的ははっきりしたが特にやるべきことは変わらないというわけだ。
「今後の方針が決まったところで、それじゃあ、グリュエーの旅路についても聞いておきたいな」とユカリは今思いついた風に提案する。「良ければだけど」
「良いけど、別に面白いことなんてないよ」誰も異論などないことを確認し、グリュエーが語り始める。「えっと、グリュエーはマローガー領のバソル谷に生まれた。知っての通り、クヴラフワは中央のグレームル領を除いた全土が呪われてて、バソル谷は例外ではなかった。レモニカが解呪してくれた『快男児卿の昇天』は心に働きかける呪いで、人々に高所を希求させる呪い……。ソラマリア、何か聞きたいことがある?」
ソラマリアは難しい顔をしていた。
「いや、ちょっと疑問に思っただけだが」グリュエーにさらに促され、ソラマリアは尋ねる。「元々クヴラフワに残された呪いはクヴラフワ衝突の、戦争の残滓だろう? 一体どういう効果を狙ってそんな呪いを戦場で使うんだろうと思ってな」
「それについても寺院で調べてはいたけど、クヴラフワ衝突に関しては聖風防以上の僧侶しか近づけない秘文書扱いで、正式なところは分からなかった。でも色々な人と話して諸説考えたよ」グリュエーは一つ一つ例を上げていく。「単純に混乱を生むため説。正式には自殺を促す呪い説。作戦の都合上、地面から意識を逸らせたかった説。作戦の都合上、特定の高所に誘き寄せたかった説。山に陣取っていたとか、落雷の魔術の成功率を上げるためだとか。逆にその場から動いてくれるならなんでも良かった説とか。一番有力なのは投げられる呪いはなんでも投げた説だけど」
ソラマリアは深く感心したように何度も頷く。「なるほど。いや、すまない。ありがとう。話を続けてくれ」
「七歳の頃、バソル谷にシシュミス教団の巫女ハーミュラーがやってきた。できる限り盛大にお祭りをしてたよ。あの時はまだ教団の神官もいたし、思い返してみればネークの塔への信仰を取り込もうとしていたね。その祭りの一場面でハーミュラーが入神状態になって託宣が述べられた。それがグリュエーの魔法への言及とクヴラフワに救いをもたらすという予言だった」
そこでグリュエーは一息つくが口を挟む者はいない。
「グリュエーの特別な魔法っていうのは自分の魂を自在に操れること。分割したり、憑依させたり、基本的に霊魂に作用する魔術は回避できる。呪文も無しにね。いわゆる妖術」
「妖術?」と呟いたのはユカリだ。
他にもレモニカとソラマリアはよく分かっていないようでユカリは少し安心する。答えを求めて皆の顔を窺っているとベルニージュが口を開いた。
「妖術っていうのは肉体や魂に宿った魔法のことだよ」とベルニージュは説明する。「言うなれば体やその一部が魔法道具のようなもの。大概は呪文や儀式のような手続が無いか、少ない。便利だけど、代わりに行使者の意図と関係なく発動してしまう例も多い。有名どころだと邪眼、邪視の類がそうだね。石化の邪眼はユカリとレモニカも見たよね。巨大な鞭の先に取り付けられていたやつ。あれは何かの生き物から奪ったのか、クオルが造ったのか分からないけど。他にも他者を魅了する顔だとか、記憶を読み取る手だとか、とても頑丈で強靭な体だとか……。先天的なものと後天的なものがあるけど」
ソラマリアがまさにそうなのだろうか、とユカリは様子を窺うがその表情からは何も読み取れない。
「グリュエーのは先天的なやつ。全部じゃないけど多くの呪いを避けられるから、それを研究すればクヴラフワ救済に繋がるかもしれないとハーミュラーは考えたんだよ。三年くらい一緒にクヴラフワ中を巡礼したんだけどね」
「何か成果はあったのですか?」とレモニカが尋ねる。
「グリュエーの妖術について分かったことは沢山あるみたいだけど、クヴラフワ救済に関しては成果といえるものは無かったかな。その後は十歳の時、機構にさらわれてシグニカ行き。それから二年ぐらいかな。護女の修行をしながら自分なりに妖術を研究してた。で、無機物に限って魂を宿せて、使命を与えられるようになった」
「それがグリュエー!」と何だか場違いに嬉しくなってユカリは声をあげてしまった。
魔法少女の【憑依】にも似ている。【憑依】は憑代が生物に限定されるが。
「そう、それが風のグリュエー」グリュエーは静かな微笑みを浮かべて頷く。「風に魂を宿して、グリュエーを救済機構から脱出させられる人を探して導く使命を与えた。魂の半分をさらに四分割して、東西南北にね。そうしてその一つがユカリに出会った」
「二つだよ。アルダニでもう一つのグリュエーに出会って、融合したからね」とユカリが息せき切って報告する。
「そうだったんだ? 少し安心したよ。で、もう一つはソラマリアを導いてくれた。その魂はもうシグニカでグリュエー自身と融合した」
ジニ以外の全員が一連の説明に感心し、驚いていた。何より、ソラマリアが驚いていた。
「もしや、シグニカに私を導いていた風は……」
「ごめんね、ソラマリア。騙すつもりはなかったんだけど。できることは魂の量に比例するんだ。ソラマリアが寺院に潜入した時に接触した魂くらいの多さなら会話できるけど、シグニカに導いた魂は少なすぎて話ができなかったんだよ。ユカリは例外。だからグリュエーなりに奇跡を起こして見せて、ソラマリアの関心を引いたんだ。ソラマリアの、気持ちを利用したこと、謝罪したい」
「いや、良いんだ。気にするな。むしろ背中を押してくれたことを感謝したいくらいのものだ」
言葉とは裏腹にソラマリアは目に見えて落ち込んでいた、その理由を尋ねるのがはばかられるくらいに。
風のグリュエーが本人よりも若干幼かったのも魂の量で説明されるのだろうか。あるいは風と魂を混ぜたことが原因かもしれない。ユカリの出会ってきたグリュエー以外の風は大概奔放な性格だったものだ。
「使命ってのはどの程度魂を縛るんだい? 遠隔操作はできないのかい?」と尋ねたのはジニだ。
「遠隔操作はできない。それぞれの魂は使命に反しない範囲で考えて動く。結局考えているのはグリュエーだから遠隔操作と結果は変わらないと思う」
「長く違う経験をすれば別人にならないかね。反抗はされないのかい?」
「経験したことない。こんなに長い間分割したままなのも初めてだし。でも基本的には意思に関係なく魂同士が近づくと融合するよ。そして記憶や経験は統合される。人格への影響は未知数。ユカリと旅したグリュエーが戻ってきた時は何か影響があるかも」
レモニカが挙手する。
「はい。どうぞ、レモニカくん」とグリュエーは指名する。
「東西南北と仰ってましたね。東と南はユカリさまと出会って、西はソラマリアを導いて、北はどうなっているのですか?」
「それはグリュエーにも分からない。今もグリュエーを助けられそうな人を探しているのかも」
部屋が少しばかりざわつく。
「回収できなかったらどうなるの!?」ユカリは恐ろしい想像を掻き消すように少し語気を強めた。
「グリュエーの力が低減したままになる。今はだいたい六割くらいかな」とグリュエーは呑気にからからと笑う。